記録します
六日ぶりに郵便受けを開けた。
電気とガスの請求書と、宛名のない広告が三枚。その下に、白い封筒が一通入っていた。
差出人の欄に、手書きで名前があった。
ダンジョン協会 鑑定課 戸嶋詩織。
業務の連絡なら、封筒は手書きにならない。
◇
中身は一枚だった。
面談の日時と、場所。それだけ。
用件が書かれていない。
俺は六日、外に出ていなかった。
河川敷から帰った日の夜に、右腕をもう一度病院で診てもらった。骨のずれが確認されて、固定をやり直された。全治は二週間延びた。治療費が一万二千円かかった。
その日から、外に出る理由がなかった。
日雇いは断られている。名前が業界に回っている。置き場は峰岸さんが裏口の鍵を貸してくれたが、行っていない。
行けば、峰岸さんに何をしたか聞かれる。九年で一度だけ聞かれた男に、二度目を聞かせたくなかった。
◇
猛暑日だった。
協会までの道を歩くと、シャツが背中に貼りついた。日陰がない。防潮堤のコンクリートが熱を吐いている。
地下二階に降りると、空気が変わる。二度低い。
通されたのは、面談室ではなかった。
鑑定室だった。
◇
狭い部屋だ。机が一つ、装置が一つ、椅子が二つ。窓はない。
俺は左から三番目の椅子ではなく、装置の前の椅子に座った。
机の上に、何も置かれていなかった。
書類も、端末も、麦茶もない。
五年、この部屋で判定を受けてきた。机に何もない状態を、初めて見た。
「柏木さん」
「はい」
「一件、記録を作りました」
戸嶋詩織さんは、まっすぐ前を見ていた。
「読み上げます」
◇
「七月二十三日。C級探索者、戸嶋律。保有スキル、灯し。当該スキルの喪失を確認。原因不明」
空調の音がしていた。
「協会規定第四十一条により、ランク認定を取り消します。三件目です」
俺は動かなかった。
初めて聞いた話ではなかった。
名字を聞いた時点で、可能性としては考えていた。考えて、確かめなかった。確かめないでいれば、そうでない可能性が残ると思っていた。
路地の入口で名乗られたとき、俺は何も聞き返さなかった。あれが、いま返ってきている。
「戸嶋律は」
戸嶋さんが言った。
「私の弟です」
◇
部屋が静かになった。
地下二階の空調は、一定の音で回り続ける。十一年、この音を聞いてきた。
「二十二歳です。三年、C級でした」
戸嶋さんは、事実だけを並べた。
「二〇二六年に、私は該当なしでした。弟は三年前に覚醒しました。灯し、というスキルです」
「……」
「攻撃も防御もできません。使う場面が来ません。それでも、あの子は持っていました」
俺は口を開いた。
開いて、何も出なかった。
「三年前、あの子が覚醒したと連絡してきたとき、私は鑑定課にいました」
戸嶋さんの手が、机の縁に置かれた。
「判定書を出す側でしたので、先に結果を見ました。灯し、と出ていました。前例の少ないスキルでしたので、資料を調べました」
「はい」
「使用例が、十一年で四件でした」
空調の風が、天井の隅から降りてくる。
「四件とも、照明が全損した事故の記録です。四件とも、生存者が出ています」
戸嶋さんは、それ以上言わなかった。
「昨日、探索者証を返納しました」
◇
「すみません」
やっと出てきたのが、それだった。
戸嶋さんは受け取らなかった。
「謝らないでください」
声は事務的なままだった。
「謝られると、記録が感情の話になります」
「……はい」
「記録は、感情の話にしてはいけないんです。そうしないと、なかったことにされるので」
◇
戸嶋さんが、机の端末を開いた。
いままで机の上に何もなかったのは、置いていなかったからではなかった。鞄から出すのを、この瞬間まで待っていた。
「柏木さん。これから、あなたのことを記録します」
「はい」
「あなたが誰と会い、誰の何を消したか。私が確認できた範囲で、全部です」
