邪魔な場所
台車を、通路の真ん中に置いた。
『天啓』本部の地下二階、搬入口。天井が低くて、排気の音が絶えず鳴っている。コンクリートの床に、油と消毒液の匂いが染みついていた。
朝、通用口で名簿を見せたとき、警備員は俺の名前を三度確認した。
「柏木さん。……あれ、御社との契約、先週で」
「引き継ぎです。今日までになってます」
「ああ、はい。そうなってますね」
書類には嘘がない。契約は今日で切れる。だから今日は入れる。
俺はしゃがんで、荷札を直しはじめた。もう直っている荷札だ。
右手が使えないので、左手だけで札の角を折る。時間はいくらでもかけられる。
三分ほどで、後ろから台車の音が近づいてきた。
「おい」
振り返らない。
「そこ、どけ」
顔だけ上げた。作業着ではない。防具のインナー姿の男が、こちらを見下ろしている。腕にB級の腕章。
「すみません、すぐどけます」
言って、動かなかった。
男が舌打ちして、自分の台車を回した。通路の幅は二メートル半ある。回せば通れる。
通れてしまうと困る。
俺は札を持ったまま、半歩だけ横にずれた。男の進路の側へ。
「……なあ」
男が止まった。
「あんた、わざとやってる?」
「いえ」
「いま、こっちに寄っただろ」
「札を、明るいほうで見たくて」
嘘ではない。天井の照明はこちら側にしかない。
男の靴の先が、床を二回鳴らした。
こういうとき、十一年ぶんの経験が邪魔をする。
身体が勝手に引こうとする。通路の端に寄って、荷車を先に通して、目を合わせずに、謝る必要のないところで謝る。それで十一年やってきた。
左足の踵に力を入れて、身体を止めた。
◇
三度目で、蹴られた。
男は助走もつけなかった。腰の高さで軽く振っただけだ。本人にとっては、荷物をどける動作と同じだったんだろう。
脇腹に来た。靴が当たったというより、鉄骨が当たった感触だった。皮膚の下で、何かが軋んで、それから折れる音がした。
身体が浮いて、壁のパイプに背中から当たった。
息が入ってこない。
男は蹴った脚をそのまま下ろして、台車を押していった。
「危ねえだろ、こんなとこにいたら」
振り返りもしなかった。心配してくれたつもりらしい。
俺は壁にもたれたまま、しばらく動けなかった。
息が戻ってきたのは、たぶん一分後だ。吸うたびに、左の肋のあたりが刺さる。
左手で床を探して、落ちた荷札を拾い集めた。
それから、掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
・硬化
二行になっている。
硬化。あの男の脚が鉄骨に感じられた理由だ。
増えた。
肋が一本折れて、一行増えた。
割に合っているのかどうか、判断がつかない。鋼板を凹ませて指を三本折ったときは、割に合わないと思った。今度は自分から取りに行った。同じ怪我でも、意味が違う気がする。
気がするだけで、痛みは同じだった。
俺は札を綴りに戻して、台車を起こした。肋が痛むので、押すというより体重を預ける形になった。
◇
午前十一時。搬入口の外の喫煙所で、他社の業者と一緒に休憩を取った。
六十くらいの男が、缶コーヒーを二本持ってきて、一本を俺の前に置いた。
「さっきの、見えたよ」
「すみません」
「なんで避けなかった」
「札が、濡れると読めなくなるので」
男は缶を開けて、少し笑った。
「あんた、若いのに絡まれたことないだろ」
「あります」
「そうか。……まあ、ああいうのはな」
男は湾岸を見ていた。防潮堤の向こうで、第一ダンジョンの警戒灯が回っている。
「覚えてもくれねえよ。蹴ったことも」
缶コーヒーは甘すぎた。十一年、この味で午前中を折り返してきた。
「俺は八年ここに入ってるけどな」
男が続けた。
「探索者に名前で呼ばれたのは、二回だ。二回とも、荷を落として怒鳴られたときだよ」
笑いながら言ったので、俺も少し笑った。笑うと肋に響いた。
