用件なし
地下二階に降りた。
用事はない。
六月二十七日に鑑定を受けたので、次は来年だ。医務室の経過観察は先週で終わっている。
それでも階段を降りた。
◇
鑑定課の受付に、若い職員がいた。
「戸嶋は、いま内閣府の方と面談中です」
「そうですか」
「お約束でしたか」
「いえ」
職員は困った顔をした。用件のない来庁者の扱いは、たぶんマニュアルにない。
「では、あちらでお待ちいただければ」
廊下の椅子を指された。
七つ並んでいる。左から三番目のクッションが潰れている。
俺はそこに座った。
◇
十一年、この椅子で順番を待った。
年に一度、十分か十五分。読むものがないので、天井の配管を数えた。四本ある。二本が太くて、二本が細い。細いほうが除湿の配管だと、三年目に気づいた。
今日も、それを数えた。
通りかかった職員が二人、俺を見て、少し歩調を変えた。
顔が知られている。掲示板のまとめは消えていない。あの置き場の写真も、俺の後ろ姿も、まだ残っている。
誰も声をかけてこない。触りもしない。
三日前まで、この状態を不便だと思っていた。今日は、椅子に座るぶんには何も困らない。
三十分ほど経ったところで、面談室の扉が開いた。
出てきたのは矢代さんだった。
俺を見て、驚かなかった。
「ちょうどよかった」
◇
三人で、第二面談室に入った。
俺と、戸嶋詩織さんと、矢代蒼。
この三人が同じ部屋にいるのは、初めてだった。
机の上に麦茶はない。矢代さんの端末が一台、開いている。
「柏木さんにも見ていただいたほうが早いです」
矢代さんが言った。
「戸嶋主任は、もうご覧になっています」
◇
画面に、あの表が出ていた。
左が死亡者数、右が新規覚醒者数。十一年ぶん。
「協会の鑑定記録と、事故調査室の死亡記録を突き合わせました」
矢代さんは画面を指した。
「作業に三週間かかりました。両方の権限を持っているのが、いまのところ私だけですので」
「その突合は」
戸嶋さんが口を開いた。
「申請が出ていましたか」
「出しました。七月十二日に。手続きは完了しています」
「はい」
戸嶋さんは、それ以上言わなかった。
言えることがなかったんだと思う。手続きが完了しているものを、止める理由がない。
◇
「戸嶋主任の記録が、非常に助かりました」
矢代さんが続けた。
「三回測ったことが書いてあります。同じ日に他の十四人を測って正常だったことも書いてあります。装置の不調でないことが、記録だけで証明できました」
「それは、そう書くべきものですので」
「はい。ただ、書かない方もいます」
戸嶋さんの手が、机の上で止まった。
「私の記録は、そういう使い方をするために書いたものではありません」
初めて、この人が業務外のことを言った。
「はい」
矢代さんは、否定しなかった。
「ですが、書かれた事実は、書いた人のものではありません」
戸嶋さんは、しばらく画面を見ていた。
「その通りです」
認めた。
「私が正確に書けば書くほど、使いやすくなります。それは、最初から分かっていました」
「では、なぜ」
矢代さんが聞いた。
「不正確に書く方法を、私は知らないからです」
空調の風が、天井の隅から降りてくる。
「訂正線の引き方は習いました。書かない方法は、習っていません」
◇
空調の音がしていた。
地下二階は、いつでも同じ温度だ。
「柏木さん」
矢代さんが、画面をスクロールした。
「一番古いところをお見せします」
表の一行目に戻った。
二〇二六年。死亡四十一。新規覚醒三十九。
「この年は、記録が不完全です。鑑定制度そのものが、六月にはまだありませんでしたので」
「はい」
「最初の死亡例だけ、別のファイルに残っていました」
矢代さんが別の画面を開いた。
◇
「二〇二六年六月十四日。湾岸第一ダンジョン。日本で最初に死亡した探索者です」
名前が出ていた。
朝倉智。三十一歳。
「この方の保有スキルは、記録が残っていません」
俺は画面を見ていた。
「当時、鑑定制度がありませんでした。何を持っていたのかは、誰も知りません」
