引取人なし
「飯、食ったか」
置き場に着くなり、峰岸さんがそう言った。返事をする前に、アルミホイルの包みを一つ押しつけられる。
塩むすびだった。峰岸さんは毎朝、自分で二個握ってくる。九年間、一度も買ってきた弁当を見たことがない。
「いただきます」
左手で受け取って、その場で食べた。塩が濃い。米は少し硬めに炊いてある。
峰岸さんは自分の分を三口で食べ終えて、包み紙をポケットに入れた。
俺の右手を見て、何も言わなかった。昨日まで割り箸とガムテープだったものが、今日は病院の添え木と包帯になっている。それだけの違いだ。
「今日は保管室、やれるか」
「はい」
「無理なら、こっちで」
「やります」
峰岸さんはシャッターの巻き上げ機のところへ歩いていった。
空はまだ雨模様だが、降ってはいない。六月の湿った空気が、置き場の中に溜まっている。
◇
保管室は、置き場の奥にある。
鉄の扉を開けると、空気が変わる。外より二度くらい低くて、乾いている。除湿機が二十四時間まわっているからだ。
棚が四列。上から下まで、段ボールの箱が並んでいる。
全部、引き取り手のない遺品だ。
探索者が死ぬと、私物は協会が預かる。遺族がいれば渡す。遺族がいない場合、あるいは受け取りを拒否された場合、ここに来る。
保管期限は無い。誰も決めなかったからだ。決めていないので、捨てられない。
この部屋には四十一箱ある。多い年で六箱、少ない年で二箱ずつ増えてきた。
中身はだいたい似ている。財布、免許証、家の鍵、充電ケーブル。ダンジョンに持って入る必要のないものばかりだ。持って入る必要のないものを、みんな持って入る。ロッカーに預けると出てこないことがあるからだ。
俺の仕事は、月に一度これを拭くことだ。
誰にも頼まれていない。日報に書く欄もない。除湿機があるので、放っておいても中身は傷まない。
それでも、埃は積もる。
左手に雑巾を持って、下の段から始めた。箱を少し引き出して、天面と側面を拭いて、押し戻す。番号と名前と年月が書かれた貼り紙を、指で押さえて浮かないようにする。
片手だと三倍かかった。箱を引き出すのに脇で押さえて、拭くのに膝で支える。
二年前の箱。四年前の箱。六年前の箱。
名前は覚えていない。覚えないようにしている。覚えると、拭くのに時間がかかるようになる。
上に行くほど、古くなる。
最上段の、いちばん左。
その箱だけ、他より少し大きい。段ボールの色も違う。今は使われていない規格の箱で、角が一箇所潰れている。
貼り紙の字が、印刷ではなく手書きだった。
朝倉智/二〇二六年六月/引取人なし
俺は脚立を出して、片手で上がった。包帯の右手を棚の縁に添えて、身体を支える。
箱を少し引き出す。天面を拭く。埃が雑巾に移る。
潰れた角を、指で押して直した。直りはしない。十一年、毎月押しているが、一度も直ったことがない。
押し戻して、脚立を降りた。
◇
「それ、まだ置いとくのか」
振り返ると、峰岸さんが扉のところに立っていた。
「置いときます」
「十一年だろ」
「はい」
峰岸さんは中に入ってきて、最上段を見上げた。
「うちが最初に受けた遺品だって聞いたな。俺が来る前だ」
「そうです」
協会が遺品の保管規程を作ったのは、この箱の三ヶ月後だ。それまで規程がなかった。規程がないうちに死んだ人の私物が、規程ができたあともここに残っている。
「引取人、来ねえのか」
「十一年、来てません」
峰岸さんはしばらく箱を見上げていた。
「捨てろって言われたことは」
「二回あります。両方、断りました」
「誰に」
「協会の、当時の課長です。二人とも、もういません」
規程を作った人間が、規程より前のものをどう扱うかを決めないまま異動していく。それが十一年続くと、こういう箱が一つ残る。
「……そうか」
それだけ言って、峰岸さんは出ていった。
除湿機の音が、また部屋を満たした。
