もう誰もいない
避難区域の検問を、歩いて越えた。
止められなかった。
名簿にない人間は、そもそも管理の対象になっていない。探索者証を確認する仕組みはあるが、持っていない人間を確認する仕組みがない。
十一年、俺はそういう場所に立っていた。
◇
九月十九日。秋晴れだった。
盛岡・第五十一ダンジョンは、市街地から四キロの丘にある。
丘の下まで来ると、音が聞こえた。
人の声ではない。地面を、何かが同時に踏む音だった。
数が多い。
強いのではなく、多い。
◇
県道が陥没していた。
避難バスが二台、止まっている。前輪が沈んで動けない。
バスの周りに、人がいた。
老人ホームの入居者と職員。四十七人。
車椅子が九台。歩ける人が二十人ほど。あとは、抱えないと動かせない。
職員は六人だった。六人で四十一人を動かす計算になる。
毛布が地面に並べてあった。抱えて運ぶ人を、一度そこに寝かせるためだ。
こういう段取りは、見れば分かる。十一年、重いものを人手で動かす現場にいた。
人手が、足りていない。
足りていないのは、東北の常駐がC級以下中心だからだ。矢代さんが八月に、薄いところから薄くすると言った、その場所だ。
◇
矢代蒼さんが、そこにいた。
スーツではなく、作業用のベストを着ていた。無線を持って、走り回っている。
俺を見つけて、止めなかった。
「都合の悪い数字から言います」
息を切らしながら、そう言った。
「群れの先頭が、この道に到達するまで四十分です」
「はい」
「バスの代替は、最短で一時間十分後です」
「四十七人ですか」
「はい」
◇
九条巽が、バスの脇にいた。
搬送班のビブスを着ている。車椅子を一台、押していた。
俺を見て、何も言わなかった。
言うことがなかったんだと思う。
◇
午後四時二十分。
群れが、丘を降りてきた。
黒い。個体の形が見えないくらい、数が多い。
県道の直線を、正面から埋めて進んでくる。
現地の探索者が十二人、道の途中で防いでいた。C級とD級だ。三分持たなかった。
二人が担がれて下がってきた。
◇
俺は前に出た。
陥没した路面の、いちばん狭いところに立った。
道幅が七メートル。ここが一番狭い。
左手を、右の掌に当てた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・火弾
・縮地
・鉄糸
・不動
四行。
◇
不動を撃った。
鷹取源三から預かったものだ。
身体が、止まった。
自分の意思では、指一本動かない。まばたきもできない。
その代わり、外から来るものが、全部止まった。
◇
群れが、俺にぶつかった。
衝撃はない。音もしない。
視界だけが、黒くなった。
顔の前十センチのところで、何かが押し合っている。牙も爪も、そこで止まっている。
俺という一点で、七メートルの道が塞がっている。
押し寄せて、押し寄せて、それでも一歩も進まない。
鷹取源三は、これを持って十二年、クランの頂点にいた。
持っていて、一度も自分では手を汚さなかった。
汚さずに済む力だ。立っているだけで、誰も通れない。
後ろで、職員が車椅子を押している音がした。
一台。二台。三台。
声も聞こえた。誰かが名前を呼んでいる。「山下さん、行きますよ」「はい、はい」
四台。五台。
◇
三分が経ったところで、群れが迂回しはじめた。
道の脇の斜面を、登りはじめた。
不動は防ぐ。押し返さない。
守れるのは、俺が立っている一点だけだ。
◇
解いた。
解いた瞬間、肋が三本、内側から折れた。
三分ぶんの衝撃が、全部、まとめて来た。
膝から落ちた。息が入ってこない。
九条が走ってきて、俺の襟を掴んで引きずった。
スキルのない四十一歳が、素手で。
◇
バスの一台目が出た。
二十四人。
残り二十三人。
◇
二台目の退路が、瓦礫で塞がっていた。
斜面を回り込んだ群れが、崩した土砂だった。
高さが二メートル。長さが十メートルほど。
人力では動かない。
時間もない。
◇
火弾を撃った。
梶という男が、八月に俺の腕を焼いたやつだ。
