でも、痛いんですよ
『柏木湊さん。鷹取です』
留守番電話を再生したのは、八月の十日の朝だった。
『明後日の午後三時、うちの最上階でお待ちしています』
『損か得かの話は、もう終わりました』
日付を見ると、二日前に入っていた。
◇
十二日、何もしていない。
河川敷の翌週から、日雇いの登録が全部落ちるようになった。理由の説明はない。システム上、応募しても選考中のまま消える。
最初の三日は、手違いだと思って応募し直した。四日目に、募集要項の下に一行が増えているのに気づいた。
〈近隣で発生している事案を受け、当面のあいだ選考を厳格化いたします〉
どの事案とも書いていない。俺の名前も出ていない。
書かなくても、回る。十一年、この業界はそうやって人を外してきた。
置き場には行かなかった。
峰岸さんから二度、電話が来た。二度とも出なかった。三度目は来なかった。
通帳の残高は二十四万円になった。
右腕はまだギプスだ。全治が二週間延びて、あと三日ある。
十二日で減ったのは、金と、行く場所と、電話に出る理由だけだった。
◇
罠だとは分かっている。分かったうえで、断る理由が思いつかなかった。
失うものが、もう金しかない。
◇
品川の『天啓』本部に着いたのは、午後二時四十分だった。
受付で名前を言うと、女性が端末を確認して、それから顔を上げた。
「柏木湊さま。伺っております」
カードキーを渡された。
「最上階、直通のエレベーターをご利用ください」
五十二日前、俺はここを降りた。
あのときは業者証を持っていて、作業着を着ていて、通知書を内ポケットに入れていた。
今日はカードキーを渡された。
◇
エレベーターは三十四階まで止まらなかった。
扉が開くと、廊下に人がいなかった。
会議室の前を通った。六月十九日に、俺が頭を下げた部屋だ。中は暗い。
その先の、大きな扉が開いていた。
◇
会長室に、人が一人しかいなかった。
鷹取源三が、部屋の中央に立っていた。
秘書もいない。机の向こうにも誰もいない。
天井の四隅に、カメラがあった。四台とも、赤い点が光っている。
「お待ちしておりました」
鷹取さんが言った。
「その腕は、まだですか」
「あと三日です」
「そうですか」
◇
壁を見た。
写真が減っていた。
六月にニュースで見た会長室には、所属探索者の写真が二十枚ほど並んでいた。いま残っているのは、半分もない。
九条巽の写真も、無くなっている。
「君のことは、だいたい分かりました」
鷹取さんが言った。
「推測ですが、外れていないと思います」
◇
「君に触れた人間から、何かが消える」
俺は黙っていた。
「六月十九日、九条があなたの胸倉を掴みました。うちの監視カメラに残っています」
「はい」
「六月二十一日、協会一階。B級の方があなたを押した記録が、防犯カメラにありました。開示を請求しました」
「はい」
「六月二十四日、うちの搬入口。戸田があなたを蹴りました」
名前まで出た。
「七月一日、九条があなたの正面に立ちました。そこだけ映像がありませんが、直前まで三メートル、直後にはゼロです」
鷹取さんは一歩、前に出た。
「触れた人間から、何かが消える。だから、触らせないことにしました」
「はい」
「二週間、うまくいきました」
◇
「ですが、世論がつきました」
鷹取さんの声は、最後まで同じ高さだった。
「触らない、という対応が、認めたことになってしまった。うちが君を恐れている、と読まれました」
「そうですか」
「S級とA級が、七人、契約解除を申し出ています」
俺は写真の減った壁を見た。
「いつ消えるか分からない資産に、保険がかけられません。等級が算定できない資産は、担保になりません。担保にならない人間を、うちは抱えられない」
鷹取さんは、そこで少し間を置いた。
「君のせいではありません。制度のせいです」
◇
「ですので、こうします」
鷹取さんが、両腕を身体の脇に下ろした。
空気が変わった。
温度でも音でもない。輪郭が変わった。
鷹取さんの立っている場所の、周囲一メートルくらいが、硬くなった。
不動、というスキルだ。
俺でも知っている。この国で最も硬いと言われている絶対防御で、その代わり、発動中は一歩も動けない。
