試し撃ち
「鑑定」
掌に向かって呟いた。何も出ない。
もう一度。出ない。
朝の六時半、六畳の部屋で、俺は自分の右手をひっくり返しては戻していた。夜のうちに見た白い文字は、跡形もない。
寝不足の目が見せたものだと言われれば、そうかもしれない。切れかけの蛍光灯の下で、四十間近の男が幻を見た。それだけの話だ。
台所で湯を沸かして、袋のインスタント味噌汁を出した。乾いた葱が、湯に触れて広がる。
もう一度、掌を見た。
「……鑑定」
白い文字が浮かんだ。
名前と、その下に一行。間合い喰い。
俺は味噌汁の椀を持ったまま、しばらく動かなかった。
出るときと出ないときがある。違いは、たぶん、こっちがどれだけ本気で呼んでいるかだ。半分あきらめて呟くと出ない。
馬鹿げている。それでも、そういうものらしい。
味噌汁を飲み干して、椀を洗った。壁の時計は六時四十分。今日も置き場に行く。契約は切れているが、引き継ぎは今週いっぱいある。
流しの縁に、昨日の通知書の控えが置いたままになっていた。折り目のところが、雨で少しふやけている。
二つ折りのまま、引き出しに入れた。捨てるのは、引き継ぎが終わってからでいい。
◇
湾岸第二ダンジョンの搬出口には、朝から回収の箱が積まれていた。
三日前に死んだD級の遺品だ。名前は伏見。二十九歳。俺の担当ではないが、引き継ぎのうちに入っている。
防具は預かり保管、私物は箱詰め。手袋を二重にして、まず血の乾いた部分を確かめる。
こういうとき、俺はいつも同じ順番でやる。硬いものから先に取り出す。柔らかいものは最後に回す。混ぜると、柔らかいほうが必ず傷む。
背嚢の底から、透明な袋に入った歯ブラシが出てきた。使い込んで毛が寝ている。
ダンジョンに歯ブラシを持っていく人間がいる。三日で戻るつもりだったんだろう。
保管票に「歯ブラシ 一本」と書いた。書かないと、途中で捨てられる。安いものほど、誰かが親切心で処分する。
箱の口を開けたまま、次の袋に手を伸ばしたときだった。
「おい、そこどけ」
顔を上げると、若い探索者が三人立っていた。
真ん中の男が顎で通路をさす。装備は新しい。B級の腕章がついている。
「すみません、あと二分ください。並べてる途中なんで」
「二分?」
男が笑った。片方の口の端だけを上げる笑い方だった。
「あんた、うちの下でもないよな。業者だろ。なんで待たなきゃいけねえの」
通路は幅が二メートル半ある。荷車を押しても、人が二人すれ違える。
それを言ってもよかった。言わなかったのは、言ったところで通路が広くなるわけではないからだ。
「すみません。今、どけます」
箱の蓋を閉じようとして、手が遅れた。
肩を押された。押しただけのつもりだったんだろう。
俺の身体は二メートル飛んで、コンテナの角に背中から当たった。
肺の空気が全部出ていった。
「ああ、悪い。手加減がな」
男は謝りながら通り過ぎていった。仲間の一人が、床に散った箱の中身を踏んで、そのまま行った。
「槙原さん、それ踏んでますって」
「知らねえよ、業者の荷物だろ」
三人の足音が遠くなった。
歯ブラシが、コンクリートの目地に挟まっていた。
俺は這って、それを拾った。土を払って、袋に戻した。保管票の「一本」の字が、汗で滲んでいた。
背中が熱い。肋のあたりで骨が軋む音がしていた。
掌が、光っていた。
◇
柱の陰に入ってから、口に出した。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
・剛腕
二行になっている。
昨日、胸倉を掴まれた。今日、肩を押された。
両方とも、こっちが触られたときだ。
考えたわけじゃない。並んだ二行を見て、身体のほうが先に納得した。あの二人は、俺に触った。それだけが共通していた。
俺は左右を見た。誰もいない。搬出口の音は遠い。
剛腕のほうを、選んだ。
