第6話 道路、水の中ですけど
午前十時三十分。
現場事務所の前。
黒田品質監理官は、いつもの検査用バッグを肩に掛けていた。
そして、その手には巻き尺。
佐伯はその姿を見て、もう一度確認した。
「黒田さん」
「はい」
「本当に行くんですか?」
「はい」
「現場へ?」
「はい」
「道路、水の中ですけど」
「承知しています」
「舗装、見えませんけど」
「承知しています」
「測れませんよ?」
黒田は少し考えた。
「それは、現場に行ってから判断しましょう」
「いや、行く前から分かると思うんですけど……」
西村が横から口を挟んだ。
「黒田さん、ほんまに危ない場所もあります。無理はせんほうがええですよ」
「安全には十分配慮します」
「いや、安全に配慮しても水はありますから」
「はい」
「深さも分からんですよ」
「はい」
「流れもあります」
「はい」
「……」
西村が諦めたように息を吐いた。
「分かりました。行けるところまでにしましょう」
「ありがとうございます」
黒田は真剣な表情で頭を下げた。
その横で佐伯が呟く。
「行けるところまでって……」
山下が答える。
「まさか、ボートまで行くんですかね」
「いやいや」
佐伯は首を振った。
「そこまではせんやろ」
その直後だった。
遠くからエンジン音が聞こえてきた。
現場の水面を、一隻のボートが近づいてくる。
ボートには自衛隊員が乗っていた。
高橋隊員が岸に近づき、声を掛ける。
「この先は危険なので、近づかないでください!」
森下監督員が手を挙げる。
「ご苦労さまです。こちら工事関係者です」
高橋がこちらを見る。
「工事関係者?」
「はい」
「何か確認するものがあるんですか?」
森下が一瞬黙る。
そして答えた。
「……竣工検査です」
高橋の表情が固まった。
「……今ですか?」
「はい」
「この状況で?」
「……はい」
高橋は佐伯を見る。
佐伯は小さく頭を下げた。
「すみません……」
「いや、俺に謝られても……」
その横で黒田が前に出る。
「現場を確認したいのですが」
高橋は黒田の手元を見る。
「それ……」
「巻き尺です」
「何に使うんですか?」
「出来形確認です」
高橋は水没した道路を見る。
それから巻き尺を見る。
もう一度、道路を見る。
「……今、必要ですか?」
「はい」
高橋は何も言わなくなった。
女性隊員の藤原彩が隣から口を開いた。
「黒田さん、ですよね?」
「はい」
「この先、水深がかなりあります」
「そうですか」
「路面は見えません」
「承知しています」
「流れもあります」
「はい」
藤原は少し考えてから聞いた。
「……それでも確認します?」
黒田は即答した。
「はい」
藤原は高橋を見る。
高橋も藤原を見る。
二人とも、何も言わなかった。
やがて高橋が言った。
「安全を確保できる範囲なら、こちらのボートで移動できます」
「ありがとうございます」
黒田が頭を下げる。
佐伯は思わず西村の袖を引っ張った。
「西村さん……」
「なんや」
「ほんまに乗るんですか?」
「そうみたいやな」
「竣工検査で?」
「そうみたいやな」
「ボートに?」
「そうみたいやな」
「……」
佐伯は空を見上げた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ青空が見えている。
しかし足元には濁流。
そして目の前には、巻き尺を持った検査官。
「俺、今日まで土木の仕事してきて……」
佐伯が呟く。
「竣工検査でボートに乗るとは思わんかったです」
西村が笑った。
「ワシも初めてや」
松井も続ける。
「三十年舗装やっとるけど、ボートで舗装検査行くんは初めてやな」
井上が真顔で言う。
「測量機器、持ってきたほうがいいですか?」
全員が井上を見る。
「……何に使うねん」
「ですよね」
そのとき。
黒田がボートに乗り込んだ。
「では、お願いします」
佐伯たちも続いて乗る。
エンジンがかかる。
ボートがゆっくりと岸を離れた。
濁った水面を進む。
その先には、完成からわずか一か月しか経っていない道路がある。
――ただし、今は完全に水の下だ。
佐伯は水面を見つめながら思った。
(頼むから……)
(せめて、見るだけで終わってくれ)
しかし。
黒田の手には、まだ巻き尺が握られていた。




