錨酒場で酒に溺れる男
月光の月、二十六日目の夜。
王都アウリオンの港湾区は、雨だった。
細かい霧雨が石畳を濡らし、裸電球のない街灯が、油の火で薄く闇を照らしていた。
月影亭から戻って五日。リリアとの夜から二日。俺は港湾区の一角を、一人で歩いていた。
ロッテが教えてくれた第三埠頭の、封印倉庫。
夜十時に鎖の男たちが出てきて、沖の帆船に乗せられるはずの場所。しかし今日の埠頭は静かだった。倉庫の封印は解かれていない。神崎が約束通り一時停止させている。
俺は埠頭から少し内陸に歩いた。
労働者向けの酒場が、路地に五、六軒並んでいる。どの扉にも擦り切れた暖簾。
一番奥の扉の上に、古びた木の看板が掛かっていた。錨の形に彫られた文字。
「錨酒場」
カスパルが言った。
この港湾区に、王宮の閑職の将軍が二十年週の五日、飲みに来る酒場があると。
名はオルヴァン。二十年前の独立戦争の、霧峰の戦いの指揮官。
生還兵四十七名の、指揮官だった男。
俺は扉を押した。
─── ─── ───
店内は、煙と魚の干物の匂いと、蒸留酒の甘い刺激の三つに満ちていた。
十畳ほどの広さ。木の長机がひとつ。椅子は八つ。奥に酒樽が積まれ、その前に店主らしき男が立っていた。
六十がらみ。禿げ上がった頭、太い首、厚い胸板。袖の捲り上げの腕に古い航海船の入れ墨。
グルム、と聞いていた。元船乗り。
客は三人。一人は若い港湾労働者、二人は常連らしき初老の男。
そして奥の席に、もう一人──
一人の男が長机の一番奥で、壁に背を凭せかけ、蒸留酒の盃を両手で包むように握っていた。
五十歳過ぎ。六尺近い背丈。肩幅は広い。髪は半分白い。しかし痩せていない。軍人の体格を二十年の酒で濁らせていない、男の体だった。
服は古い将軍の制服の、徽章を全て外した跡の色の褪せた生地。
右手の甲に、古い傷。剣を握る癖で、皮が厚くなった跡。
目──目は、俺を見なかった。
入り口から、三歩進んだ俺を見なかったことが、既に情報だった。
軍人は、入り口の気配を、必ず見る。反射的に見る。
この男は見なかった。
見る気力を、二十年前に、捨てた男だった。
グルムが俺を見た。
「──一見さん、だね」
「ああ」
「何を、飲むね」
「蒸留酒、一杯」
俺は男の斜め前の席に座った。奥の男とは長机の対角。距離、二メートル半。
男は顔を上げなかった。盃を、両手で包んでいた。
グルムが盃を俺の前に置いた。
小さな陶器の盃。中の酒は、琥珀色。魚の干物の匂いに混じって、強い甘い香り。
俺は一口、飲んだ。
喉が、焼けた。
─── ─── ───
「──旦那、腕が、柔らかい」
奥の男が初めて口を開いた。声は、意外に明瞭だった。酒に、呑まれていない声。
俺の盃を持つ手つきを、見ていた。
「柔らかい、と」
「戦ったことが、ない手だ」
「盃を、棚の上の花瓶みたいに、持っている」
俺は盃を机に置いた。
「剣を、握ったことは、ない」
「文官か」
「戦略顧問、だ」
男の目が、初めて俺を見た。灰色がかった茶の目。焦点が一瞬合った。しかしすぐに外れた。
盃の底を、見つめ直した。
「──王の、新しい参謀か」
「ああ」
「広場で、契約書を光らせた、という噂の」
「噂は、尾ひれがついているものだ」
男は微かに笑った。口元だけ。
二十年、この笑い方しかしてこなかった男の笑い方だった。
俺は男の盃を見た。空に近かった。
「グルム殿」
「奥の方の盃に、同じものを、一杯」
グルムは俺を見た。それから男を見た。
男は何も言わなかった。止めもしなかった。
グルムは酒瓶を持ち、男の盃に注いだ。
男が俺の方を見た。
「──何の、真似だ」
「店の客の、作法と聞いている」
「見知らぬ者が入った時、先に座っていた客に、一杯を奢る」
「港湾区に、そんな作法は、ない」
「前世では、あった」
男の眉が、微かに動いた。
「前世」という言葉を、聞き流さなかった。
「あんた、おかしなことを、言うな」
「時々、言われる」
男は笑った。今度は、少しだけ、声が混じった。
そして奢られた盃を、一息で飲み干した。
─── ─── ───
「──オルヴァン、と言う」
「……ああ」
「将軍と呼ばれていた時期が、短くある」
「今は、王宮の書類仕事の老兵だ」
「高木稜、と申します」
オルヴァンは俺の名を、口の中で一度転がした。