なぜ間合い喰いを選ばなかったのか。理由は自分でも曖昧だ。ただ、あの男から取ったものを、今日ここで使う気にはならなかった。あれは、まだ使う場所じゃない。
目の前に、空のコンテナがある。厚さ三ミリの鋼板。俺が十一年、毎日蹴られたり体当たりされたりしているのを見てきた鉄の箱だ。
探索者が本気で殴っても、へこむのは年に何度かしかない。去年、A級が腹立ちまぎれに蹴ったときは、蹴った側の脛が折れた。
右の拳を握った。
撃ち方は知らない。呼び方も知らない。ただ、掌の一行に手を伸ばすつもりで、力を入れた。
肩から先が、自分のものでなくなった。
殴った。
音は、思っていたのと違った。鐘でも太鼓でもなく、湿った布を叩いたような、鈍くて低い音だった。
鋼板が、拳の形に凹んでいた。
深さは指二本ぶん。裏側まで膨らんでいる。
息を吸った。血の味がした。
それから、右手が言うことを聞かないことに気づいた。
人差し指と中指と薬指が、あり得ない角度で開いている。付け根から曲がっていた。
膝が抜けて、その場に座り込んだ。
痛みは遅れて来た。遅れて来て、それから一気に来た。声が出そうになるのを、左手で口を押さえて止めた。
冷たい汗が、背中を伝っていく。
十秒か、一分か。
落ち着いてから、俺は左手だけで掌を開いた。
「……鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
一行に戻っている。
剛腕がない。
もう一度呼んだ。出ない。三度目も出ない。
一度きり。使えば、消える。
その代わりに、鉄が凹んで、俺の指が三本折れた。
凹んだコンテナを見上げた。あの若いB級が、片手で人を二メートル飛ばした力。あれと同じものが、たった今、俺の手から出て、それきり無くなった。
もったいない、と思った。
自分でも意外な感想だった。指が三本折れているのに、最初に浮かんだのがそれだ。
十一年、俺は物を捨てない仕事をしてきた。潰した段ボールも縛って回収に出す。使えるベルトは金具だけ外して取っておく。遺品の歯ブラシまで票に書く。
だから、一度きりのものを鉄の箱に使ったことが、割に合わなかった。
次があるなら、割に合うところで使う。
◇
残りの箱は、左手だけで運んだ。
時間は倍かかった。台車の取っ手を左手で握り、身体ごと押す。段差のところで一度、中身をぶちまけそうになった。
伏見の私物を並べ直して、歯ブラシを一番上に置いた。遺族が最初に見るのがそれでいいのかは分からない。ただ、下に埋めるよりはいいと思った。
封をして、宛先を書いた。字が震えたので、二回書き直した。
夕方、置き場に戻ると、峰岸さんがシャッターの前で煙草を消していた。
俺の右手を見た。テーピングもしていない、腫れ上がった三本を。
「どうした」
「ぶつけました」
峰岸さんは、それ以上聞かなかった。
事務所からガムテープと、割り箸を二膳持ってきて、無言で差し出した。
割り箸を添え木にして、テープを巻いた。指が固定されると、痛みが少しだけ引いた。
「明日、医者行け」
「はい」
「……そうか」
峰岸さんは自転車を押して帰っていった。
俺は事務所の椅子に座って、暮れていく置き場を見ていた。
油とコンクリートの匂いに、テープの接着剤の匂いが混ざっている。
一度きり。撃てば消える。
それは分かった。
分からないことが、ひとつ残っている。
昨日から今日にかけて、俺は二人に触られた。二人ぶん入って、一つ使って、一つ残っている。
入るのは、たぶんこれからもある。俺に触る人間は毎日いる。
問題は、そっちじゃない。
俺の手からは消えた。
じゃあ、あの若いB級のほうは、どうなっているんだろう。
割り箸を巻いた右手を、左手でそっと持ち上げてみた。指は動かない。
明日、医者に行く前に、寄るところができた。
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