預かってた
「あんた、あの箱、まだ拭いてんのか」
峰岸さんが、シャッターの前で煙草を消しながらそう言った。
◇
盛岡から一度、東京に戻っていた。
第二次氾濫の待機状態が続いている。避難区域の中には一般人は入れない。矢代さんから、本格的なのは数日以内だと連絡があった。
その数日を、東京で待っている。
脚は歩ける程度に戻った。杖はもう使っていない。
通帳の残高は八万円になった。
◇
第三資材置き場に来たのは、契約が切れて八十六日目だった。
シャッターは半分だけ上がっていた。九月の空気が、置き場の中に入り込んでいる。夏の熱が抜けはじめた匂いがした。
「来ると思ってたぞ」
峰岸さんが言った。
「なんでですか」
「盛岡が来たからだ」
それだけだった。
◇
事務所の台に、アルミホイルの包みが二つ置いてあった。
俺の分が用意されている。
「食え」
「はい」
塩が濃い。九月に入って、米が酸っぱくなくなっていた。
九年、ずっとこの味だ。
◇
「箱、拭くなら鍵貸すぞ」
峰岸さんが、事務所の壁のキーボックスから鍵を外した。
保管室の鍵だ。
「二か月、拭いてねえだろ」
「……はい」
「俺がやっといた。上の段は届かねえから、下だけだが」
俺は鍵を受け取った。
◇
保管室の扉を開けると、空気が変わった。
外より二度低い。除湿機が回っている。乾いた匂いがした。
棚が四列。四十一箱。
下の段は、埃がなかった。上の段には、うっすら積もっていた。
俺は脚立を出して、上がった。
◇
最上段の、いちばん左。
朝倉智/二〇二六年六月/引取人なし。
手書きの字は、十一年前より薄い。
角の潰れた箱。今は使われていない規格の段ボール。
俺は天面を拭いた。埃が雑巾に移った。
それから、いつもの癖で角を押した。
直らない。十一年、一度も直ったことがない。
◇
その日、俺は箱を開けた。
十一年、一度も開けたことがなかった。
遺品は開封しないのが規則だからだ。中身は保管票に書いてある。書いてあれば、開ける必要がない。
保管票は箱の側面に貼ってある。四項目だけだった。
手袋一双。財布一。免許証一。書類一。
書類一、というのは何だろうと、十一年思ったことがなかった。
規則を破る理由は、思いつかなかった。
思いつかないまま、蓋を開けた。
テープは十一年前のもので、乾いて自然に剥がれた。破る手応えすらなかった。
◇
中身は少なかった。
使い込んだグローブが片方。指の付け根が擦り切れている。
免許証。三十一歳の男の写真。目が細くて、少し笑っている。
財布。中に千円札が二枚と、レシートが一枚。二〇二六年六月十三日、コンビニ、おにぎり二個とお茶。
その下に、折り畳んだ紙があった。
◇
搬送記録だった。
協会の様式ではない。当時、協会がまだ搬送の様式を作っていなかったので、俺の会社の伝票が使われている。
日付は、二〇二六年六月十四日。
品名の欄に、「人体」と書いてあった。他に書きようがなかったんだと思う。
搬送担当者の署名欄に、字がある。
柏木湊。
二十八の字だった。
◇
俺は脚立の上で、その紙を持っていた。
思い出したのは、順番のあることではなかった。
断片だけが、次々に落ちてきた。
最初の氾濫の日。
湾岸第一。まだダンジョンという言葉が書類に載っていなかった。
誰も何が起きているのか分かっていなかった。
うちの会社に電話が来て、運べと言われて、俺と社長で行った。
溢れたものが、二時間で止まっていた。
どうやって止まったのかは、誰も知らなかった。
その人は、閉じた入口の内側で倒れていた。
俺は担架の後ろを持った。
手袋を、していなかった。
用意されていなかったからだ。資材屋の伝票で人を運ぶような日に、手袋の用意があるわけがない。
運んでいる途中で、その人の手が、俺の手に当たった。
担架の縁から落ちたのを、俺が押し戻した。
冷たくはなかった。まだ、温かかった。
それだけだ。
十一年、思い出したこともなかった。思い出すほどのことでもなかった。
