数えたか
大田区の木造アパートに着いて、俺は建物の前で一度、番地を確かめ直した。
築年数も、外階段の錆び方も、俺のところとほとんど同じだった。
家賃はたぶん、五万円台だ。
◇
二階の一番奥。表札は出ていない。
扉を叩くと、すぐ開いた。
九条巽が立っていた。
痩せていた。Tシャツにサンダル。無精髭が伸びている。
テレビで見ていた頃より、肩の張りがない。
「入れよ」
◇
六畳に、何もなかった。
机が一つ、布団が一組、小さい冷蔵庫。それだけだ。
トロフィーも、装備も、写真もない。
「座れよ。座るとこないけど」
俺は立ったままでいた。
九条は畳に胡座をかいた。
窓が開いている。八月の終わりの風が入ってきて、蝉の声が薄くなっていた。
◇
「あんた、俺に何かしただろ」
九条が言った。
前置きはなかった。
「はい」
俺は答えた。
二か月、この質問をされたことがなかった。誰も、俺に直接聞かなかった。
「……そうか」
九条は、それだけ言った。
怒鳴らなかった。掴みかかりもしなかった。
確認しただけだった。
◇
「二か月、考えてた」
九条は膝に肘を置いた。
「最初の一週間は、自分がおかしくなったんだと思った。次の一週間は、誰かに薬でも盛られたと思った」
「はい」
「三週目に、思い出した」
九条が俺を見た。
「六月十九日に、あんたの胸倉を掴んだ」
俺は何も言わなかった。
「あの日から、二週間のあいだに俺が触った人間で、あとから接点があったのはあんただけだ」
俺は黙っていた。
「それしか、思い当たらなかった」
◇
九条は立ち上がって、冷蔵庫から麦茶を出した。
コップは一つしかなかった。俺に渡して、自分はペットボトルのまま飲んだ。
「殴られないと取れないんだろ」
九条が言った。
俺は麦茶を持ったまま止まった。
「六月二十四日、うちの戸田があんたを蹴った。七月一日まで、あんたはずっと現場をうろついてた。あれ、殴られに来てたんだろ」
「……なんで」
「二か月あったからな」
九条は窓の外を見ていた。
「ほかにやることがなかった」
◇
「合ってますか」
俺が聞いた。
「知らねえよ。俺が勝手に思ってるだけだ」
九条はペットボトルを畳に置いた。
「鷹取さんは、触ったら消えると思ってる。俺は違うと思う」
「はい」
「あの人は俺に触ってない。触らないで消した。防御を撃たれたって聞いた」
業界の噂は速い。二週間で、そこまで回っている。
「触るんじゃない。効かされるんだ。違うか」
俺は麦茶を一口飲んだ。
冷たくて、薄かった。
◇
「才能のないやつは、いてくれるだけで邪魔だ」
九条が言った。
自分の言葉を、自分で繰り返した。
「俺は、あれを本気で言った。いまも、間違ってたとは思ってない」
「はい」
「新規区画にマッピングはない。誰かが迷ったら、探しに行った側が死ぬ。それは事実だ」
九条はTシャツの胸ポケットに手を入れた。
黒い手帳を出した。
角が擦り切れて、輪ゴムで留めてある。
◇
輪ゴムを外して、最後のページを開いた。
俺の位置からは見えなかった。
九条が、そのページを俺のほうへ向けた。
罫線の入ったページに、縦に名前が並んでいた。
十一。
それぞれの下に、小さく年と、隊の名前と、級が書いてある。
二〇三〇年から二〇三五年まで。
◇
「南って書いてないだろ」
九条が言った。
俺は名前を目で追った。
南は、無い。
「六月に外した。あいつは、まだ生きてる」
「はい」
「外さなかったやつが、ここに十一人いる」
九条は手帳を膝に戻した。
「一人ずつ、名前と級を書いた。書かないと、数が分からなくなるからだ」
◇
「毎年、増えてないか確かめてる」
九条が言った。
「二〇三六年は増えなかった。今年も、いまのところ増えてない」
「……」
「増えないようにするのが、俺の仕事だと思ってた」
窓の外で、風が電線を鳴らした。
「言い方が悪いのは、分かってた。分かってて、直さなかった」
「なぜですか」
「そのほうが早いからだ」
鷹取源三と同じことを言った。
