消えたほうがいい力
「三人います」
矢代蒼さんは、名刺を出すときと同じ顔で、そう言った。
◇
内閣府の小会議室は、前回と同じ部屋だった。
冷房が効きすぎているのも、壁の地図も、同じだ。
地図の赤い点が、前より増えていた。
八月の頭に来たときは、東北に三つだった。いま五つある。
増えたのが観測の結果なのか、計画を組み替えた結果なのかは、聞かなかった。
机の上に、封筒が三つ並べられた。
◇
「一人目です」
矢代さんが、左端を開いた。
中の紙は一枚だけだった。年齢と、級と、活動歴。名前は伏せてある。
「A級。三十四歳。三年間で、隊員を五人死なせています」
「……」
「本人に罪はありません。故意でも、怠慢でもありません。判断が遅いだけです」
矢代さんは紙を戻した。
「協会の事故調査室が三回調べて、三回とも不問になりました。手続き上、何の落ち度もありませんので」
「それでも五人ですか」
「はい。四年目に入りました。今年も、隊を持っています」
「外せないんですか」
「外す条文がありません。事故率で認定を取り消す規定は、この国にないんです」
矢代さんは水を一口飲んだ。
「本人も、外れたいと言ったことがあるそうです。上が引き止めました。A級は足りていませんので」
俺は封筒を見ていた。
五人の私物が、どこかの保管室に入っている。引き取り手がいれば渡されて、いなければ棚に残る。
俺が拭いてきた四十一箱の中に、この人の隊のものがあるのかどうかは、分からない。
名前を覚えないようにしてきたからだ。
◇
「二人目です」
真ん中の封筒。
「B級。二十九歳。スキルの性質上、周囲の非覚醒者に後遺症が出ます」
「後遺症」
「聴力です。半径十メートル以内にいた人が、程度の差はありますが、聞こえにくくなります」
「本人は」
「知っています。三年前から報告しています」
矢代さんは水を一口飲んだ。
「規制する法律がありません。スキルの使用を制限する条文が、この国に一本もないので」
「協会は」
「勧告は出しています。強制力はありません」
◇
「三人目です」
右端の封筒。
矢代さんは、それを開かなかった。
「S級です」
「はい」
「この方は、何も悪いことをしていません」
俺は矢代さんを見た。
「事故も起こしていません。人も死なせていません。人格にも問題がありません」
「じゃあ、なぜ」
「規模が大きすぎて、国が管理できていないからです」
◇
矢代さんは、封筒の上に手を置いたままだった。
「この方が本気を出したときの被害想定を、うちで三回作りました。三回とも、想定を作った人間が精神的に参って、担当を外れています」
「……」
「本人はそのことを知りません。誰も言っていませんので」
「敵じゃないんですよね」
「はい。国に協力的で、要請には必ず応じてくださいます」
「なのに」
「応じなくなったときの手段が、こちらにないんです」
「その人に、何かあったんですか」
「いいえ。何もありません」
「じゃあ」
「何もないうちに用意しておくのが、私の仕事です」
矢代さんは封筒の上の手を、そこで初めて動かした。
「用意していない状態を、私は九条巽さんで一度経験しました」
俺は封筒から目を上げた。
「S級が一人、一日で消えました。うちには、その日の午後に配置を組み直す手順がありませんでした」
◇
「この三人から力が消えれば」
矢代さんは封筒を三つ、揃えた。
「統計上、年間で十四人から二十一人が死ななくなります」
「その数字は」
「過去の事故率から出しました。都合の悪い数字も入れています。三人が抜けたことで戦力が落ちて死ぬ人の数も、引いてあります」
冷房の音がしていた。
「差し引きで、十四から二十一です」
◇
俺は、三つ目の封筒を見ていた。
「三人目は、何も悪いことをしてないんですよね」
「はい」
「それでも撃てと」
「はい」
矢代さんは、言い換えなかった。
言い換えれば柔らかくなることを知っていて、しなかった。