喫煙所のテレビに、ダンジョン攻略の中継が流れていた。音は消してある。
画面の右下に、参加クランの名前が並んでいた。『天啓』。その下に、隊の指揮を執る探索者の名前が出ている。
九条巽。
中継は今日の午前中のものだった。場所は湾岸第一。ここから歩いて十五分。
「今日、上がってくんのか」
俺が聞くと、六十の男は画面をちらりと見た。
「午後には戻るだろ。荷が下りてくるからな」
◇
午後三時。搬入用エレベーターの前で、空の台車を押して待った。
業者用の待機線は、床に黄色いテープで引かれている。十一年、俺はこの線の内側から出たことがない。
扉が開いた。
降りてきたのは五人。装備を担いだ探索者たちの真ん中に、九条がいた。
付き人が二人ついている。その外側に、記者らしい男が一人。
俺は台車を押して、線を越えた。
九条の進路の、真正面に。
三メートル。二メートル。
九条は俺を見ていた。見ていて、視線が通り過ぎた。
人を見る目ではなかった。柱を見るのと同じ動き方をしていた。柱の位置を把握して、避ける経路を計算して、それで終わる。
一メートル。
俺は止まらなかった。
九条も止まらなかった。
結果として、台車の角が九条の腰に当たり、台車のほうが弾かれた。前輪が浮いて、横倒しになる。
俺は台車と一緒に床に転がった。
九条は歩みを緩めなかった。付き人の一人が「おい」と言ったが、九条が手を上げて制した。
「いい。急いでる」
五人の足音が、遠ざかっていった。
誰も俺に触っていない。
台車が当たったのは、俺の側からだ。
◇
倒れた台車を起こすのに、五分かかった。
右手が使えない。左の肋が折れている。片手で持ち上げるたびに、脇の下で骨が鳴った。
起こし終えてから、掌を開いた。
「鑑定」
・間合い喰い
・硬化
二行のまま。
当然だ。あの男は、俺を蹴らなかった。押しもしなかった。避けもしなかった。
こちらから当たっていったのに、増えなかった。
こっちが触っても駄目らしい。向こうが、俺に何かをしないと入らない。
俺は台車の取っ手に額をつけた。金属が汗で滑った。
条件が一つ減った。
こちらから仕掛けても意味がない。待つしかない。向こうの気分次第で、向こうが手を出すのを。
殴られるのを待つ側というのは、要するに、これまでの十一年と同じだ。
違うのは、待っている理由だけだった。
喫煙所の男の言葉が、頭の裏に残っている。
覚えてもくれねえよ。
五日前、あの男は俺の胸倉を掴んだ。掴んで、悪い、と言った。
その相手が今日、目の前で倒れて、視線ひとつ寄越されなかった。
嫌われてすらいない。
俺は台車を押して、搬入口に戻った。
契約の最終日だった。作業着を返して、ロッカーの鍵を返して、それで終わりだ。
更衣室のロッカーは、上から三段目の右端だった。十一年、同じ場所を使っていた。扉の内側に、荷札の色分けのメモを貼ってある。第一が青、第二が黄、第四が緑。
剥がそうとして、やめた。次に使う人間の役に立つかもしれない。
鍵を管理室に返すと、係の人が受け取り簿にチェックを入れた。名前は聞かれなかった。番号で管理されている。
明日から、この建物には入れない。
最後の荷を降ろしながら、俺は頭の中で数え直していた。
二枚。
五日で二枚。
どちらも、S級のものではない。
箱を積み終えて、荷受けの判を押してもらった。判子が紙に落ちる音で、十一年が終わった。
帰り際、地下二階の通路をもう一度歩いた。台車を置いた場所には、床に擦った跡が残っている。明日には誰かが拭くだろう。
外へ出ると、まだ空が明るかった。六月の日は長い。
あの男が明日どこにいるかは、たぶん調べられる。取材の予定は公開されている。
入れなくなるのは、この建物だけだ。
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