第7話 ボートで現場へ
ボートは、ゆっくりと濁流の中を進んでいた。
エンジン音が水面に響く。
周囲には流木や枝が流れている。
佐伯は船の縁につかまりながら、前方を見つめていた。
「……ほんまに行くんやな」
隣の西村が答える。
「もう来てもうたからな」
「いや、そういう問題ですか?」
「ワシに聞くな」
前方には、昨日まで舗装道路だった場所がある。
しかし、今は茶色い水面しか見えない。
山下が小さな声で言った。
「佐伯さん……」
「ん?」
「あの状態で、何を確認するんでしょう?」
「俺にも分からん」
「出来形測定とか……」
「水深しか測れへんやろ」
「ですよね」
その会話を聞いていた松井が笑った。
「舗装の出来形やなくて、洪水の出来形測るんちゃうか」
「やめてくださいよ」
佐伯は苦笑した。
そのとき。
ボートの前方から藤原隊員が声を上げた。
「この先、少し流れが強くなります!」
高橋隊員が操船を調整する。
「全員、しっかりつかまってください!」
佐伯たちは船の手すりを握った。
ところが。
黒田だけは違った。
座ったまま、検査用バッグを開いている。
「黒田さん!」
佐伯が叫ぶ。
「はい?」
「今、何してるんですか?」
「検査道具の確認です」
「今せんでもええでしょう!」
「現場に到着したら、すぐ確認できるようにしておきます」
黒田は巻き尺を取り出した。
佐伯は絶句した。
「……巻き尺」
「はい」
「ほんまに持ってきたんですか」
「当然です」
西村が頭を抱える。
「そこまで用意周到なんか……」
黒田は巻き尺を腰に戻した。
「検査ですから」
佐伯はもう何も言わなかった。
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しばらく進むと、前方に人影が見えた。
「誰かいます!」
山下が指差す。
自衛隊の救助隊員たちが、別のボートで住民の救助を行っていた。
一人の高齢男性がボートへ乗り込んでいる。
「大丈夫ですか!」
高橋が声を掛ける。
「大丈夫や!」
男性は答えた。
その男性――吉岡正一は、こちらのボートを見ると不思議そうな顔をした。
「兄ちゃんら、こんなとこで何してんねん!」
佐伯が答えようとした。
しかし、その前に黒田が答えた。
「竣工検査です」
「……は?」
吉岡が固まる。
「工事の検査です」
「いや、それは分かるけどやな」
吉岡は水面を指差した。
「ここ、道路やぞ?」
「はい」
「今、水の中やぞ?」
「承知しています」
「こんなとこで何を検査すんねん」
黒田は真剣に答えた。
「現場を確認します」
吉岡はしばらく黒田を見つめた。
そして佐伯に近づいて小声で聞く。
「兄ちゃん、あの人、大丈夫か?」
「……たぶん」
「たぶんて」
西村が吹き出した。
「いや、まあ……仕事にはめちゃくちゃ真面目な人です」
「真面目すぎるやろ」
吉岡は首を振った。
「ワシ、六十七年ここ住んどるけど、こんな検査初めてや」
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さらに進む。
やがて黒田が立ち上がった。
「この辺りですか?」
佐伯が前を見る。
「はい。ここから先が施工箇所です」
「分かりました」
黒田は水面をじっと見る。
何も見えない。
舗装も。
白線も。
側溝も。
すべて水の下。
黒田は船の縁から水面を覗き込んだ。
「……」
「……」
全員が黒田を見る。
黒田が言った。
「確かに、道路がありますね」
佐伯は思わず声を上げた。
「いや、見えませんやん!」
黒田は水面を見る。
「そうですね」
「そうですね、やないですよ!」
西村も笑いをこらえている。
「黒田さん、ほんまに何も見えへんで」
「はい」
「舗装も見えへん」
「はい」
「白線も見えへん」
「はい」
「側溝も見えへん」
「はい」
黒田は静かに頷いた。
「現場の状況は確認できました」
佐伯は一瞬、安心した。
(よし……)
(これで帰れる)
そう思った。
しかし。
黒田は検査用バッグを開いた。
そして――
巻き尺を取り出した。
「では、出来形を確認しましょう」
「…………」
佐伯の顔が引きつった。
「黒田さん」
「はい」
「何を測るんですか?」
黒田は水面を見た。
「道路幅員です」
佐伯は絶句した。
「……水の下ですけど」
「はい」
「測れませんよ?」
黒田は巻き尺を握ったまま答えた。
「やってみましょう」
佐伯は空を見上げた。
「……なんでやねん」
そしてボートは、水没した舗装道路の真上で止まった。




