該当なし
「才能がないやつは、いてくれるだけで邪魔なんだ」
三十四階の会議室は、空調が効きすぎていた。長机は天板に自分の顔が映るほど磨かれている。俺の前にだけ、湯気の立たない紙コップが置かれていた。中身は水だ。
向かいに座っているのは九条巽。クラン『天啓』のS級探索者。画面で見るより顎の線が細い。
机の上を、書類が一枚すべってきた。
業務委託契約解除通知書。署名欄には、押す場所を間違えないようにと付箋まで貼ってある。
「ええと、柏木さん」
同席している総務の女性が手元を見た。名前を確認したのは九条ではなく、彼女のほうだ。
「第三資材置き場の、柏木湊さん。搬入と、それから」
「遺品回収です」
「あ、はい。そちらも」
九条が椅子の背に体重を預けた。革が軋む音がした。
「十一年いたんだってな。毎年、鑑定受けてるって聞いたけど」
「はい」
総務の女性が紙をめくった。乾いた音が、空調の唸りに混ざる。
「二〇二六年から、昨年まで。十一回。……いずれも該当なしですね」
「はい」
九条が紙コップを持ち上げて、中を覗いて、また置いた。飲まなかった。
「悪いけど、うちは慈善事業じゃない」
搬入も遺品回収も覚醒者にやらせたほうが早い、という話は前から出ていた。俺の日当は一万二千円で、C級の探索者を一日雇えば三万かかる。それでも向こうのほうが早いなら、算盤は合う。
「才能がないやつを現場に置くのは、あんたのためにもならない」
九条は俺を睨んでいなかった。声も荒らげなかった。手元の予定表を読み上げているのと同じ調子だった。
「二年前、うちの隊で二人死んだ。両方、入る資格のなかったやつだ」
総務の女性の指が、紙の上で止まった。
「資材の人間は入らないだろ、って顔してるな。入るんだよ。搬入口は三層とつながってる。あんたら業者が階段の踊り場で伸びてるのを、俺は何回か運んだ」
それは本当だった。俺の前にいた人間も、一昨年に肩を潰して辞めている。
言い返す材料なら、ある。
搬入路の段差がどこにあるか、俺は全部覚えている。どの箱から降ろせば通路が塞がらないか。雨の日にどの床が滑るか。
去年の冬、二十四歳のD級が第二ダンジョンで死んだ。彼の背嚢には、潰れた菓子パンと、母親宛の未投函の封筒が入っていた。封筒は血で端が固まっていた。俺はそれを一晩かけて蒸して、剥がして、乾かして、遺族が素手で持てる状態にしてから箱に詰めた。
誰にも頼まれていない。日当も変わらない。
十一年ぶん、ある。
それを言う場所が、この部屋にはない。
「わかりました」
総務の女性がボールペンを差し出した。付箋の貼ってあるところに、名前を書く。柏木湊。十一年前にこの仕事を始めたときも、同じように名前を書いた。あのときの紙には、業務内容の欄に「資材運搬」としか書いていなかった。ダンジョンという言葉が、まだ書類に載っていなかった頃だ。
控えを二つ折りにして、上着の内ポケットに入れた。
「今まで、ありがとうございました」
頭を下げて、扉のほうへ歩き出す。
背後で椅子の脚が鳴った。
「おい」
振り返るより先に、胸倉を掴まれていた。
三歩ぶんはあったはずの距離が、無くなっている。
「聞いてんのか。あんたのためだって言ってんだよ」
九条の指がシャツの襟ごと喉のあたりを締めていた。石鹸の匂いがした。柔軟剤のよく効いた、清潔な匂いだ。
総務の女性が短く声を上げて、九条の手が離れた。
「……悪い」
踵が床についた。俺は襟を直した。
「大丈夫です」
部屋を出るとき、九条はもうこちらを見ていなかった。
◇
協会の有明本部で、出入り証を返した。
窓口の職員は俺の名前を一度も呼ばなかった。書類の番号だけで手続きが進んで、五分で終わった。カウンターの上のプラスチックのケースに、俺の写真がついたカードが放り込まれる。すでに十枚ほど重なっているうちの一枚になった。
「引き継ぎは、今週いっぱいでお願いします」