「これは、防御です」
鷹取さんが言った。
「攻撃ではありません。私は君に、何もしていません」
◇
「君は、何もされていないものを、拾えないでしょう」
正解だった。
俺に何かを入れられるのは、俺に何かをした人間だけだ。避けられれば入らない。無視されても入らない。こちらから当たっても入らない。
六月から、それを繰り返し確かめてきた。
「ここで君が何もできなければ」
鷹取さんは動けないまま、視線だけをカメラに向けた。
「カメラが四台、それを記録します。スキル喰いは、ただの業者だったと、世間が知ります」
◇
俺は歩き出した。
鷹取さんのほうへ。
「柏木さん」
二メートル。
「言っておきますが、これは動きません」
一メートル。
「触れても、何も起きません」
五十センチ。
俺は立ち止まらなかった。
◇
額から突っ込んだ。
硬い。
石でも鉄でもない。押し返されるのではなく、そこから先が無い、という感触だった。
壁にぶつかったのなら、壁が鳴る。何も鳴らなかった。俺の額だけが鳴った。
額が割れて、血が目に入った。
二度目は肩から入った。鎖骨のあたりで音がした。
鷹取さんは動かない。動けない。発動中は一歩も動けないスキルだ。
目だけが、俺を追っていた。
三度目は、ギプスごと右腕を叩きつけた。
石膏が割れて、飛んだ。破片が絨毯に散って、白い粉が舞った。
「やめなさい」
鷹取さんの声がした。
「それは攻撃ではないと言っている」
四度目。
膝が抜けて、床に落ちた。
顎の下から、血が絨毯に垂れた。
◇
「はい」
俺は言った。
立ち上がって、五度目に入る前に、もう一度だけ言った。
「でも、痛いんですよ」
◇
効果を、身体で受けた。
攻撃か防御かは、条件に入っていない。
六月から確かめてきたのは、一つだけだ。向こうが俺に何かをすれば、入る。しなければ、入らない。
殴られたときに入った。蹴られたときに入った。投げられたときに入った。焼かれたときに入った。回り込まれたときにも、暗闇で照らされたときにも入った。
共通しているのは、相手の力が俺の身体を通ったことだけだ。
優しさも敵意も関係ない。攻撃かどうかも関係ない。
鷹取源三は、四十七本の映像から、俺に触れると消える、という結論を出した。
結論は合っている。理由が違う。
触れる必要はない。効かせれば足りる。
右の掌に、五枚目が入った。
◇
空気が戻った。
鷹取さんが、【不動】を解いた。
解いた直後に、自分の掌を見た。
開いて、握って、また開いた。
もう一度。
◇
「……今、君は」
鷹取源三の声が、初めて揺れた。
「持ってるだけです」
俺は割れたギプスを外して、床に置いた。腕は、たぶんもう繋がっている。あと三日を待たずに剥がしただけだ。
「まだ、撃ってません」
◇
五十八歳の男が、自分の手のひらを見ていた。
そこにあるはずのものが、まだあるのか、もう無いのか。
確かめる方法は、一つしかない。もう一度発動することだ。
鷹取さんは、発動しなかった。
できなかったのか、しなかったのかは、俺には分からない。
◇
俺は額の血を左手で拭った。絨毯に落ちた血は、そのままにした。
カメラは四台とも回っている。
ここに映っているのは、四十間近の男が、動かない老人に四回体当たりして、自分だけ血を流した映像だ。
スキル喰いの正体を撮るはずだった四台が、それを撮った。
どう編集しても、俺は何もしていないように見える。
カードキーを机に置いた。
「あんたのは、返しに来たわけじゃありません」
鷹取源三は、何も言わなかった。
「預かっただけです」
俺は部屋を出た。
カメラが四台、全部それを撮っていた。
◇
その日の夜、『天啓』の株が動いた。
翌朝の業界紙に、クランマスターの退任検討という見出しが出た。
俺は畳の上で、割れたギプスの破片を新聞紙にくるんでいた。
スマートフォンが鳴った。
登録していない番号だった。局番が、都内の役所のものだった。
「柏木湊さんの携帯電話でよろしいでしょうか」
男の声だった。丁寧で、落ち着いていて、事務的だった。
「内閣府ダンジョン対策室の、矢代と申します」
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