ああ、あんたか
「関係者以外、立ち入り禁止です」
湾岸第一ダンジョンの関係者ゲートで、警備の男にそう言われた。
昨日まで、俺はここの関係者だった。
作業着を返したので、今日は私服で来ている。色の褪せたポロシャツとチノパン。それだけの違いで、通れなくなった。
「柏木といいます。第三資材置き場の」
「探索者証を」
「持っていません」
「では、業者証を」
「昨日、返しました」
警備の男は、あからさまに面倒そうな顔をしなかった。それが逆に応えた。彼にとってこれは日常で、面倒がるほどの出来事ですらない。
「では、お引き取りください」
俺は動かなかった。
ゲートの向こうに、探索者が三人出てきて、こちらを見ずに通り過ぎていった。
「あの、中に用事が」
「ご用件は?」
「知り合いに、会いに」
「どなたですか」
「九条巽さん」
警備の男の表情が、初めて動いた。
「お約束は」
「ありません」
「ご関係は」
答えられなかった。
六日前に胸倉を掴まれた、と言ったところで、それは関係とは呼ばない。
◇
肩を掴まれた。
掴まれた、と認識したときには、俺の身体はゲートから五メートル離れた歩道に置かれていた。
景色が飛んだ。走ったのでも、引きずられたのでもない。間に何もない。
尻餅をついてから、腰と背中が遅れて痛んだ。折れている肋に響いて、しばらく息が浅くなった。
警備の男が、俺の前に立っていた。息も乱れていない。汗もかいていない。五メートルを、歩数ゼロで移動した人間の顔ではなかった。
「困りますよ。九条さんの名前を出す方、一日に何人も来るんです」
それはそうだろうと思った。
「ここで待たれても、出てこられませんので」
男はゲートに戻っていった。
俺は歩道に座ったまま、左の掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
・硬化
・疾走
三行。
増えた。
増えて、入りたい場所には入れないままだった。
◇
歩道に立って、待つことにした。
時計を見ると、午前十時。取材の予定は午後二時。四時間ある。
六月の晴れ間で、湾岸のアスファルトが熱を持ち始めていた。日陰がない。防潮堤のコンクリートに背中を預けると、シャツ越しに熱が伝わってきた。
肋が折れている。中手骨が三本折れている。腰を打った。座ると痛むので、立っていた。
四時間、俺は何もしなかった。
これは、慣れている。
十一年、俺の仕事の半分は待つことだった。荷が下りてくるのを待つ。手が空くのを待つ。誰かが通り過ぎるのを待つ。待っているあいだ、誰も俺に話しかけない。
午前十一時、コンビニのおにぎりを一つ食べた。梅。百十円。財布の中身を数えてから、二つ目はやめた。
正午、ゲートから出てきた集団に、九条はいなかった。
その集団の一人が、こちらを見て足を止めた。昨日、俺を蹴ったB級だった。
男は俺の顔を三秒ほど見て、それから思い出せなかったらしく、仲間に呼ばれて行った。
昨日、この男は俺の肋を折った。今日はもう覚えていない。
午後一時、テレビ局の中継車が二台入っていった。ケーブルを引く作業員が三人、走り回っていた。あの仕事も日雇いだ。二年前まで、俺も月に何度か回されていた。
午後一時四十分、人が集まりはじめた。カメラを持った人間が七、八人。一般の見物客が二十人ほど。
俺は人垣の最前列に出た。
誰も俺を押しのけなかった。誰も俺を見なかった。
最前列は、いつも空いている。前に出ようとする人間が、意外に少ないからだ。
隣に立った女子高生が二人、スマートフォンを構えて話していた。
「九条って、こないだの配信で新人切ったやつだよね」
「才能ないなら来るなってやつでしょ。正論じゃない?」
「まあね。あたしも来ないし」
二人は笑った。悪気はなかった。
俺は防潮堤側に半歩ずれて、日差しを避けた。避けたところで、日陰はどこにもなかった。