「はい」
ロビーの椅子には、俺と同じ作業着の人間が三人座っていた。誰も喋っていない。奥のエレベーターの脇に、階数の案内板が出ている。
一階、総合受付。三階、探索者登録。五階、事故調査室。
地下二階、鑑定課。
六月二十七日に、俺はまたあそこの椅子に座る。今年で十二回目になる。切られた人間が受けに行っても、たぶん誰も止めない。
外に出たら降っていた。傘は持っていない。十一年、この仕事をしていて傘を差した記憶がほとんどない。両手がふさがるからだ。
湾岸の道は、探索者と業者しか歩いていない。見分けるのは簡単で、荷物を持っていないほうが探索者だ。
第一ダンジョンの搬出口の前を通ると、若い連中が新品の装備の箱を積み上げて、中身だけ抜いて空箱を投げていた。二重の段ボールは水を吸うと重い。潰して縛るのが俺の仕事だ。今日はやらなくていい。明日はやる。
投げられた箱のひとつが足元まで転がってきた。拾って、雨の当たらない庇の下まで運んで、立てかけた。
誰も見ていない。
通帳の残高は四十七万円だった。家賃が五万二千円。国保と年金と電気とガスで、だいたい三万。
半年、もたない。
計算をしたわけじゃない。四十七を八で割るくらいのことは、歩きながらでもできる。
雨が首筋から背中に入ってきた。冷たいというより、ぬるい。六月の雨はそういう温度をしている。
胸倉を掴まれたところが、まだ熱を持っている。ぶつけたわけでも、殴られたわけでもないのに。
あの三歩は、どこへ行ったんだろう。
◇
第三資材置き場に着いたのは、夜の九時を回っていた。
シャッターを腰の高さまで上げて、くぐる。中は蛍光灯が四本あって、そのうち一本が切れかけていた。数秒に一度、右の奥だけが暗くなる。
埃と、濡れたコンクリートと、油の匂いがした。十一年、ずっと同じ匂いだ。
引き継ぎ用に、荷札の綴りを整理しておかなければいけない。日付順に並んでいるように見えて、実際は搬出口ごとに分けてある。俺以外に読める人間がいないので、全部書き直すつもりだった。
次に来る人間は、たぶん覚醒者だ。三万で雇われて、この綴りを一度も開かずに済む段取りを組むだろう。それでいい。書き直すのは、その人のためというより、間違った箱が遺族のところへ行かないためだ。
作業着の袖で顔を拭ってから、綴りの束を引き寄せた。棚の鉄が、指の腹に錆をつけた。
束の下敷きになっていた箱を引き出そうとして、角に指を引っかけたとき、右の掌に何かが見えた。
最初は、蛍光灯の反射だと思った。
手を裏返す。切れかけの明かりが落ちて、置き場が一瞬暗くなる。
暗いところでも、それは見えていた。
掌の真ん中で、爪の先ほどの光が、呼吸するみたいに膨らんだり縮んだりしている。
作業着で拭った。消えない。水道の蛇口をひねって流した。錆びた水が出て、それから透明になって、光はそのまま残った。切り傷かと思って角度を変えたが、皮膚は切れていない。
左手にはない。右手だけだ。
胸倉を掴まれたのも、右のほうだった。あの男の指が、シャツ越しに鎖骨の下に当たっていた。
俺は手を握った。開いた。まだある。
十一年、探索者が何をするかは横で見てきた。協会が配るタグに触れて、鑑定、と言う。それだけだ。子供でもできる。俺は一度もやったことがない。タグを持っていないからだ。
タグはない。掌はある。
馬鹿らしいと思いながら、口に出した。
「鑑定」
置き場の空気が、少しだけ止まった気がした。
掌の上に、白い文字が浮かんだ。協会の鑑定室の画面と同じ書体だった。年に一度、十一回、あの四文字が出るのをこの目で見てきた。
俺の名前が出ている。
その下に、もう一行あった。
名前:柏木湊
スキル:
・間合い喰い
切れかけの蛍光灯が、また落ちた。
暗がりの中で、その一行だけが白く残っていた。
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