止まっていました
杖をついて、内閣府の四階に上がった。
呼ばれていない。自分から来た。
◇
六日、盛岡のニュースを見ていた。
第一次氾濫は、九月一日の夜に起きた。溢れたのは五時間で、現地の探索者が十四人死んだ。負傷が六十二人。
二日目に一度収まって、避難区域が設定された。
三日目に、避難区域が拡大された。
五日目に、もう一度拡大された。
圧の数値は下がっていない。第二次が来る、と全部のニュースが言っていた。
◇
俺の脚は、九月一日から動いていなかった。
路地で疾走を撃った代償だ。両脚の腱が焼けて、六日目にようやく杖で歩けるようになった。
通帳の残高は十万円になっていた。
◇
対策本部は、四階の大きい部屋に立ち上がっていた。
人が三十人はいる。電話が鳴り続けている。壁のモニターに、盛岡の映像が出ていた。
俺は入口で止められなかった。
誰も俺を止めるほど、暇ではなかった。
◇
矢代蒼さんが、俺に気づいた。
驚かなかった。お待ちしていました、とも言わなかった。
「杖、どうされました」
それを最初に聞いた。
「使いました」
「……そうですか」
矢代さんは、それ以上聞かなかった。
「別室でよろしいですか」
◇
小会議室は、前回と同じ部屋だった。
冷房が、九月になって少し弱くなっていた。
矢代さんが資料を並べた。三枚。
「都合の悪い数字から出します」
◇
「一枚目です」
表だった。三行しかない。
「二〇二九年、和歌山。二〇三二年、青森。二〇三四年、鹿児島」
「はい」
「この十一年で、大規模氾濫は三回です。三回とも止まっています」
「止め方は」
「三回とも、S級を二人以上投入しています。加えてA級を四人」
矢代さんは一枚目を裏返した。
◇
「二枚目です」
S級十七人の内訳だった。
「四人が西日本の常時配置。七人が首都圏の常時配置。四人が負傷または年齢で稼働不可。二人が海外派遣中です」
俺は数えた。四足す七足す四足す二。
十七。
「盛岡に回せるS級は、ゼロです」
◇
「引けないんですか」
「引けば、引いた場所がゼロになります」
矢代さんは二枚目も裏返した。
「首都圏の七人を減らすと、湾岸六箇所の対応が組めません。西日本の四人を減らすと、大阪と福岡が空きます」
「海外の二人は」
「戻すのに、条約の手続きが要ります。最短で三週間です」
俺は杖を膝の上に置き直した。
「二年前なら、十九人でした」
矢代さんが言った。
「十九人なら、二人回せていました」
◇
「三枚目です」
矢代さんが最後の一枚を出した。
それは表でも地図でもなかった。
名簿だった。
「九月一日の第一次氾濫で亡くなった、十四人の名前です」
俺は名簿を見た。
年齢と、級と、所属クラン。C級が六人。D級が五人。E級が三人。
A級以上は、一人もいない。
一番若いのが十九だった。
「東北の常駐は、C級以下が中心です。薄いところは、そういう配置になります」
「薄いところから薄くする、って言ってましたよね」
「はい。八月に、この部屋で申し上げました」
矢代さんは名簿から目を離さなかった。
「東北の三箇所を、来年度の計画で薄くする予定でした」
「予定でした」
「来年度を待たずに、こうなりました」
◇
名簿の十四人の私物は、いまごろ現地の協会が預かっている。
遺族がいれば渡される。いなければ、どこかの保管室の棚に載る。
その作業をしているのは、俺と同じ日当の業者だ。
十四箱ぶんの荷札を、いま誰かが書いている。
◇
矢代さんは、名簿を俺のほうへ滑らせなかった。
机の真ん中に置いたままにした。
「柏木さん」
「はい」
「あなたが消した二つのスキルがあれば、盛岡は止まっていました」
◇
冷房の音がしていた。
「二つ、ですか」
俺は聞いた。
「俺が消したS級は、一人です」
「はい」
矢代さんは資料を揃えた。
「もう一人は、鷹取源三さんです」
◇
「あの方は、【不動】を持ったまま退任されました」