◇
午後二時十分。
ゲートが開いて、九条巽が出てきた。
シャッターの音が連続で鳴った。「九条さん、こちらへ」「今日の踏破について一言」
九条は歩きながら答えていた。声が低くて、遠くまでは届かない。付き人が二人、記者の列を横から抑えている。
俺は最前列に立ったまま、九条を見ていた。
三メートルまで来た。
目が合った。
合って、そのまま流れた。
睨まれたのでも、無視されたのでもない。見る、という動作そのものが起きていなかった。カメラの列を確認する途中で、たまたま俺の顔がその範囲に入っただけだ。
俺は一歩、前に出た。
「柏木です」
声が出た。思ったより小さかった。
「第三資材置き場の、柏木です」
九条の足が止まった。
記者たちが一斉にこちらを向く。
九条は俺を見て、二秒か三秒、何かを探していた。
探しているのが分かった。名前と、顔と、用件を、順番に照合しようとしている。
六日前、この男は俺の胸倉を掴んだ。掴んで、悪い、と言って手を離した。
その三つのうち、一つも出てこなかったらしい。
それから言った。
「ああ」
それだけだった。
「元気でな」
周りの記者が、何人か笑った。愛想笑いだった。誰も俺が何者かを聞かなかった。
付き人が「九条さん」と促した。九条は歩き出した。
◇
車の前で、九条が一度止まった。
上着の内ポケットに手を入れて、何かを取り出しかけた。
黒い、手のひらほどの手帳だった。角が擦り切れて、輪ゴムで留めてある。表紙の端が白く毛羽立っていた。
新しい装備を毎シーズン入れ替える男が、その手帳だけは買い替えていない。
九条はそれを開かなかった。指で厚みを確かめるように一度だけ持ち直して、ポケットに戻した。
「九条さん、時間が」
「ああ」
ドアを開けながら、九条は俺のほうを見ずに言った。
「あんた、あそこ辞めたんだってな。よかったよ」
俺は返事をしなかった。
「あそこは危ない。三層とつながってる」
ドアが閉まって、車が出ていった。
記者たちが散っていく。誰も俺に何も聞かなかった。いま九条が誰に話しかけたのか、確認する人間すらいなかった。
女子高生の二人が、撮った動画を見返しながら歩いていった。「顔、ちっちゃ」「加工いる?」
◇
歩道に、俺一人が残った。
怒りは来なかった。
来ると思っていた。六日前から、来るのを待っていた気さえする。
代わりに、はっきりしたことが一つある。
あの男は俺を嫌っていない。恨んでもいない。憎むほどの関心を、最初から持っていない。
俺は、風景だ。
搬入路の段差や、通路の照明や、置きっぱなしの台車と同じだ。位置を把握して、避ける経路を計算して、それで終わる。
風景は、壊しても誰も気づかない。
俺は掌を握った。
「――だったら、こっちも同じにする」
声に出してから、自分でも意外だった。何かを宣言するような言い方は、十一年したことがない。
開いた掌に、三行。
硬化。疾走。間合い喰い。
そのうち一枚は、いま車で走り去った男のものだ。
あの男は、それを俺が持っていることを知らない。
知らないまま、明日も明後日も、同じように歩くだろう。
俺は防潮堤に背中を預けた。コンクリートは、まだ熱かった。
問題は変わっていない。
撃つには、あの男の正面に立つ必要がある。今日、正面に立った。三メートルまで近づいた。
それでも、あの男は俺に触らなかった。
風景に触る人間はいない。
仕掛けても駄目だった。名乗っても駄目だった。
あの男が俺に手を出すのは、六日前に一度だけあった。
あのときは、俺が背を向けて、部屋を出ようとしたときだ。
立ち去ろうとしたときに、掴まれた。
俺は防潮堤から背中を離した。
やり方が、一つ思い当たった。
あと一枚、S級の間合いに入る手段がいる。
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