十一枚の紙
押入れの奥から、菓子の空き缶を引き出した。
左手だけでは蓋が開かない。膝で缶を挟んで、包帯の指を添えて、ようやく外れた。
中に紙が入っている。十一枚。
畳の上に、古いものから順に並べていった。
二〇二六年。二〇二七年。二〇二八年。
最初の一枚だけ、紙の質が違う。ざらついていて、印字がずれている。あの年はまだ様式が決まっていなくて、鑑定室も仮設のテントだった。
判定の欄には、全部同じ四文字が入っている。
該当なし。
十一枚を、右から順に見ていく。年ごとに紙が良くなり、印字が揃い、書式が整っていく。制度が育っていく。
三年目の紙から、判定欄の下に一行が足された。〈来年度以降も受検は可能です〉
五年目の紙で、その一行が消えた。かわりに小さく〈本結果は保険等級の算定に用いられません〉と入った。非覚醒者に何の保険もつかないことを、書式のほうが先に認めた。
俺の欄だけ、十一年変わらない。
窓の外で雨が強くなった。雨樋の水が、下のバケツに落ちる音がする。前の住人が置いていったバケツで、俺は十一年これを使っている。
なぜ毎年受け続けたのか。
考えたことはある。答えを出したことはない。出そうとすると、いつも紙を仕舞ってしまう。
今日も、そうした。
十一枚を重ねて、缶に戻して、蓋を閉めた。缶の底で、紙が乾いた音を立てた。
最初の年、テントの中で判定を渡してくれた職員は、まだ二十代の男だった。「来年もありますから」と言った。あの人はもう協会にいない。三年目の書式に入っていた一行は、たぶんあの人が書かせたものだ。
◇
畳に座ったまま、左手でスマートフォンを開いた。
検索窓に、九条巽と打ち込む。
出てくるのは公式のプロフィール、攻略サイトの解説記事、動画の切り抜き。
〈S級・九条巽 距離を支配する男〉
記事によると、スキル名は非公開。ただし業界内では通称がついている。間合い喰い。
三年前のインタビューが出てきた。文字起こしがそのまま載っている。
「才能のない人間を現場に入れるのは、殺すのと同じです」
「厳しいと言われますが、僕は現場で人が死ぬところを見ています。庇う側に回った人間が、庇ったせいで死ぬところも」
「適性のない人を止めるのは、その人のためです。恨まれてもいい」
俺は画面を消した。
畳の目を見ていた。数えたことはないが、この部屋の畳は縁が擦り切れていて、目が寄っている。
あの男の言っていることは、間違っていない。
搬入口は三層とつながっている。俺の前にいた人間は肩を潰して辞めた。去年の冬、二十九のD級が死んで、俺は歯ブラシを保管票に書いた。人は死ぬ。適性のない人間から死ぬ。
それは、そうだ。
ただ。
スマートフォンをもう一度つけた。三年前のインタビューの続きに、記者の質問が載っていた。
適性は誰が判断するのか、という問いだった。
答えは一行だった。
「鑑定です。数字で出ます」
数字。
俺の数字は、十一年ぶんある。全部、該当なし。
その四文字で、俺の適性は判断された。搬入路の段差も、箱を降ろす順番も、滑る床も、蒸して剥がした封筒も、一度も数字にならなかった。
数字で出る、と言った男は、たぶん本気でそう思っている。
嘘つきではない。嘘つきなら、まだ楽だった。
俺は立ち上がった。
畳の上で、膝が鳴った。
◇
深夜零時を回っていた。
傘は差さずに歩いた。雨は昼より弱い。作業着の肩が濡れて、重くなっていく。
第三資材置き場のシャッターの前で、足を止めた。
契約は切れている。引き継ぎはあと三日ある。だから今日ここに来る理由は、明日の朝まで無い。
それでも来た。
十一年、この場所に来る理由は、いつも誰かが決めていた。シフトが決めて、依頼が決めて、荷物が決めた。俺が決めたことは一度もない。
