入る資格
日雇いの登録は、スマートフォンで五分で終わった。
非覚醒者可、当日枠、前線基地の設営補助。日当八千円。探索者証は不要。
ビブスを渡されて着ると、誰も顔を見なくなる。蛍光色の布を一枚かぶるだけで、人は風景になれる。
十日前まで、俺はそれを不便だと思ったことがなかった。今日は、都合がいいと思って着た。
湾岸第四ダンジョンの前線基地は、埋立地に組まれた仮設の平屋だった。発電機の音がずっと鳴っている。ディーゼルの排気と、朝の潮の匂いが混ざっていた。
俺の担当は、水と保存食のケースを所定の棚に上げることだった。右手が使えないので、一個ずつ肩に載せて運ぶ。左の肋が折れているので、載せるたびに息を止める。
三十分もすると、汗でビブスが背中に貼りついた。
基地の中央に、編成の名簿が貼り出されていた。
九条巽。以下、十二人の名前。
その前に、探索者たちが集まっていた。
◇
「南、お前は入るな」
九条の声だった。
俺はケースを抱えたまま、棚の陰で足を止めた。
名簿の前に、十九か二十くらいの男が立っている。装備は借り物だ。膝当てのベルトの余りが長く垂れている。自分で買った装備なら、あの余りは切る。
「今日は無理だ」
「やれます」
南と呼ばれた男の声は、震えていた。震えているのを隠そうとして、余計に大きくなっている。
「昨日の訓練も、最後までやりました」
「訓練は落ちても死なない」
九条は名簿を見たまま話していた。南のほうを見ていない。
「新規区画だ。マッピングもない。誰かが迷ったら、迷った本人じゃなくて、探しに行った側が死ぬ」
「俺、迷いません」
「迷わないかどうかは、お前が決めることじゃない」
周りの探索者は誰も口を挟まなかった。
止める人間がいないのは、九条が正しいからだ。ここにいる全員が、それを知っている。
新規区画は地図がない。灯りも届かない。そういう場所で、一人が遅れると、隊の全員が立ち止まる。立ち止まった隊は、上から降ってくるものに対処できない。
俺は資材屋だ。攻略の理屈は分からない。それでも、そういう理由で死んだ人間の私物を、十一年ぶん箱に詰めてきた。
九条が名簿から目を上げた。
「才能がないやつは、いてくれるだけで邪魔なんだ」
俺の手の中で、ケースの角がビブスに食い込んだ。
一字一句、同じだった。
三十四階の会議室で、俺が言われたのと。
◇
南は荷物置き場の隅に座っていた。
膝を抱えているわけでもなく、泣いているわけでもない。ただ、脚を投げ出して、砂利を見ていた。
俺はケースを運ぶ途中でそこを通った。二往復して、三往復目に、水のペットボトルを一本持って戻った。
差し出すと、南は顔を上げた。
「……あ、すみません」
受け取って、そのまま膝の上に置いた。飲まなかった。
「あの人、いつもああなんですか」
俺は答えなかった。
答えられる立場ではない。俺は今日雇われた業者で、九条とは十日前に一度会っただけだ。
「俺、Eなんです」
南が言った。
「三年やって、Eのままで。同期はみんなCかBで、今日入るやつは全員俺より下に見てる」
砂利を一つ、指ではじいた。
「才能ないのは、知ってるんです。鑑定でも出てるし」
俺は隣に立っていた。
言えることを探した。
まだやれる、と言えば嘘になる。俺は南の実力を知らない。
やめたほうがいい、と言うのは、さっき九条が言ったことと同じだ。
十一年、俺は該当なしだった。この男はEだ。Eには少なくとも何かがある。俺には何もない。
その差を持ち出せば慰めになる。持ち出した瞬間に、俺は自分を一段下に置いて相手を励ますことになる。それは十一年、俺が一番されたくなかったやり方だった。
結局、何も言わなかった。
「水、ぬるいですね」
南がそう言って、少し笑った。
「すみません、冷えてなくて」
「いや。ありがとうございます」
◇
「おい、業者」
声がした。