それからグルムに盃をもう一つ、頼んだ。
俺はオルヴァンの手元を、見ていた。
右手の親指が、盃の縁を三度軽く叩いた。
一、二、三。一定のリズム。
盃の縁でも、机の縁でも、同じリズムで指が動くのだろう。
剣の柄を、握る時の、癖。
軍人が剣を振る前に、呼吸を整えるためにする所作。
二十年握っていない剣の癖が、まだ残っている。
(──この男は二十年、剣を置いたのではない)
(──剣を置いたふりをして、毎夜、盃の縁で剣の柄を確かめていた)
俺は少し、黙った。
それから訊いた。
「オルヴァン殿」
「ん」
「霧峰とは、どのような場所ですか」
オルヴァンの指が止まった。
盃の縁の三度目の叩きが、二度で途切れた。
店内の、煙が一瞬止まって見えた。
グルムが酒樽の前で、動きを止めた。
太い首がわずかに、こちらを向いた。
オルヴァンはしばらく、俺を見ていた。
焦点の合った、灰色の茶の目。
二十年、誰かにまっすぐ向けてこなかった目。
「──あんた」
「はい」
「何を、知りたい」
「あなたが、何を、抱えているか」
「……」
「──二十年、盃の縁で剣の柄を確かめている男が、どの戦場の音を未だに聞いているか」
オルヴァンは長い、沈黙の後笑った。
今度は声を立てて笑った。
しかし目は、笑っていなかった。
「──あんた、観察が、鋭すぎるぞ」
「申し訳ない」
「謝るな」
「鋭いのは、おかしいことでは、ない」
オルヴァンは新しい盃を、一口、飲んだ。それからゆっくり言った。
「霧峰は、アウレリア北方の峠だ」
「二十年前、俺が五百人を死なせた場所」
─── ─── ───
グルムが俺の前に、新しい盃を、黙って置いた。
頼んでいない盃だった。
店主の作法。ここから先は、長くなる客のための盃。
オルヴァンは語り始めた。
「二十年前。俺は三十二歳。若き天才、と呼ばれていた」
「アウレリア独立戦争の最後の決戦に、出た」
「五百人の、精鋭を、率いた」
「敵の側面を、突く、作戦だった」
「作戦は、完璧だった。──最初は」
オルヴァンの指が、机の縁を一度強く叩いた。リズムではなかった。
怒りの、叩き方。
「霧が、濃くなった」
「味方の主力軍からの連絡が届かなくなった」
「俺は三十分、迷った」
「撤退すべきか、前進して連絡を待つべきか」
「三十分、だ」
「三十分、俺は決められなかった」
「前進を、選んだ」
「──選んだ瞬間、敵の援軍が俺たちの後方に現れた」
「五百人が、囲まれた」
「生きて帰ったのは、俺を含めて、四十七人」
─── ─── ───
俺は黙って、聞いていた。
オルヴァンは俺を見ていなかった。
盃の底を、見ていた。
しばらく、沈黙。
グルムが酒樽の前から、動かなかった。
常連の二人は、自分たちの盃を静かに飲み続けていた。
この酒場では、オルヴァンの霧峰の話を誰かが聞く時、他の客は自分の酒に集中するという暗黙の作法があるようだった。
オルヴァンは続けた。
「それから二十年」
「俺は毎晩、この酒場で五百人の名前を思い出している」
「一人ずつ名を思い出す」
「月命日には名簿を読み上げる」
「一人では、終わらない。五日、かかる」
「妻は、十年前に、俺を見限った」
「『あなたは、生きている人間の相手をしない』と言われた」
「その通りだった」
「俺は二十年、死んだ五百人と、生きてきた」
「子は、いない」
「子がいなくて、良かったと思う」
「俺の子がもし、俺のような父を持ったら」
「──父の四十七人の、四十八人目になる」
─── ─── ───
俺は自分の盃を、両手で、包んだ。
この男の盃の握り方が、俺にうつってきた。
それほど、この男の話は、重かった。
「オルヴァン殿」
「ん」
「三十分というのは、軍の指揮官の判断基準として短くはないと聞いたことがある」
オルヴァンの目が、俺を見た。
焦点が、合った。
灰色の茶の目に初めて、俺という人間が映った。
「……何を言った」
「三十分迷ったと、仰った」
「しかし連絡体制が整っていれば、三十分は迷わずに済んだ時間ではないか」
「連絡が、届かなかったのはあなたの判断の問題ですか」
「それとも連絡体制を設計できなかった、組織の問題ですか」
オルヴァンはしばらく、俺を見ていた。
目の焦点は、合っていた。
しかし表情は、動かなかった。
「……あんた」
「はい」