俺は最上段をもう一度見上げてから、扉を閉めた。鉄が鳴って、廊下の湿った空気が戻ってきた。
◇
午後は搬入路の荷札を書き直した。
綴りは搬出口ごとに分けてある。第一が青、第二が黄、第四が緑。日付順に見えるのは、たまたま同じ口の荷が続いた時期があるからで、並べ替えると崩れる。
この分け方を教わったわけではない。三年目に、第二の荷を第一に持っていって半日無駄にしたことがあって、それから色を変えた。
左手で書くと字が丸くなる。読めればいいと思って書いていたが、三十枚を過ぎたあたりで気が変わって、最初の十枚を破って書き直した。
次に来る人間は、たぶん覚醒者だ。三万で雇われて、この綴りを一度も開かずに済む段取りを組む。
それでいい。
書き直しているのは、その人のためというより、間違った箱が遺族のところへ行かないためだ。
夕方、峰岸さんが事務所の壁のボードを外して、机に置いた。来週のシフト表だ。
マグネットの名札が並んでいる。峰岸。柏木。あと三人。
「来月から来ねえのか」
「はい」
峰岸さんは名札を一つずつ剥がして、来週の欄に並べ直していく。
俺の名札は、今週の欄で止まっている。あと二日ぶん。
「明日は」
「来ます。残り二日、契約なんで」
「そうか」
シフト表の右端に、依頼元の欄がある。搬入の現場ごとに、クランの名前が入っている。
明日の火曜は、第二ダンジョンの通常搬入。
その次の水曜に、別の名前が入っていた。
『天啓』。
俺の契約は、その水曜で終わる。
◇
「峰岸さん」
「ああ」
「水曜の『天啓』、俺が入っていいですか」
峰岸さんの手が止まった。
名札を持ったまま、こちらを見た。
「その手でか」
「軽いのだけ運びます」
「向こうは、あんたを切った先だろう」
「はい」
沈黙が長かった。除湿機の音は、ここまでは届かない。事務所の蛍光灯が、置き場のと違って一本も切れていない。
峰岸さんが名札を机に置いた。
「取りに行くもんがあるのか」
「……はい」
「置いてきたのか」
「置いてきたわけじゃないです」
嘘はついていない。置いてきたのではなく、向こうから入れられた。
峰岸さんはそれ以上聞かなかった。この人は九年間、俺の来歴も家族構成も聞いたことがない。聞かない代わりに、毎朝むすびを二個持ってくる。
峰岸さんは名札をボードに戻して、指で押した。
「勝手にしろ」
「はい」
「怪我すんな」
「はい」
それは無理だ、と思ったが、口には出さなかった。
峰岸さんは自転車の鍵を取って、出ていった。
俺はマーカーを取って、水曜の欄に自分の名前を書き足した。
左手の、丸い字で。
柏木。
十一年で初めて、自分でシフトを決めた。
書き終わった字を見ていたら、少しおかしくなった。
三十四階で契約を切られて、指を三本折って、四十六万円しかなくて、それでやっていることが、シフト表に名前を書くことだ。
映画なら、ここで刃物でも買いに行くんだろう。俺が買えるのは、明日の交通費と、コンビニのおにぎり二個ぶんくらいだ。
それに、刃物はいらない。
必要なのは、向こうが俺に触ることだけだ。触られるのは、この十一年でいちばん慣れている。
誰も止めない。誰も見ていない。
窓の外で、自転車のライトが遠ざかっていった。
事務所の鍵を閉めて、置き場を出た。表のシャッターに手を掛けたとき、奥の暗がりで蛍光灯がまた点いた。切れかけの一本が、思い出したように光って、すぐ落ちる。
保管室の奥では、いまも除湿機が回っている。角の潰れた箱が、十一年前と同じ場所にある。
明後日、あの男の建物に入る。
入って、邪魔な場所に立つ。
うまくいけば、誰かが俺を押しのける。押しのけられれば、一つ増える。
それを何度か繰り返して、あの男の正面まで行く。
段取りとしては、それだけだ。荷降ろしの手順より単純だった。
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