振り返ると、防具姿の男が立っていた。三十くらい。九条の隣にいた男だ。名簿に名前があった。梶。
「そこ、動線だ。ケース置いたままにするな」
「すみません、すぐ」
ケースを持ち上げようとした。右手が使えないので、時間がかかる。
「今すぐって言ってんだよ」
梶が右手を上げた。
指先に、赤い光が集まっていた。
威嚇のつもりだったんだと思う。当てるつもりはなかったのかもしれない。ただ、放たれたものは、俺の左腕をかすめて、後ろのドラム缶に当たった。
ビブスの袖が焦げた。腕の皮膚が、赤く縮れた。
肉の焼ける匂いがした。自分のだ。
こういう匂いは、遺品の防具からもする。何度も嗅いだことがある。自分の腕から出るのは初めてだった。
俺は声を上げなかった。
十一年、この現場で声を上げた人間が、次の日から呼ばれなくなるのを何度も見ている。
「どけって言っただろ」
梶は言って、行った。
南が立ち上がりかけていた。俺は左手で制した。
◇
基地の外の給水所で、腕を冷やした。
水は冷たくなかった。それでも、当てているうちに、皮膚の下の熱が少しずつ引いていった。
濡れた腕を上げて、掌を開く。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
・硬化
・疾走
・火弾
四行。
十日で四枚。そのうち三枚は、この五日で入った。
右手の指が三本、肋が一本、腕に火傷。
割に合うか、という問いは、もう立てなくなっていた。
◇
午前十時、編成が出発した。
十二人が装備を確認して、ゲートへ向かう。九条が先頭を歩いていた。
南は荷物置き場に残された。誰も声をかけなかった。
俺はケースを積み終えて、日報に署名した。柏木湊。左手の丸い字で。
ビブスを返して、基地を出た。
埋立地の道は、日陰がない。海側から風が来て、砂が顔に当たった。
歩きながら、頭の中で言葉を並べ直していた。
九条は間違っていない。
新規区画にマッピングはない。誰かが迷えば、探しに行った側が死ぬ。あの男の手帳には、たぶんその死んだ側の名前が入っている。
言っていることは、正しい。
正しいことを言う人間が、正しい言い方をするとは限らない。
入るなと言えば済む。危ないと言えば済む。今日は見学しろ、でも済む。
あの男は、そのどれも選ばなかった。
いてくれるだけで邪魔だ、と言った。
あれは、危険を減らすための言葉じゃない。言われた側が、自分の存在ごと引き算される言葉だ。
あの言い方で切られた人間が、今日ここに二人いる。一人は荷物置き場に座って、一人は焼けた腕を水で冷やしていた。
俺は立ち止まって、振り返った。
基地の平屋の向こうに、ダンジョンの入口がある。
あの男が戻ってくるのは、明日だ。新規区画の調査は一泊二日で、翌日の夕方に取材が入る。場所は第一ダンジョン前。予定は公開されている。
俺は歩き出した。
右手はまだ折れている。肋も腕もそのままだ。何も治っていない。
治るのを待っていたら、いつまでも撃たない気がした。
携帯を出して、帰還取材の日程を確認した。
六月三十日、火曜。午後四時。
俺は画面を消して、ポケットに入れた。
誰にも言っていない。誰にも言う相手がいない。
だから、置き場の保管室の、角の潰れた箱に向かって言った。
その日の夕方、俺は置き場に寄って、保管室の鍵を借りた。
除湿機の音がしている。棚の埃を、左手の雑巾で拭いていった。四十一箱ある。片手だと二時間かかる。
最上段の、いちばん左。角の潰れた箱。
貼り紙の手書きの字は、十一年前より薄くなっている。
俺は箱の天面を拭いて、押し戻した。
「明日、返しに行きます」
声に出したのは、その一言だけだった。
箱は何も言わない。十一年、一度も何も言わない。
除湿機が、また回りはじめた。
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