第4話 検査前日の氾濫
午前六時。
佐伯のスマートフォンが鳴った。
眠気の残る頭で画面を見る。
現場代理人、西村からだった。
「……もしもし」
『佐伯か。起きとるか?』
「今、起きました」
『すぐ現場来れるか』
その声だけで、佐伯は嫌な予感がした。
「何かありました?」
『川、あふれた』
「……え?」
『道路まで水が来とる』
佐伯はベッドから飛び起きた。
「どれくらいですか?」
『もう現場には車で入れん』
「……」
『舗装した道路、見えへんで』
その一言で、佐伯の眠気は完全に消えた。
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午前七時。
佐伯が現場へ到着すると、そこには昨日までとはまったく違う光景が広がっていた。
道路だった場所が、巨大な茶色い水面になっている。
川からあふれた濁流が周辺道路を覆い、ガードレールの一部まで水に沈んでいる。
「……嘘やろ」
佐伯は車の中から呆然と眺めた。
西村が車の横まで歩いてくる。
「おはようさん」
「これ……」
「見てのとおりや」
「舗装、完全に見えませんね」
「そらそうや」
西村は濁流の向こうを指差した。
「昨日まで、あそこが完成した道路や」
「……」
佐伯は頭を抱えた。
「今日、竣工検査ですよね?」
「そうや」
「午前十時ですよね?」
「そうや」
「現場確認するんですよね?」
「そうや」
二人の間に沈黙が流れた。
そして西村が言った。
「……どうする?」
「僕に聞かんといてください」
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午前八時。
現場事務所には関係者が集まっていた。
田中係長も来ていた。
森下監督員も、災害対応の合間を縫って駆けつけている。
山下がパソコンを開いた。
「完成写真、全部あります」
井上も資料を持っている。
「出来形測定データも整理済みです」
松井舗装班長も腕を組んでいる。
「舗装そのものは問題ないで。完成したときは綺麗やった」
誰もが同じことを考えていた。
――書類で検査できる。
しかし。
一人だけ違った。
黒田品質監理官である。
午前九時半。
黒田が現場事務所に入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます……」
佐伯は恐る恐る挨拶した。
黒田は窓の外を見る。
「かなり増水していますね」
「はい」
「現場は?」
佐伯が答える。
「……水没しています」
「そうですか」
黒田は少し考えた。
そして。
「では、書類検査から始めましょう」
佐伯はホッとした。
「はい!」
田中係長も頷く。
「現場確認については、今日は無理でしょう。災害対応もありますし」
「そうですね」
黒田は資料を受け取った。
そして一枚ずつ確認していく。
完成写真。
出来形管理表。
品質管理記録。
材料試験結果。
施工記録。
どれも問題ない。
「写真も非常にきれいですね」
山下が答える。
「ありがとうございます」
黒田は写真をめくる。
完成した舗装。
白線。
側溝。
道路端部。
すべて綺麗に仕上がっている。
「これなら問題ありません」
佐伯の肩から力が抜けた。
「よかった……」
田中係長も頷く。
「では、書類検査は問題なしということで」
「はい」
そこで。
黒田が顔を上げた。
「では、次に現場を確認しましょう」
「…………」
事務所の空気が止まった。
佐伯は聞き間違いかと思った。
「……現場、ですか?」
「はい」
黒田は平然としている。
「現場を確認します」
田中係長が慌てて口を挟む。
「黒田さん、現場は今、水没していますよ」
「承知しています」
「近づけませんよ?」
「承知しています」
「危険ですよ?」
「承知しています」
森下監督員がため息をついた。
「黒田さん。今日は災害対応も優先せなあきません」
「それも承知しています」
「……」
黒田は静かに立ち上がった。
「それでも、現場を確認しましょう」
佐伯は思わず窓の外を見る。
茶色い濁流。
その向こうに、完全に水没した道路。
そして黒田の手には――
なぜか、いつもの巻き尺があった。
西村が小声で呟く。
「……あの人、ほんまに行く気や」
山下も呟いた。
「何を測るんでしょう……」
佐伯は答えられなかった。
すると、外からサイレンの音が聞こえた。
災害救助の車両が次々と現場へ向かっていく。
その横で黒田が巻き尺を確認している。
佐伯は思った。
(今日だけは、普通の検査にしてくれ……)
しかし。
午前十時。
竣工検査は予定どおり始まった。
そして――
黒田は本当に、現場へ向かい始めた。




