来年もお待ちしています
「判定は、該当なしです」
十二回目だった。
協会の地下二階、鑑定室。待合の椅子は七つ並んでいて、左から三番目のクッションだけが潰れている。十一年、俺はそこに座ってきた。
部屋は狭い。机が一つ、装置が一つ、椅子が二つ。窓はない。空調の風が、天井の隅から一定の音で降りてくる。
装置は、鉱石を樹脂で固めた板に手を置く形をしている。表面がぬるい。人肌より少し低いくらいの温度で、十一年、この温度だけは変わらない。
手を置いて、三十秒。画面が切り替わる。
戸嶋詩織さんは、画面を見て、それから紙を出した。
目は合わない。この人は判定を読み上げるとき、五年間、一度も俺の顔を見たことがない。
最初の年は仮設テントだった。二年目からこの地下に移った。担当は三回変わって、五年前から戸嶋さんになった。
「本結果は保険等級の算定に用いられません。控えをお持ちください」
「はい」
紙を受け取った。年に一度、この紙が増える。缶の中で十二枚になる。
缶は、十一年前に買った煎餅の空き缶だ。中身は三日で食べ終えた。缶だけが残って、紙を入れる場所になった。
俺は立ち上がろうとした。
「来年もお待ちしています」
毎年、必ず言う。マニュアルにない言葉だと思う。他の職員が言っているのを聞いたことがない。
「はい」
そう答えて、椅子を戻した。
そのとき、戸嶋さんが次の書類に手を伸ばしかけて、止まった。
指が、ファイルの角に触れたまま動かない。
二秒くらいだった。すぐに、書類を引き寄せて開いた。
「柏木さん」
呼ばれた。
◇
隣の小部屋に通された。
面談室と書いてある。机と椅子だけの部屋で、机の上に湯呑みが二つ置いてあった。中身は麦茶だった。冷たくて、少し薄い。
戸嶋さんは端末を開いて、こちらに向けた。
「六月二十一日、ここで一件、記録が出ました」
画面に、鑑定結果の一覧が出ている。名前は伏せてある。
「既存の覚醒者が、該当なしの判定を受けました」
俺は麦茶を持ったまま、何も言わなかった。
「制度上、これは起こらないことになっています」
戸嶋さんは早口だった。定型文を読むときと同じ速度で喋る。
「スキルは一人にひとつ、生涯不変。それが前提です。十一年、記録は一件もありません。装置の誤作動を疑って、三回測りました。三回とも同じでした」
「機械の故障ということは」
「同じ日に、他の方を十四人測っています。十四人とも正常に出ました」
空調の音が、この部屋にもある。
「保険の等級も、クランの序列も、国の配置計画も、全部この装置の記録が前提になっています。前提が崩れた場合の手続きが、うちにはありません」
「作らないんですか」
「一件では作れません。一件は事故として処理されます」
戸嶋さんは、そこで一度、麦茶に口をつけた。
「二件目が出たら、変わります」
「柏木さんは、六月二十一日にこの建物にいらっしゃいました。一階の受付記録に、番号が残っています」
「はい」
「四十一番でした」
「覚えてます」
戸嶋さんが端末を閉じた。
「何が言いたいんですか」
俺のほうから聞いた。声が思ったより低く出た。
「わかりません」
戸嶋さんは即答した。
「記録が合わないだけです。私は憶測を書きません。ですので、これは告発ではありません。確認です」
◇
麦茶が汗をかいて、机に輪を作っていた。
「疑ってるってことですよね」
「疑っています」
あっさり認めた。
「ただ、疑いは記録に書けません。書けるのは、あなたがあの日この建物にいたという事実だけです」
「それは、書くんですか」
「書きます」
戸嶋さんの声は、最初から最後まで同じ調子だった。
「柏木さん。もし何かをされているなら、やめてください」
俺は麦茶を一口飲んだ。
「やめたら、何かありますか」
言ってから、意地の悪い聞き方だったと思った。
戸嶋さんは答えなかった。