「……」
「亡くなった状況の記録もほとんどありません。溢れたものが止まった、とだけあります。誰がどう止めたのかが書かれていません」
「止まったんですか」
俺が聞いた。
「はい。二時間で収束しています。当時の記録では、原因不明の自然収束と分類されています」
「自然に」
「そう書いてあります」
矢代さんは画面をスクロールした。
「この分類は、十一年で一度しか使われていません。この件だけです」
「他は」
「他の氾濫は、全部、人が止めています。誰が何をしたか、全部書いてあります」
矢代さんは画面を閉じた。
「十一年前は、そういう記録の作り方でした」
◇
俺は、何も言わなかった。
保管室の最上段の、貼り紙を思い出していた。
手書きの字。朝倉智/二〇二六年六月/引取人なし。
角が一箇所潰れた箱。今は使われていない規格。
毎月、俺が拭いている。
それだけだ。
名前が一致した。それ以上のことは、何も思わなかった。
◇
「では、私はこれで」
矢代さんが立ち上がった。
「柏木さん。次にお会いするときに、続きを申し上げます」
扉が閉まった。
二人になった。
◇
「弟さんは」
俺が聞いた。
聞く資格がないことは分かっていた。
「倉庫で働いています」
戸嶋さんは端末を閉じずに答えた。
「探索者証を返納して、二週間です。前から知り合いだった運送会社に入りました」
「そうですか」
「深夜の仕分けです。日給は探索者のときの三分の一だと言っていました」
俺は膝の上で左手を握った。
「元気ですか」
「聞いていません」
戸嶋さんは画面から目を離さなかった。
「二週間、連絡が来ていません。私からもしていません」
「……」
「私が、あの子のスキルが消えた記録を作りました。作る前に、電話をすればよかったのだと思います」
打鍵の音が止まっていた。
「順番を間違えました。仕事を先にやりました」
それだけ言って、また打ちはじめた。
この人が自分の非を口に出したのを、俺は初めて聞いた。
「柏木さん」
「はい」
「謝らないでください」
◇
「謝られると、記録が感情の話になります」
前も同じことを言われた。
「はい」
「記録は、感情の話にしてはいけないんです」
戸嶋さんは端末に何か打ち込みはじめた。
「そうしないと、なかったことにされるので」
「はい」
打鍵の音が、しばらく続いた。
◇
俺は立ち上がった。
この部屋を出るときの手順は、決まっていない。紙もないし、頭を下げる理由も、たぶんない。
それでも頭を下げた。
扉に手を掛けたところで、打鍵の音が一度止まった。
振り返らなかった。
◇
部屋を出る直前に、画面の端が見えた。
戸嶋詩織さんが打ち込んでいたのは、今日の記録だった。
八月十六日。柏木湊、来庁。用件なし。
用件なし。
そのとおりだった。
俺はこの人に、何の用事もなかった。
◇
地下二階の階段を上がりながら、俺は箱のことを考えていた。
二〇二六年六月十四日。
あの日、俺は担架の後ろを持っていた。
二十八だった。ダンジョンという言葉が書類に載る前で、俺の会社はまだ資材運搬会社だった。何が起きているのか誰も分かっていなくて、業者が呼ばれて、運べと言われたから運んだ。
覚えているのは、それくらいだ。
誰がどう止めたのかは、書かれていない。
書かれていないものを、俺は十一年、毎月拭いている。
誰も取りに来ない箱を。
地上に出ると、八月の午後の熱が正面から来た。
湾岸まで歩いて、防潮堤の縁に座った。
第一ダンジョンの警戒灯が回っている。十一年前、あの入口から何かが溢れて、二時間で止まって、一人死んだ。
自然に収束した、と記録されている。
十一年で一度しか使われていない分類だ。
俺はポケットから、昨日もらった表を出した。折り目が汗でふやけている。
一行目。死亡四十一。新規覚醒三十九。
二つ足りない。
その二人が、どこへ行ったのかは、書いていない。
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