◇
脚立の上で、俺は自分の右の掌を見た。
五枚は入らない。いまは四枚だ。
その下に、十一年、何かがある。
数えられない。掴めない。名前も出ない。
六枚目を受けたとき、一番古い一枚が押し出されて消えた。あれで、入れ物には限りがあると分かった。
限りがあるのに、その下に入っている。
◇
入れ物の中には、限りがある。
入れ物そのものが最初に受け取ったものは、たぶん、中身として数えられていない。
俺は覚醒しなかったんじゃない。
配られなかったんでもない。
◇
十一年、俺は毎年鑑定を受けた。十二回、全部該当なしだった。
該当なし。持っていない側。
持っていないから、預かる側に入れられた。
どちらが先だったのかは、分からない。
◇
矢代蒼さんが見せた表を思い出した。
二〇二六年。死亡四十一。新規覚醒三十九。
二人足りない。
あの年の一行目だけ、左と右が二つずれていた。他の十行は、誤差が一つか二つだった。
二人ぶんが、どこかに行った。
俺は一人ぶんを、十一年、掌の底に置いていた。
もう一人がどこへ行ったのかは、分からない。俺には器が一つしかない。
◇
矢代さんは、この表を三週間かけて作った。
作って、俺に渡した。
あの人は、数字が何を意味するかを言わなかった。言わずに、渡した。
自分でそこまで到達していたのかもしれない。到達していて、言わなかったのかもしれない。
どちらでも、結果は同じだ。俺はいま、脚立の上でそれを見ている。
◇
脚立を降りた。
紙を元の位置に戻して、財布を戻して、免許証を戻して、グローブを戻した。
蓋を閉めて、押し戻した。
角を、もう一度押した。
直らなかった。
◇
保管室を出て、鍵を返した。
「あった、探しもん」
峰岸さんが言った。
俺が何かを探しに来たと、この人は思っていたらしい。
「……はい」
「そうか」
峰岸さんは、それ以上聞かなかった。
九年で、この人が俺に聞いたことは二つだけだ。飯を食ったかと、何かやったのか。
どちらも、答えを聞いても何もしなかった。
◇
「峰岸さん」
「ああ」
「俺、明日から少し行きます」
「盛岡か」
「はい」
峰岸さんは、キーボックスの蓋を閉めた。
「行って、どうする」
「返しに行きます」
峰岸さんが、こちらを見た。
九年で、この人と目を合わせたことが何回あるか、思い出せない。荷を渡すときと、シフトを確認するときくらいだ。
「あんた、六月からずっとそれ言ってんな」
言われて、初めて気づいた。
「返す相手は、いるのか」
俺は答えられなかった。
九条には返した。返して、あの男は失った。
律からは取った。返していない。返す方法がない。
朝倉智という人には、会ったことがない。運んだだけだ。
返す相手は、たぶん、もういない。
「いません」
「そうか」
◇
峰岸さんはしばらく黙っていた。
それから、事務所の冷蔵庫を開けて、アルミホイルの包みをもう二つ、袋に入れた。
朝の分の余りではない。
いつも二個しか作らない人が、四個持ってきていた。
「持ってけ」
「……ありがとうございます」
「新幹線、長えぞ」
◇
自転車を押して帰る峰岸さんの背中を見送ってから、俺は掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・火弾
・縮地
・鉄糸
・不動
四行。
その下に、名前のないものがひとつ。
◇
十一年前、担架の後ろで、手袋をしていなかった二十八歳の男に、あの人が最後に渡したもの。
俺は器だった。
配られなかったんじゃない。預かる側に、入れられたんだ。
十一年かけて、その預かりものを一枚ずつ、世界から減らしてきた。
◇
スマートフォンが震えた。
矢代さんからだった。
『本日十九時、第五十一ダンジョンの圧が限界値に達する見込みです』
『避難完了は八割です』
『残り二割は、間に合いません』
『ブックマーク追加』と、下にある☆☆☆☆☆評価をよろしくお願いします。