答えられない。協会は俺に何も与えたことがない。十二年ぶんの紙を無料で出しただけだ。無料なのは、価値がないからだ。
沈黙が長かった。麦茶の輪が、机の木目に沿って歪んでいく。
「……申し訳ありません」
戸嶋さんがそう言った。
謝られるとは思っていなかった。
「私に言える立場はありませんでした。取り消します」
◇
俺は湯呑みを置いた。
「戸嶋さん」
「はい」
「その、消えた人ですけど」
「はい」
「どうなりました」
戸嶋さんの指が、ファイルの角に戻った。さっき鑑定室で止まった、あの位置だ。
「ランク認定の取り消し手続きに入っています。第四十一条です」
「使われたことのない条文だって、掲示に書いてありました」
「はい。制度発足から、一度もありません」
戸嶋さんは端末を鞄に戻しながら、続けた。
「本人は、精密鑑定のあと三日来ていません。所属クランからは、契約解除の照会が来ています」
三日。
俺が鉄の箱を殴った日から、三日だ。
「その方は、悪い人だったんですか」
戸嶋さんが聞いた。
初めて、こちらを見た。
五年間、判定を読み上げるとき一度も合わなかった目が、正面から合った。
三十代の半ばくらいだと思う。化粧気がなくて、前髪を留めているピンが実用一辺倒のものだった。目の下に、寝ていない人間の色があった。
三回測り直した人だ。装置を疑って、他の十四人と突き合わせて、それでも合わないまま、俺を呼び止めた。
俺は答えなかった。
答えは、はい、だ。あの男は俺を二メートル飛ばして、悪い手加減がな、と言って通り過ぎた。仲間が遺品を踏んでも止めなかった。
その通りに言えば、この会話は終わる。
言えなかった。
言った瞬間に、だから消していい、という理屈が成立してしまう。
その理屈は、八日前に俺が三十四階で言われたものと、形が同じだった。
悪い人間だから消していい。才能がない人間だから邪魔だ。
どちらも、誰かが誰かを間引く言い方だ。
「……わかりません」
やっと出てきたのが、それだった。
戸嶋さんは目を伏せて、湯呑みを机の端に寄せた。麦茶の輪が、二つ並んだ。
「そうですか」
責める調子ではなかった。安心した調子でもなかった。記録に残らない答えを、記録に残らないまま受け取った顔だった。
◇
協会を出ると、雨が降っていた。
傘は持っていない。十一年、この仕事で傘を差した記憶がほとんどない。
湾岸の道を歩きながら、俺は掌を一度だけ開いて、閉じた。
三行あるはずのものは、鑑定室の装置には映らなかった。俺は該当なしのままだ。
十二枚目の紙が、鞄の中で湿っていく。
あの人は、五年間、俺の名前を毎回呼んだ。九条は一度も呼ばなかった。
面談室を出るとき、戸嶋さんは湯呑みを二つ流しに運んでいた。自分で洗っていた。給湯室があるのに、面談室の隅の小さな流しで。
その背中に、聞かなかったことが一つある。
なぜ、あなたはあの一言を毎年足すんですか。
聞けば答えたと思う。答えを聞いてしまうと、来年から言ってもらえなくなる気がした。
同じ言葉を、二人が違う場所で言った。
九条は、才能がないやつは邪魔だと言った。
戸嶋さんは、来年もお待ちしています、と言った。
どちらも、俺が該当なしであることを前提にした言葉だ。
スマートフォンが震えた。ニュースの通知だった。
『湾岸第四ダンジョン 新規区画の調査開始 S級九条巽率いる編成が明日入る』
明日。
記事の下に、編成の内訳が出ていた。S級一名、A級二名、B級四名、C級以下六名。新人枠が三つ。
場所は第四。日雇いの荷運びなら、探索者証がなくても入れる。前線基地の設営には、いつも業者が足りない。
俺は画面を消した。
雨が、シャツの首から入ってきた。
あの男の正面に、もう一度立てる。
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