シャッターの鉄板に、掌を当てた。冷たくて、雨で濡れていて、錆の粒が指の腹に残った。
「鑑定」
白い一行が浮かんだ。
・間合い喰い
この一行の中身を、俺はもう知っている。
三十四階の会議室で、三歩ぶんの距離が消えた。あの男の指がシャツ越しに鎖骨の下に当たったとき、俺は何が起きたか分からなかった。今なら分かる。
距離が、喰われた。
それがいま、俺の手にある。
撃てば、消える。俺の手からも、あの男からも。
テレビに並んでいた十九人が、十八人になる。
シャッターの向こうで、雨の落ちる音がしていた。中は無人だ。切れかけの蛍光灯だけが、たまに点いている。
十一年、俺はこの音を聞きながら荷札を書いてきた。
来週になれば、ここに来る資格もなくなる。
◇
問題が一つある。
撃つには、あの男の正面に立たなければならない。
俺はもう出入り証を返した。ダンジョン区域には入れない。『天啓』の本部にも用がない。あの男は取材のときしか外に出ないし、出るときは付き人がついている。
動画の切り抜きを一本、音を消して見た。取材陣に囲まれて歩く九条の周りには、常に一メートル以上の空きがある。誰も詰めない。詰めれば、詰めた側が悪いことになる。
人垣の前に立てたとして、S級の間合いの中まで、素手の四十間近が近づけるとは思えない。
近づくには、向こうから触ってもらうしかない。
あの男は俺の名前を確認しなかった。書類を読んだのは総務の人で、あの男は一度も俺の名前を口にしていない。
それは、都合がいい。
覚えられていない人間は、警戒されない。警戒されない人間は、正面に立てる。
十一年、誰の記憶にも残らずにやってきたことが、二日続けて役に立っている。
そこまで考えて、俺は自分の掌をもう一度見た。
一行しかない。
撃てば無くなる。無くなったら、次はどうやって手に入れる。
答えは一つだけだった。
昨日、俺は肩を押されて増えた。一昨日、胸倉を掴まれて増えた。
増やす方法は、はっきりしている。
殴られればいい。
声に出したわけでもないのに、喉のあたりが乾いた。
十一年、俺は殴られないように立ち回ってきた。通路の端に寄り、荷車を先に通し、目を合わせず、謝る必要のないところでも先に謝った。それが仕事を続けるコツだった。
これからは、逆をやる。
濡れたシャッターに額をつけた。鉄の匂いがした。
四十間近の男が、深夜に無人の資材置き場で、これから殴られに行く算段をしている。
どう考えても、まともではない。
まともでない自覚はあった。
止めてくれる人間がいれば、止まったかもしれない。両親は十年前と八年前に死んでいる。妻はいない。友人と呼べる人間の顔を思い浮かべようとして、峰岸さんの塩むすびが出てきた。あの人は何も聞かない。聞かないから、止めもしない。
それでも、頭の中に浮かんでいるのは、明日どこの現場に潜り込めるかという段取りだけだった。
『天啓』の搬入は、うちが受けている。
シフトは峰岸さんが管理している。
明日、名前を書き足せば入れる。
書き足すだけだ。誰の許可もいらない。十一年、一度もやったことがないというだけで、禁止されているわけではない。
俺は身体を起こして、歩き出した。
十一年で初めて、自分の意思でこの場所を出た。
雨は、いつのまにか上がりかけていた。アスファルトの匂いが立っている。水を吸って、これから乾いていく匂いだ。
包帯の右手を、上着の内側に入れた。四週間は使えない。使えないほうが都合がいい。壊れた手の男は、誰の目にも脅威に見えない。
あの男は、俺を邪魔だと言った。
邪魔になるつもりはない。
俺は、返しに行くだけだ。
背中で、切れかけの蛍光灯が一度だけ点いて、また落ちた。
もう一度、殴られに行く。
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