返しに来ました
取材は、一日ずれた。
新規区画の調査が延びて、編成が上がってきたのは翌日の昼だった。予定が組み直されて、七月一日の午後四時。第一ダンジョン前。
その日の朝、梅雨が明けた。
十一年見てきた湾岸の空が、久しぶりに端まで青かった。
俺は午後三時に着いて、人垣の最前列に立った。
手には何も持っていない。
右手は添え木と包帯のまま。左の肋は折れている。左腕には昨日の火傷が赤く残っている。
準備したものは、何もなかった。
一時間、そこに立っていた。
隣に来た主婦らしい人が、日傘の位置を気にして半歩ずれた。俺の包帯が当たらないように、という気の遣い方だった。
礼を言うと、その人は少しだけこちらを見て、それから前を向いた。
最前列の柵は、日に焼けて塗装が浮いている。左手を掛けると、剥がれた塗料が指の腹についた。
十一年、俺はこの柵の内側で仕事をしてきた。外側に立つのは初めてだった。
◇
午後四時。
ゲートが開いて、拍手が起きた。
九条巽が出てきた。装備は汚れているが、疲れた歩き方ではない。カメラのフラッシュが連続で鳴る。
「九条さん、新規区画の踏破おめでとうございます」
「深度は」
「一言お願いします」
付き人が二人、記者の列を横から抑えている。
俺は人垣を分けて、前に出た。
警備は俺を止めなかった。
九条が歩いてくる。三メートル。二メートル。
俺は、その正面に立った。
九条の足が止まった。
二秒。
「……ああ、あんたか」
昨日と同じ二文字が、先に出た。
カメラが何台かこちらを向いた。
「一つだけ、返しに来ました」
俺が言うと、九条は笑いかけて、途中でやめた。
俺が半歩、前に出たからだ。
九条の間合いに入っていた。
この男は、他人が自分の内側に入ることに慣れていない。
記者は一メートル手前で止まる。付き人は横に立つ。ダンジョンの中でも、この男の周りは常に空いている。距離を支配する男の距離を、誰も侵さない。
侵していい人間が、一人だけいる。
風景だ。
柱や、台車や、置きっぱなしのケースと同じものは、間合いの計算に入らない。
◇
三十四階の会議室で、この男は俺の胸倉を掴んだ。
あのとき、三歩ぶんの距離が消えた。
俺は掌を握って、その一行に手を伸ばした。
距離が、無くなった。
九条の顔が、目の前にあった。
カメラも、付き人も、記者も、全部が後ろに置き去りになっている。二メートルのはずの空間が、いま、ゼロだ。
俺は右手を出した。
包帯を巻いた、折れたままの手を。
拳が九条の頬に届いた。
音は、思っていたのと違った。
肉と骨がぶつかる音は、鉄を殴ったときより軽くて、湿っていた。
九条の身体が浮いて、ゲートの柵まで飛んだ。金属が撓んで、大きな音を立てた。
同時に、俺の右腕が折れた。
前腕の真ん中で、内側から何かが押し出される感触があった。指の骨は、その前に砕けていた。
膝から落ちた。
地面が熱かった。梅雨明けのアスファルトが、一日ぶんの熱を溜めている。
頬をつけたまま、俺は自分の右腕を見ていた。
肘から先が、あってはいけない角度で曲がっている。
痛みは、まだ来ていなかった。十日前に指を折ったときも、そうだった。身体が納得するまで、少し時間がかかる。
その数秒のあいだに、思ったことが一つある。
もったいない、ではなかった。
割に合った、でもなかった。
返した、と思った。
◇
悲鳴と、椅子の倒れる音と、走る足音。
「九条さん!」
「誰か、警備!」
柵のところで、九条が起き上がった。
早い。頬を押さえてもいない。
目が俺を捉えた。
S級の反射だった。俺を潰すために、距離を詰めようとした。
九条が一歩踏み出した。
二歩。三歩。
普通に走っていた。
普通の速さで。
人間が、地面を蹴って進む速さで。
九条の足が止まった。
まだ五メートルある。
九条は自分の掌を見た。
右手を上げて、開いて、握って、また開いた。
「鑑定」
カメラの前で、そう言った。
何も出なかった。
「……鑑定」
もう一度。