画面に、新しい様式が開いていた。
「告発ではありません。私に告発する権限はありませんので」
戸嶋さんの指がキーを打ちはじめた。
「ただ、記録がないと、なかったことになります」
◇
「九条巽さんは、体調不良になりました」
打鍵の音が続いた。
「私の弟は、原因不明になりました」
空調の音と、キーの音だけがしていた。
「六月二十一日の方は、慢心したことになっています。掲示板でそう書かれて、まとめられて、それが定着しました」
戸嶋さんは画面を見たまま続けた。
「三人とも、本当のことが記録されていません」
「……」
「ですので、私が書きます」
打鍵が止まった。
「あなたがやったことを、誰かがやったこととして残します」
◇
「わかりました」
俺はそう答えた。
「はい」
戸嶋さんも、そう答えた。
それで会話が終わった。
俺は立ち上がって、椅子を戻した。
この五年、この部屋を出るときの手順は決まっていた。紙を受け取って、頭を下げて、扉に向かう。
今日は紙がない。
頭を下げた。
◇
扉のノブに手を掛けたところで、少しだけ待った。
五年間、この人は必ず言った。
来年もお待ちしています。
マニュアルにない言葉だ。誰も監査しない。書かなくていい一行を、五年間、口で足してきた。
二〇二六年に自分が同じ椅子に座ったから、足しているんだと思っていた。
待った時間は、たぶん三秒くらいだった。
言われなかった。
◇
扉を開けて、出た。
閉まる音がした。
地下二階の廊下は、夏なのに寒い。
俺は壁に手をついて、しばらく立っていた。
左の掌が汗ばんでいて、壁のタイルが冷たかった。
待合の椅子が七つ、廊下に並んでいる。左から三番目のクッションが潰れている。十一年、俺はそこに座って順番を待った。
あの椅子には、まだ座れる。予約すれば来年も判定は受けられる。制度は誰も拒まない。
拒まないことと、迎えられることは、違う。
五年、俺はそれを取り違えていたらしい。
◇
この一月半で、俺は何人から力を取ったのか、数えてみた。
入れたのは、六人だ。
胸倉を掴んだS級。肩を押したB級。俺を蹴って肋を折ったB級。ゲートで投げた警備。威嚇で焼いた部下。面白半分で回り込んだ探索者。
撃ったのは、三回。
鉄の箱に一回。九条に一回。そして昨日、堤防の下で一回。
入れ物から溢れて消えたのが、一枚。
三人目までは、理屈が通っていた。俺に何かをした人間から、同じものを返した。
昨日で、それが切れた。
缶コーヒーを二本持って謝りに来た二十二歳は、俺に何もしていない。逃げてください、とまで言った。
その一つを、俺が持っていった。
切れたところから先も、俺はまだ歩いている。
◇
協会を出ると、外はまだ明るかった。
七月の終わりで、三十六度あった。
防潮堤の向こうで、第一ダンジョンの警戒灯が回っている。十一年、毎日見てきた光だ。
あの向こうで、今日も誰かが潜っている。
その中に、灯しを持っている人間は、もういない。
照明が壊れたときにしか要らない能力で、照明が壊れるパーティにはC級が雇われない。だから三年、一度も役に立たなかった。
役に立たないまま持っていることと、無いことは、違う。
二十二歳が、それを知るのに一日もかからなかった。
俺は歩き出した。
通帳の残高は三十二万円で、右腕の全治は二週間延びた。手札は四枚ある。
四枚あって、行く先がない。
九条は落とした。それで終わりだったはずだ。
終わらせるつもりで撃って、終わらなかった。
撃ったあとに、業界が動いて、通達が出て、掲示板が名前をつけて、若いのが寄越されて、その若いのから一枚取った。
俺が始めたことなのか、それとも、俺は転がされているだけなのか。
汗が、包帯の縁に溜まっていた。
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