この二人は、たぶん似ている。似ているから、あの人はこの男を拾った。
◇
「ただな」
九条が手帳を閉じて、輪ゴムをかけた。
「言われる側になって、分かったことがある」
俺は麦茶のコップを持ったままでいた。
「先月、鑑定を三回受けた。三回とも、該当なしだった」
「はい」
「三回目のとき、読み上げてる人の声が、一回も変わらなかった」
九条は輪ゴムを指で弾いた。
「あれで分かった」
「何がですか」
「あの人は、毎日あれを言ってる」
九条は畳の目を見ていた。
「俺が三回言わせたのは、あの人にとって特別なことじゃない。毎日、誰かに同じことを言ってる」
「はい」
「毎日言われてる人間が、この国にどれだけいるのかを、俺は一度も考えたことがなかった」
◇
「数えたか」
九条が言った。
「今度は俺が、数えられる側だ」
俺は何も言えなかった。
この男は十一人を数えてきた。数えて、それ以上増やさないために、人を外し続けた。
外された側の数は、数えていない。
南は生きている。生きていて、あの日、荷物置き場に座って砂利をはじいていた。
どちらの数え方が正しいのかは、俺には分からない。
分からないまま、俺はこの男から一つ取った。
「才能がないやつは、いてくれるだけで邪魔なんだと。誰かが俺にそう言う番になった。もう何人かに言われた」
九条は自分の掌を見た。
開いて、握って、また開いた。もう癖になっているんだと思う。
「言われて分かった。あれは、死なせないための言葉じゃなかった」
風が止まった。
「あれは、俺が楽になるための言葉だった」
◇
部屋が静かになった。
俺は麦茶を飲み干して、コップを流しに置いた。
謝られなかった。
九条巽は、一度も謝らなかった。
俺も、赦すとは言わなかった。
◇
「手伝わせろ」
九条が言った。
俺は振り返った。
「あんた、まだ何かやるつもりだろ」
「何も、決めてません」
「そうか」
九条は立ち上がった。
「俺はもう、あんたに何も取られない」
畳の上で、サンダルが鳴った。
「取られるものがない。だから、あんたの隣に立てる唯一の人間だ」
その言い方には、少しだけ得意そうなものが混ざっていた。
二か月前まで、この男が持っていたのは、日本で十九人しかいない力だった。
いま自慢しているのは、何も持っていないことだ。
◇
俺は返事をしなかった。
赦していない。赦されてもいない。
この男は、俺を風景として踏んだ。俺はその足を取り返した。それだけだ。
それだけのことが、二か月かけて、こんな形になった。
「帰ります」
俺はそう言って、外に出た。
◇
外階段を降りながら、掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・疾走
・火弾
・縮地
・鉄糸
・不動
五行。
上限だ。これ以上は入らない。
数えて、それから指先が止まった。
◇
五枚の下。
七月の夜、雨の中で感じたのと同じものが、まだそこにある。
数えられない。掴めない。名前も出ない。
入れ物には、限りがある。
六枚目を受けたとき、一番古い一枚が押し出されて消えた。あれで分かったはずだった。
そこまで考えて、階段の途中で足が止まった。
限りがあるなら。
なぜ、その下に入っているんだ。
階段の手すりが、夕方の熱を持っていた。
六月に一枚目が入ってから、二か月ちょっと。
その前は、俺の掌には何もなかった。何もない状態が三十九年続いていた。
そのはずだった。
俺は掌を握って、開いた。
五行しか出ない。
出ないものを、どうやって数えろというんだ。
外階段を降りきったところで、振り返った。
二階の一番奥の窓が、開いたままになっている。
あの部屋には何もない。トロフィーも、装備も、写真もない。
あるのは、名前が十一書いてある手帳だけだ。
俺の掌には五枚あって、その下に、数えられないものが一つある。
どちらも、持っていることを誰にも証明できない。
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