付き人が「九条さん?」と近づいた。九条は手を振って止めた。
三度目。
「鑑定」
シャッターの音が止まっていた。
誰も何が起きているのか分かっていない。分からないまま、全員が撮っていた。
記者の一人が、遠慮がちに声を出した。
「九条さん、あの、お怪我は」
九条は答えなかった。
もう一度、掌を開いて、閉じた。
装備を確認するときの動作だった。ベルトの締まりを確かめ、留め具の位置を確かめ、最後に自分の手を確かめる。毎回やっている手順なんだろう。順番が身体に入っている。
最後の一つが、返ってこない。
九条が、初めて俺を見た。
十二日間、一度も俺を見なかった目が、正面から俺を見ていた。
「お前、何をした」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
腕の骨が折れていて、口を開くと呼吸が入ってこない。
警備の男が二人、俺の脇を抱えた。九条は追ってこなかった。
その場に立ったまま、掌を見ていた。
◇
協会の地下二階に、医務室がある。
処置室で、右腕を固定された。前腕の骨と、指の骨。全治六週間。
「二回目ですね」
医師が言った。十日前に俺の指を診た医者だった。
「同じ手ですか」
「同じ手です」
医師はレントゲンを見ながら、それ以上聞かなかった。
処置が終わって、ベッドで横になった。
この階は、鑑定課と同じ階だ。
壁が薄い。廊下を挟んだ向こうから、聞き慣れた手順の音がしていた。
装置の起動音。冷却ファン。書類の擦れる音。
十一年、年に一度、俺が聞いてきた音だ。
◇
戸嶋詩織さんの声が、聞こえた。
「判定は、該当なしです」
九条の声が返した。
「もう一回」
装置の音が、また鳴った。
「判定は、該当なしです」
「もう一回だ」
三度目の起動音。
三十秒。
「判定は、該当なしです」
声は、一度も揺れなかった。
二回目も三回目も、同じ速度で、同じ抑揚で読み上げられた。
定型文だからだ。あの人は五年間、その定型文を毎日読んでいる。
俺は天井を見ていた。
処置室の天井は、蛍光灯が四本ある。四本とも切れていない。
十一年、あの四文字は俺のものだった。
缶の中に十二枚ある。仮設テントで受け取った一枚目から、四日前の十二枚目まで。
今日から、あの男のものでもある。
ざまあみろ、と思うはずだった。
十二日間、そう思うつもりで動いてきた。
実際に出てきたのは、それではなかった。
名前のつかないものが、胸の下のあたりに落ちてきて、そのまま溜まっている。
処置台の消毒液の匂いが、鼻の奥に残っていた。
◇
廊下が騒がしくなった。
台車の車輪の音。何人かの走る足音。
「息が浅い」
「過呼吸だ。袋、持ってきて」
担架が通り過ぎていく気配がした。
九条巽が運ばれていく。
S級が。
誰かが廊下で言った。
「何があったんだ」
誰も答えられなかった。
この国で、スキルが消えた記録は十一年間ひとつもない。
一件出たのは、十日前。二件目が、今日。
俺は固定された右腕を見た。指も、前腕も、動かない。六週間、この手は使えない。
左手を上げて、掌を開いた。
「……鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・硬化
・疾走
・火弾
三行。
間合い喰いが、無い。
撃った。
二度と戻らない。俺にも、あの男にも、この世界のどこにも。
テレビに並んでいた十九人が、十八人になる。
それを俺がやった。
廊下の騒ぎが遠ざかっていく。
誰かが警備を呼び、誰かが救急に連絡し、誰かが本部に報告している。
処置室のベッドで、俺は左手を下ろした。
この十二日で、俺の名前を呼んだ人間は三人だ。総務の女性と、峰岸さんと、戸嶋詩織さん。
いま、この建物にいる全員が、S級に何が起きたのかを話している。
誰も、俺の名前を出していない。
まだ誰も、俺のことを見ていない。
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