「──二十年、誰も俺にそういう問いを投げなかった」
「そうでしょうか」
「俺自身が、誰にも、投げさせなかった」
「自分で自分を裁いていた」
「他人に、裁かれる前に自分で裁けば、楽だったからだ」
俺は頷いた。
「オルヴァン殿」
「──今日、初めて他人に裁かれる機会を、得ましたな」
オルヴァンは笑った。
今度は、目の奥も一瞬動いた。
しかしすぐにまた盃の底に、戻った。
「……簡単な話、では、ないのだ」
「俺が五百人を殺したと、この二十年、信じてきた」
「今日、あんたが『組織の失敗だ』と言ってくれても」
「──俺の中の五百人が、赦してくれるかどうか」
「それは、俺の問題ではない。あの五百人の問題だ」
─── ─── ───
俺は立ち上がった。
「オルヴァン殿」
「ん」
「今日は、これで、失礼いたします」
「一つだけ、お願いがございます」
「何だ」
「明日もう一度、この酒場に伺います」
「私が来る前に、あなたの五百人の名簿を持ってきてくれませんか」
オルヴァンの指が、盃の縁で止まった。
「──なぜ」
「私も、一緒に、読み上げたい」
「名簿を」
店内が一瞬静まった。
常連の二人が、盃を置いた。
グルムが酒樽の前で、目を閉じた。
オルヴァンは長い、沈黙の後、低い声で言った。
「……あんた、本気で、言っているのか」
「本気です」
「五日、かかるぞ」
「五日、お付き合いいたします」
オルヴァンは俺を見た。
目の奥が、濡れていた。
二十年乾いていた目の奥が、濡れていた。
彼は頷かなかった。
しかし俺を見る目が、俺を拒絶しなかった。
─── ─── ───
俺は酒代を、グルムの前に置いた。
グルムは受け取った。
「──旦那」
「ん」
「あんた、何者だ」
「アウリオン王国の、戦略顧問、高木稜」
グルムは少し笑った。
「……二十年、俺はこの酒場であの男の盃を、注ぎ続けてきた」
「あの男を見る人間が、入ってくるのを待っていた」
「今日、入ってきたな」
俺は頷いた。
「グルム殿」
「あなたの、酒は、この男を二十年生かしてきました」
「感謝いたします」
グルムは首を、振った。
「──俺の酒ではない」
「あの男が自分で、生きていた」
「俺は酒を、注いでいただけだ」
俺はもう一度頭を下げた。
扉に、向かった。
扉を開ける瞬間、オルヴァンが一言言った。
「──高木、稜」
「はい」
「明日、俺は名簿を、持ってくる」
「五百人、全員」
俺は頷いた。
扉を、閉めた。
─── ─── ───
港湾区の、雨は、小降りになっていた。
石畳が、油の灯りを、微かに反射していた。
遠く波止場から、波の音が届いた。
俺は歩きながら、手帳を開いた。
月光の月、二十六日目。
錨酒場、オルヴァン将軍。霧峰の五百人。
明日から五日名簿を読み上げる。
ペンを閉じた。
─── ─── ───
【同刻、王宮書記官室】
ロッテが一枚の報告書を、カスパルの前に、置いていた。
「カスパル様」
「師匠が今夜港湾区の、錨酒場に、入られました」
「……ほう」
「オルヴァン将軍と二時間、お話しになったと」
カスパルの目が静かに動いた。
「ロッテ殿」
「はい」
「稜殿は、王国の過去を、掘り起こし始めたな」
「──過去、とは」
「霧峰の戦いは、王国が封印した過去だ」
「アウレリアは独立を勝ち取った。しかし五百人の血で、勝ち取った」
「その五百人を、王国は忘れたことにして生きてきた」
「オルヴァン将軍を閑職に追いやったのも、忘れるための装置だった」
カスパルは窓の外を見た。
雨が霧のように、王宮の庭を覆っていた。
「稜殿は、その装置を、壊し始めた」
「──面白くなる」
ロッテは頷いた。
そして小さな声で言った。
「カスパル様」
「ん」
「師匠、本当に五日付き合われるのでしょうか」
「オルヴァン将軍の、名簿読み上げに」
カスパルは微かに笑った。
「五日どころか、五百人分全員覚えて帰られるだろう」
「あの方は、そういう方だ」
オルヴァン、登場です。
港湾区の雨、錨酒場の煙、蒸留酒の甘い匂い。
二十年、盃の縁で剣の柄を確かめ続けてきた男を、書きたかったのです。
店主グルム、「俺は酒を注いでいただけだ」──この一言を書けて、少し報われました。
二十年、何も聞かずに酒を注ぎ続けた男にも、名前があります。
次話、霧峰の五百人の名簿が読み上げられます。




