出ないんだよ
「出ないんだよ、剛腕が!」
協会一階のロビーに入った瞬間、その声が耳に飛び込んできた。
総合受付のカウンターに、若い男が身を乗り出している。装備は新しい。B級の腕章。
昨日、俺の肩を押した男だった。
俺は列の最後尾についた。順番待ちの札を取る。番号は四十一番。表示は二十三番。しばらくかかる。
右手には割り箸とガムテープが巻いてある。医者に行く前に寄った。順番が来るのを待つ間に、指はどんどん腫れていく。
「昨日まで出てたんですよ。ずっと。三年ずっと」
「槙原さま。落ち着いてください」
受付の職員は困った顔をしていた。声を落とそうとして、落ちていない。
「タグの不具合ということでしたら、交換いたしますが」
「タグじゃない。俺の話をしてる」
職員が奥の誰かに目配せをした。奥から出てきた年配の職員が、槙原の前に立った。
「体調不良でスキルの発現が鈍ることはございます。三日ほど休養を取られて、それでも同じでしたら」
「三日? 明日、深層の依頼が入ってるんだよ。俺が抜けたらパーティが組めない」
「では、パーティの方にご相談いただいて」
「相談してどうすんだよ。俺が抜けるって言うのか」
年配の職員が黙った。答えられない質問だからだ。
槙原がタグを叩きつけるようにカウンターに置いた。金属の薄い板が、天板の上で二回跳ねた。
「見てください。触って、鑑定って言うだけでしょう。ほら」
槙原がタグに指を当てた。ロビーの空気が、一瞬だけ静かになる。
「鑑定」
何も起きなかった。
俺の位置からは、彼の掌が見えた。何も浮かんでいない。
「……もう一回」
「鑑定」
やはり何も出ない。
三回目のとき、槙原の声が裏返った。
◇
後ろの列がざわつき始めた。
「聞いた? スキル出ないって」
「寝不足だろ。昨日も遅くまで潜ってたって聞いたぞ」
「B級で慢心すると、ああなるんだよな」
誰も、本気で心配していない。
声のほうを見ると、探索者が四人ほど固まって笑っていた。そのうちの一人が、スマートフォンを構えている。撮っている。
俺は列の中に立ったまま、それを見ていた。
昨日、この男は俺を二メートル飛ばして「悪い、手加減がな」と言った。仲間が遺品を踏んでも止めなかった。
いま彼は、カウンターに両手をついて、二十四くらいの若さで、声を裏返している。
どちらも同じ人間だ。片方だけを見て話す人間が、ロビーには多すぎる。
槙原は精密鑑定を勧められて、地下二階へ降りていった。エレベーターの扉が閉まる直前、彼が振り向いた。ロビー中が彼を見ていた。
俺の番号はまだ二十番以上先だった。空いた席に座ると、隣の作業着の男が缶コーヒーを一口飲んで、こちらの右手を見た。
「やったな、それ」
「はい」
「うちは先週、腰やられたのが二人」
それだけ言って、男はまた前を向いた。業者同士の会話はだいたいこの長さで終わる。
三十分ほどして、槙原が戻ってきた。
手に紙を一枚持っている。
俺の番号はまだ呼ばれていない。だから、彼が受付の前を通り過ぎるとき、その紙が見えた。
様式は知っている。年に一度、十一回、俺が受け取ってきたものと同じだ。
判定の欄に、四文字が印字されていた。
該当なし。
槙原はそれを二つ折りにもせず、丸めもせず、指の先でつまんだまま出口へ歩いていった。仲間の三人が追いかけていく。「おい槙原」「ちょっと待てって」
自動ドアが開いて、閉じた。
誰かが小さく笑った。
俺は自分の右手を見た。割り箸が三本、テープで留めてある。
この手が昨日、鉄を凹ませた。
凹ませた力は、あの男から出ていた。
◇
番号が呼ばれるまで、あと十五番あった。
俺は壁際のベンチに移った。窓口の掲示板に、協会規定の改訂告知が貼ってある。読むものが他にない。
細かい字が並んでいた。手数料の改定、保険等級の見直し、書式変更。
その中に、削除でも改訂でもない条文が一つ引用されていた。