「はい」
「消えていません」
「はい」
「ですが、防衛計画から外れています」
矢代さんは、いつもと同じ速度で続けた。
「いつ消えるか分からない、という状態そのものが、計画上は不在と同じです。先月、ご本人の前で申し上げました」
俺はあの部屋にいた。壁の写真が六枚に減っていた会長室で、この人がそう言うのを聞いた。
「消えていなくても、使えなくなったんです」
◇
俺は自分の右の掌を見た。
包帯はもう外れている。骨は繋がった。
この掌に、四枚ある。
そのうちの一枚は、鷹取源三から預かったものだ。
撃っていない。あの人はまだ持っている。
持っているのに、この国は数えていない。
◇
「責めていません」
矢代さんが言った。
「運用の話をしています」
「あんたは、いつもそう言いますね」
俺が言うと、矢代さんは資料を鞄に入れる手を止めた。
「はい」
「なんでですか」
◇
矢代さんは、しばらく黙っていた。
この人が黙るのを見たのは、二度目だった。
「責める権限が、私にないからです」
それから、そう答えた。
「私は行政職です。あなたを裁く立場にありません。裁く条文もありません」
「はい」
「ですので、責めていないと申し上げるしかありません」
矢代さんは鞄の口を閉じた。
「本当に責めていないかどうかは、別の話です」
◇
初めて、この人が自分の感情の存在を認めた。
認めただけで、中身は言わなかった。
◇
「柏木さん。一つ、ご報告があります」
矢代さんが立ち上がった。
「今朝、盛岡の現地本部から連絡が来ました」
「はい」
「元S級の九条巽さんが、ボランティアの搬送班に登録されました」
俺は顔を上げた。
「探索者証を返納された方でも、避難所の物資搬送には入れます。人手が足りていませんので」
「いつ」
「四日前です」
◇
俺は杖をついて立ち上がった。
「柏木さん」
「はい」
「私は、あなたを盛岡に行かせる立場にありません」
「はい」
「止める立場にもありません」
矢代さんは扉を開けた。
「新幹線は動いています。避難区域の外までなら、誰でも入れます」
◇
庁舎を出ると、雨だった。
九月の雨は、六月のと違って冷たい。
東京駅まで歩いて、東北新幹線のホームに上がった。
◇
改札のところに、人が立っていた。
九条巽だった。
「遅い」
「……四日前に行ったって聞きました」
「一回戻ってきた。物資の受け取りでな」
九条は肩に大きいバッグを担いでいた。
「行くんだろ」
「はい」
「俺は何も持ってない」
九条は改札を通りながら言った。
「盾にもならん」
「知ってます」
「じゃあ、何しに行くか分かるか」
俺は答えられなかった。
◇
九条はホームの端で立ち止まって、こちらを振り返った。
「数えに行くんだよ」
胸ポケットを、指で二回叩いた。
黒い手帳が入っている場所だった。
「今度は、外さなかったやつを」
◇
新幹線が動き出した。
窓の外が、だんだん暗くなっていく。
俺は掌を開いた。四枚。
そのうち一枚は、鷹取源三から預かったものだ。
あの人は失っていない。それでも、この国の計算からは外れている。
消していなくても、消したのと同じだった。
◇
目を閉じた。
十一年、俺は死んだ探索者の私物を箱に詰めてきた。
血の乾いた装備を拭いて、私物を並べて、保管票に品名を書いて、封をして、宛先を書いた。
名前は覚えないようにしていた。覚えると、拭くのに時間がかかるようになるからだ。
九条巽は、十一人の名前を書いて、毎年増えていないか確かめている。
俺は、覚えないようにして、数えないようにしてきた。
どちらが正しいのかは、まだ分からない。
ただ、数えなかったせいで、俺は自分が何をしたのかを一度も総額で見たことがない。
詰めた箱の数を、俺は一度も数えたことがなかった。
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