赤い光が掌に集まって、それから、前へ出た。
瓦礫が吹き飛んだ。土砂が二十メートル先まで散った。
撃った瞬間、左腕の筋が切れた。
肘から手首までが、垂れ下がった。持ち上がらない。
◇
二台目が動きはじめた。
群れが、横から回り込んできた。
バスの側面に、あと二十メートル。
路地のような細い道が、二本ある。そこから来る。
◇
鉄糸を撃った。
八月の夕立の夜に、俺を縛った男のものだ。
金属の糸が、掌から出た。
二本の道の入口を、編んで塞いだ。
編むために、腕を振った。左腕は動かない。右腕だけで振った。
右の膝が、逆に折れた。
糸を張る反動が、身体のどこかに逃げるはずのものだった。逃げ場がなかった。
◇
二台目のバスが出ていった。
四十七人。
全員、脱出した。
◇
俺は道の真ん中に座り込んでいた。
立てない。
右膝が折れている。左腕が動かない。肋が三本いっている。
塞いだ糸が、内側から膨らんでいた。
◇
掌を開いた。
左手が動かないので、右手を目の高さまで持ち上げた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・縮地
一行。
◇
縮地。
七月の暑い日に、置き場の前で俺を面白がった男のものだ。
一歩で数メートル詰める。
それだけだ。
群れを止める力はない。
◇
糸が破れた。
二本の道から、群れが出てきた。
バスは行った。避難は終わった。
この先は、市街地だ。
◇
九条巽が、立ち上がった。
俺の前に出た。
「動けません」
俺は言った。
「逃げてください」
「知ってる」
九条は振り返らなかった。
上着の内ポケットから、黒い手帳を出した。
輪ゴムのかかったまま、俺の胸ポケットに突っ込んだ。
◇
「預けとく」
九条が言った。
「あんた、預かるのが仕事なんだろ」
◇
九条巽が、群れの前に立った。
スキルはない。装備もない。搬送班のビブスを着た四十一歳の身体が、一つあるだけだ。
構えは、綺麗だった。
十二年、S級としてこの姿勢で立ってきた人の構えだった。
中身だけが、無い。
一分持たなかった。
◇
九条が倒れた。
倒れる直前に、こちらを見なかった。
最後まで、前を見ていた。
◇
俺は動けない。
左腕は上がらない。右膝は折れている。肋は三本いっている。
手札は、一枚。
一歩で数メートル詰めるだけの、縮地が一枚。
◇
無線が、道端に転がっていた。
矢代さんの声がしていた。
『柏木さん』
拾えない。手が届かない。
『退がってください』
声が、いつもと違った。
『もう、計算が立ちません』
◇
計算。
そうだ、この人はいつも正しい。
都合の悪い数字から出して、嘘をつかず、一度も脅さなかった。
俺は正しくない。
数えられない。読めない。何も持っていない。
◇
十一年、俺は該当なしだった。
年に一度、地下二階の椅子に座って、四文字を受け取った。十二回。
持っていない側の人間として、十一年、荷物を運んでいた。
運んだものの中に、人が一人いた。
その人は、閉じた入口の内側で倒れていた。
どうやって止めたのかは、記録に書かれていない。自然に収束した、と分類されている。十一年で、一度しか使われていない分類だ。
◇
胸ポケットに、九条の手帳が入っている。
十一人の名前が書いてある。二〇三〇年から二〇三五年まで。
南は書いていない。外したから、生きている。
俺の名前も、書いていない。
俺は外された側で、外されて、生きている。
◇
俺は右手を地面についた。
折れていないほうの脚に、体重を移した。
膝が笑った。
もう一度、右手で押した。
立ち上がった。
◇
群れが、こっちに来ていた。
距離は、五十メートルほどある。
縮地なら、一歩で詰められる距離だ。
詰めて、どうする。
一枚では足りない。四十七人を出すのに、三枚使った。三枚使って、まだ止まっていない。
残りは一枚だ。
それでも俺は、掌を握った。
俺の前には、もう誰もいなかった。
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