第8話 巻き尺では測れません
ボートが止まった。
水面は濁っている。
道路の姿は、どこにも見えない。
黒田は巻き尺を手にしていた。
佐伯は、その姿を見ていた。
「……黒田さん」
「はい」
「ほんまに測るんですか?」
「はい」
「何を?」
「道路幅員です」
「道路、水の中ですよ?」
「承知しています」
「見えませんよ?」
「承知しています」
「じゃあ、どうやって測るんですか?」
黒田は少し考えた。
「……」
そして巻き尺を見た。
「方法を考えましょう」
「今からですか!」
西村が吹き出した。
「佐伯、もう諦めたほうがええ」
「いや、諦めるとかそういう話ちゃいますって!」
山下も困った顔をしている。
「測量データならありますよ」
井上がすぐに資料を取り出した。
「設計幅員も実測値も、全部ここにあります」
「そうです」
黒田は資料を見る。
「データは確認しています」
「じゃあ……」
「ですが、現場も確認したいのです」
「……」
佐伯は黙った。
もう何度目か分からない。
その言葉。
「現場も確認したい」
それが、黒田の中では絶対的なルールらしい。
藤原隊員が水面を見ながら言った。
「でも、この水深だと路面までかなりありますよ」
「そうですか」
「しかも濁っているので、下は見えません」
「分かりました」
「巻き尺を入れても、どこに当たったか分からないですよ」
黒田は巻き尺を見た。
「……確かに」
佐伯がホッとした。
「ですよね!」
ところが黒田は続けた。
「では、別の方法を考えます」
「まだやるんですか!」
松井が笑いながら言った。
「黒田さん、舗装屋のワシから言わせてもろたら、今日は測らんでもええで」
「なぜですか?」
「水の中やからや!」
「……」
黒田は真剣に考えている。
「なるほど」
「なるほど、やない」
西村が突っ込む。
ボートの上に、なんとも言えない空気が流れた。
---
そのとき。
遠くから別の救助ボートが近づいてきた。
高橋が手を上げる。
「こちら、どうですか?」
「大丈夫です!」
高橋がこちらのボートを見る。
そして黒田を見る。
そして、巻き尺を見る。
「……まだやってるんですか?」
佐伯が苦笑する。
「はい……」
「何を?」
「道路幅員を……」
高橋は水面を見る。
「見えないですよね?」
「見えません」
「測れないですよね?」
「測れません」
「ですよね」
高橋は納得したように頷いた。
その隣で藤原が呟く。
「だったら、写真でいいんじゃないですか?」
全員が藤原を見る。
佐伯が言った。
「そうなんです!」
「ですよね」
「完成写真があります!」
山下がすぐにタブレットを取り出した。
画面には、施工完了直後の道路が映っている。
青空。
乾いた舗装。
綺麗な路面。
水など一滴もない。
黒田が画面を見る。
「……」
写真を拡大する。
「なるほど」
「どうですか?」
佐伯が恐る恐る聞く。
黒田は頷いた。
「完成状態は確認できます」
「ですよね!」
佐伯の声が少し大きくなった。
「ほら、写真で分かるんですよ!」
西村も笑う。
「最初からそれでよかったんや」
黒田は写真を見ながら答えた。
「はい」
佐伯は安堵した。
ところが。
黒田が顔を上げる。
「ただし」
「……」
佐伯の笑顔が消えた。
「現在の現場状況については、現地で確認できました」
「はい」
「道路が水没していることも確認しました」
「……はい」
黒田はさらに写真を見る。
「施工当時の状態も確認できます」
「はい」
「必要な資料も揃っています」
「はい」
「問題ありません」
佐伯は思った。
(……終わった?)
黒田が静かに資料を閉じた。
「では、検査を続けましょう」
「……はい」
しかし、そのときだった。
黒田がもう一度、巻き尺を見た。
「ところで」
佐伯の背中に、嫌な汗が流れた。
「この巻き尺ですが――」
「はい」
「せっかく持ってきたので、何か測れるものはありませんか?」
佐伯は即答した。
「ありません」
西村が笑った。
「即答やな」
松井も頷く。
「今日は巻き尺の出番ないで」
黒田は少し残念そうに巻き尺をしまった。
「分かりました」
佐伯は胸を撫で下ろした。
そして黒田が言った。
「では、完成写真を確認しましょう」
「……はい」
佐伯は思った。
ようやく普通の竣工検査に戻った。
だが。
その写真確認の結果が、まさかこの検査全体を終わらせることになるとは――
このときの佐伯は、まだ知らなかった。