◇
「やりません」
俺はそう言った。
「理由をお聞きしてもいいですか」
「才能がないやつは邪魔だって、俺は言われました」
矢代さんの手が、封筒の上で止まった。
「六月十九日に、三十四階で言われました。その男から、俺は取りました」
「はい」
「あんたが言ってるのは、逆から言ってるだけです」
俺は椅子の背に手を掛けた。
「才能があるやつは邪魔だ、って」
◇
矢代蒼が、黙った。
この人が数字を出さずに黙ったのを、俺は初めて見た。
冷房の音だけが、しばらく続いた。
「……そうかもしれません」
矢代さんが言った。
認めた。
「私は、人を減らさないために、人から力を減らそうとしています。線の引き方は、その方と同じです」
「はい」
「引く理由が違うと申し上げるつもりでしたが、引かれる側からは、同じでしょう」
◇
「ですが、私は嘘をつかないと決めていますので」
矢代さんは鞄から、四つ目の紙を出した。
「もうひとつ申し上げます」
◇
四つ目は、封筒に入っていなかった。
折り目のついたA4が一枚。表とグラフが刷ってある。
「盛岡です。第五十一ダンジョン」
地図の東北の赤い点を、矢代さんが指した。
「地表への圧が、三か月連続で上がっています」
グラフの線が、右上に伸びていた。
「この数値が出たとき、過去に三回、大規模氾濫が起きました。三回、全部です」
「止まったんですか」
「三回とも止まっています」
矢代さんは指を組んだ。
「対応可能な配置は、S級二人とA級四人でした。三回ともその編成です」
◇
「現在、東北に回せるS級は」
矢代さんはそこで一度、言葉を切った。
「ゼロです」
俺は数字が読めない。
それでも、ゼロという言葉は分かる。
「十七人のうち、四人が西日本の常時配置、七人が首都圏の常時配置です。四人が負傷または年齢で稼働不可。二人が海外派遣中です」
「引けないんですか」
「引けば、引いた場所がゼロになります」
◇
「いつですか」
俺は聞いた。
「分かりません」
矢代さんは即答した。
「明日かもしれませんし、来年かもしれません。過去の三回は、この数値が出てから四か月、七か月、十一か月でした」
「三か月連続で上がってるんですよね」
「はい」
俺は封筒を見た。
三つ並んでいる。開けていないのが一つ。
◇
俺は、封筒を三つとも机に残して、立ち上がった。
受け取らなかった。
それだけは、譲らなかった。
◇
廊下で、矢代さんが最後に言った。
「柏木さん。私はあなたを責めていません」
「はい」
「ただ、あなたが撃たなければ、別の誰かが死にます」
俺は足を止めた。
「これは脅しではありません」
矢代さんは、いつもと同じ速度で続けた。
「そういう計算になっている、というだけです」
◇
外に出ると、八月の終わりの風が、少しだけ涼しかった。
霞ケ関の歩道を歩いた。
掌に五枚ある。上限まで持っている。
持っているだけで、何もしていない。
六月から二か月、俺は撃つことばかり考えてきた。誰に殴られるか、どこで正面に立つか、いつ撃つか。
いま初めて、撃たないことを選んだ。
選んだのに、身体が軽くならなかった。
封筒を三つ置いてきた。開けたのは二つで、三つ目は開けなかった。
開けなくても、そこに名前が入っていることは分かる。
何も悪いことをしていない誰かの名前が。
俺が受け取らなかったので、その紙は矢代さんの机に戻る。戻って、また別の日に出される。俺でなければ、他の手段が探される。
撃たないことは、止めることではない。
十一年、俺は死んだ人間の私物を箱に詰めてきた。詰めるのは、死んだ後だ。
詰める前の段階に、俺が関われたことは一度もなかった。
いま初めて、関われる場所に立っている。
立っていて、断った。
そのことが、この日から急に、重くなった。
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