待合室
協会の一階で、足が止まった。
待合室のベンチに、知っている顔が二つ並んでいた。
◇
九月に入って、風の匂いが変わっていた。
俺がここに来たのは、非覚醒者向けの就労支援窓口の手続きのためだった。
窓口自体は五年前に廃止されている。残っているのは、外部の職業相談所を紹介する取次だけだ。無職七十四日目の男が、片手で書ける書類を出しに来た。
番号札を取って、待合室のほうを見た。
◇
ランク再認定の待合室は、一階の東側にある。
鑑定を受けた人が、ランクの手続きをする場所だ。上がる人と、下がる人が、同じ列に並ぶ。
その列の、七番目のベンチ。
九条巽が座っていた。
私服。無精髭。番号札を膝に載せている。四十一歳の男が、他の二十人と同じ列で待っている。
その二つ隣に、戸嶋律が座っていた。
◇
作業着だった。
運送会社の名前が背中に入っている。深夜の仕分けから、そのまま来たんだと思う。目の下が黒い。
律も、番号札を持っていた。
二人は互いを知らない。
同じ列に並んでいることも、たぶん互いに気づいていない。
九条は膝の上で手を組んでいた。律は番号札を両手で持って、指で角を折っていた。
二人のあいだのベンチが一つ空いている。
そこに、四十代くらいの女性が座っていた。B級の腕章をつけている。手続きの内容は分からない。上がるほうかもしれない。
列は、上がる人と下がる人を分けない。同じ窓口で、同じ番号札で処理される。
◇
俺は柱の陰に立っていた。
九条は、去年まで日本に十九人しかいない側にいた。
律は、三年C級で、照明が壊れたときにしか要らない能力を持っていた。
二人のあいだに、共通点は何もなかった。
いまは、番号札を持って同じベンチに座っている。
その二つを作ったのは、俺だ。
◇
呼び出しの声が流れた。
「番号札、四十二番の方」
九条が立ち上がった。
窓口へ歩いていく。歩き方に、テレビで見ていた頃の角度がない。
「四十三番の方」
律が立ち上がった。
九条の二歩後ろを、同じ窓口のほうへ歩いていく。
◇
律が、途中で顔を上げた。
柱の陰に立っている俺と、目が合った。
律は止まらなかった。
何も言わずに、窓口のほうへ歩いていった。
◇
俺は柱に手をついていた。
声をかけられなかった。
かける言葉がなかったからではない。
かける資格がない。
律は八月の暑い日に、缶コーヒーを二本持って謝りに来た。逃げてください、とまで言った。それでも仕事だから点けて、俺はその一つを持っていった。
九条は俺を風景として踏んだ。俺はその足を取り返した。
どちらも、俺がやった。
どちらも、取り消せない。
撃ったスキルは戻らない。俺の手にも、持ち主にも、この世界のどこにも。
六月から、それだけは何度も確かめてきた。
確かめたのは、能力のことだと思っていた。
ベンチに並んで座っている二人を見て、それだけの話ではないことに、いま気づいた。
◇
自分の番号が呼ばれて、手続きをした。
書類は十分で終わった。窓口の職員は、俺の名前を一度も呼ばなかった。番号で管理されている。
外に出ると、九月の曇りだった。
湿度が低い。八月の空気とは違う。
◇
帰りは裏道を通った。
置き場の前に人が集まる時期は過ぎたが、顔は知られている。表通りを歩くと、誰かがスマートフォンを向ける。
高架をくぐって、二本目の路地に入ったところだった。
前に三人、後ろに二人。
◇
「柏木さんですよね」
先頭の男が言った。
二十代の後半くらい。装備はつけていない。私服だが、身体の作りが探索者だ。
「『天啓』にいました。先月まで」
俺は立ち止まった。
「契約、切られたんです。うちのクラン、保険が下りなくなって」
男の後ろの二人も、同じ雰囲気だった。
「あんたのせいだって、みんな言ってます」
男の後ろで、一番若いのが言った。
「俺、四月にやっと入れたんですよ。三年かかって」
声が上ずっていた。
「四か月で終わりです」