第四十一条。保有スキルの喪失が確認された場合、当該探索者のランク認定はこれを取り消す。
下に注記があった。〈本条は制度発足時より適用実績なし〉
適用実績なし。十一年、一度も使われていない。
制度を作った人間は、スキルが消えることがあると思っていた。思っていたから条文を用意した。用意して、十一年間、誰もそれを開かなかった。
俺は掲示板の隣に目を移した。今年の鑑定受付日程が貼ってある。六月二十七日。俺の受付日だ。
あと一週間。
地下二階、鑑定課。あの階に降りると、待合の椅子が七つ並んでいる。座面のクッションが左から三番目だけ潰れている。十一年、俺はいつもそこに座った。
背中で、受付の呼び出しが鳴った。四十一番。
立ち上がる。ベンチの座面が、汗で湿っていた。
◇
整形外科の待合室は、協会より人が少なかった。
テレビがついている。夕方のニュース番組で、ダンジョン関連の特集をやっていた。人類最強と呼ばれる十九人のS級を、写真付きで並べている。
左から三番目に、九条巽がいた。
右手のレントゲンを撮って、三本とも骨折だと言われた。中手骨。全治四週間。金属の添え木で固定されて、包帯を巻かれた。
「何をしたらこうなるんですか」
「ぶつけました」
「鉄か何かに?」
「そんなところです」
医者はカルテに何か書いた。それ以上は聞かなかった。この地区の整形外科は、探索者と業者の怪我を毎日見ている。理由を聞いてもきりがないと知っている。
「無理に使うと変形して残ります。四週間、右手は無いものと思ってください」
「わかりました」
治療費は八千円と少し。通帳の残高が四十六万円になった。
帰り道、雨は上がっていた。
湾岸の道は、乾きかけたアスファルトから湯気が立っている。六月の夕方の匂いだ。
歩きながら、頭の中で三行を並べた。
殴られると、増える。
撃つと、消える。
撃つと、あっちからも消える。
三行目は、今日確かめた。
槙原が三年持っていたものが、俺が鉄を殴った十秒のうちに無くなった。あの男はもうB級ではいられない。掲示板の第四十一条が、たぶん彼のところに行く。制度発足から一度も使われていない条文が。
俺がやった。
そのことに、名前をつけられなかった。
悪いことをした、とは思っていない。あの男は昨日、俺を二メートル飛ばして謝りながら通り過ぎた。仲間が遺品を踏んでも止めなかった。
ただ、あの紙を指先でつまんで歩いていく背中を、俺は十一年見てきた側だ。
どっちの側にも立てないまま、俺は歩いていた。
信号待ちで、コンビニの窓に自分が映った。包帯を吊った四十間近の男が、作業着で立っている。
この顔を、槙原は覚えていないだろう。昨日押した相手の顔なんて、覚える理由がない。
俺も十一年、誰の記憶にも残らずにやってきた。
それが今日、初めて役に立った。俺があの場にいたことを、誰も結びつけない。
◇
アパートに戻って、包帯の上から掌を見た。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
一行。
昨日から、これだけは減っていない。
俺は窓を開けた。濡れた金網の匂いが入ってくる。
三十四階の会議室で、あの男は俺の胸倉を掴んだ。
三歩ぶんの距離が消えた。
あれが、この一行だ。
あの男から取ったものが、いま俺の手の中にある。撃てば、俺の手から消える。
あの男からも、消える。
S級から、消える。
テレビで並んでいた十九人が、十八人になる。
俺は窓の桟に額をつけた。金属が冷たかった。
右手は四週間使えない。金は四十六万円。仕事は今週で終わる。
条件は何ひとつ揃っていない。
それでも、掌の一行だけは減らない。誰にも取られない。使うまで、そこにある。
まだ撃っていない。
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