俺は何も言わなかった。
「あんた、S級から取ったんですよね。なんで俺らまで」
◇
それは、たぶん正しい。
鷹取源三は、俺のした事は二件だと言った。残りは業界が勝手に転んだだけだと。
転んだ先に、この五人がいる。
二件しかやっていない、という言い方は、この五人には通じない。
「何も言わないんですね」
男が言った。
「言うことがないので」
「そうですか」
◇
最初の一発は、脇腹に来た。
スキルは使っていなかった。素手だった。
次が肩に来て、三発目で膝が抜けた。
路地の壁に背中をつけて、立とうとした。
五人とも、スキルを使わない。
使えば、俺に入る。噂を知っている。
だから素手で殴っている。
スキルを持っている人間が、素手で人を殴るのは、たぶん久しぶりなんだと思う。当たり所が下手だった。
それでも、二十代の男が本気で振れば、四十間近の身体は簡単に折れる。
六発目で、耳が鳴りはじめた。
殴られている最中に、こんなことを考えていた。
この五人のうち、誰か一人でもスキルを使えば、俺の掌に一枚入る。
入れば、この場は抜けられるかもしれない。
入らない。
全員が、それだけは徹底している。
◇
五発目まで数えたところで、割り込む音がした。
「やめろ」
九条巽の声だった。
◇
九条は、律の後ろから走ってきていた。
二人とも、協会の窓口を出たところで裏道に回ったらしい。
九条が先頭の男の腕を掴んだ。
振り払われた。
あっけなかった。
スキルのない四十一歳が、二十代の探索者に腕力で敵うわけがない。
九条は壁に叩きつけられて、そのまま座り込んだ。
◇
律が、俺と男たちのあいだに立った。
「やめてください」
声が震えていた。
「その人、俺の姉のことも」
言いかけて、律は言葉を切った。
何を言おうとしたのかは、分からない。
男の一人が、律を押しのけた。
律も倒れた。
◇
俺は路地の地面に手をついていた。
肋がまた鳴っている。左目の上が切れて、血が入っていた。
九条は座り込んでいる。律は倒れている。
二人とも、俺のせいでここにいる。
◇
俺は掌を開いた。
撃つのは、火弾でも鉄糸でも不動でもなかった。
疾走だった。
◇
六月二十五日、湾岸第一ダンジョンの関係者ゲートで、警備の男が俺を五メートル投げた。
あの踏み込みだ。
景色が飛んだ。
俺は九条の襟を掴んで、律の腕を掴んで、路地の反対側の角まで、三人ぶんを引きずって抜けた。
◇
抜けた先の通りで、三人とも転がった。
両脚の腱が焼けていた。
膝から下が、自分の重さを支えられなくなっている。
撃った代償だ。数日、まともに歩けない。
男たちは追ってこなかった。人通りのある道に出たからだ。
◇
仰向けのまま、九条が言った。
「今の、俺が持ってたやつじゃないよな」
「違います」
俺も仰向けだった。
「別の人のです」
「……何枚あるんだ」
◇
俺は掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・火弾
・縮地
・鉄糸
・不動
四行。
「四枚」
九条が空を見たまま言った。
「減るんだな、それ」
「はい」
「増えないのか」
「殴られれば」
◇
律が、少し離れたところで起き上がっていた。
こちらを見ていた。
何か言おうとして、やめた。
その顔を見て、俺は八月の河川敷を思い出した。
返してよ。返してくださいよ、それ。
あの声で言われたことに対して、俺はまだ何も返していない。
◇
九条のスマートフォンが鳴った。
起き上がれないまま、片手で画面を出した。
速報の通知だった。
九条はしばらくそれを見ていた。
それから、画面を俺のほうへ倒した。
俺は仰向けのまま、首だけ曲げてそれを見た。
『岩手・盛岡 第五十一ダンジョンで氾濫 避難指示』
九条が画面を戻して、空を見たまま言った。
「盛岡、来たぞ」
『ブックマーク追加』と、下にある☆☆☆☆☆評価をよろしくお願いします。




