返してよ
「昨日のこと、謝らせてください」
アパートの外階段の下に、あの若いのが立っていた。
缶コーヒーを二本持っている。昨日、コンビニの袋に入っていたのと同じやつだ。
朝の十時だった。まだ暑くなりきっていない。
◇
「あれ、癖なんです」
律は階段の一段目に座って、そう言った。
「暗くなったら点ける癖。三年、毎日やってるんで」
「わかってます」
「売るつもりじゃなかったんです。ほんとに」
「わかってます」
俺は左手で缶コーヒーを受け取って、プルタブを開けた。甘すぎた。十一年、この味で午前中を折り返してきた。
律も自分の缶を開けて、飲まずに持っていた。
「あの人、待ってたんですよね。俺が点けるの」
「たぶん」
「俺、使われたんすね」
律は缶の縁を見ていた。
「使われるほうがまだいいっす。要らないって言われるより」
◇
俺は右腕を見た。
昨日の夜、ギプスを引き抜いたときに肘の内側が削れて、包帯に血が滲んでいる。病院にはまだ行っていない。
骨がずれた感触は残っていた。全治六週間の予定が延びる。金がない。
「その腕、俺のせいっすよね」
「違います」
「でも」
「あなたが点けなくても、あの人は俺の位置を知ってました。三日、あなたに見張らせてたんだから」
律が黙った。
それは慰めではなかった。事実として、そうだ。
律は使われた。使われた上で、罪悪感まで置いていかれた。
◇
「俺、明日から別の現場なんで」
律が立ち上がった。
「もう来ません」
「そうですか」
「あの、いろいろすみませんでした」
頭を下げて、律は階段を降りた。
三段降りたところで、律のスマートフォンが鳴った。
画面を見た律の動きが、止まった。
◇
「……あの」
律が振り返った。
「なんですか」
「いや」
律はスマートフォンをポケットに入れた。入れて、また出した。
「本日中に、対象の所在を確定してくださいって」
俺は缶を持ったまま、律を見ていた。
「断れないんですか」
「断ると、次から来ないんです。日雇いって、そういう仕組みなんで」
「一万五千円ですか」
「今日は三万って書いてあります」
三万。
C級の探索者を一日雇う額と同じだ。
「姉貴に借りればいいって言われたことあるんですけど」
律は俺を見ずに言った。
「借りないって決めてるんで」
律はスマートフォンを握ったまま、動かなかった。
二十二だ。三年C級で、貯金がなくて、姉に借りないと決めていて、それでも今日の三万円を断れない。
断れば次から呼ばれない。呼ばれなければ収入がない。文句を言う先がない。
十一年、俺が回されてきた仕組みと、同じ形をしていた。
「柏木さん、逃げてください」
律がそう言った。
「俺、たぶん、探しちゃうんで」
◇
俺は走った。
律は追ってきた。追いながら、謝り続けていた。
「すいません」
三十メートル後ろから。
「ほんとすいません」
角を曲がっても、ついてくる。
俺の脚は四十間近で、右腕は吊っている。律は二十二でC級だ。追いつかれないのは、律が本気で走っていないからだった。
距離を保ったまま、位置だけ確定されている。
◇
住宅街を抜けて、河川敷に出た。
午後三時を過ぎていた。夕方に向かう光が、堤防の草を白く光らせている。川の匂いがした。生温い水と、藻の匂い。
河川敷は開けている。隠れる場所がない。
下流側から、人影が三つ来た。
上流側にも、二つ。
私服だった。昨日の男もいる。
「柏木さん」
律の声が、後ろから追いついた。
「すいません、ほんとすいません」
律は堤防の上に立っていた。
周りを見て、状況を理解した顔をしていた。
◇
包囲は速かった。
俺は三度、退路を潰された。
堤防を上ろうとすると、上に一人。橋の下に走ると、そこにも一人。水際に寄れば、行き止まりだ。
撃てば、抜けられる。
縮地を撃てば、この包囲は抜けられる。
撃った後、俺は動けなくなる。河川敷で動けなくなった人間を、五人で囲むのは簡単だ。
火弾なら、一人は倒せる。あと四人いる。
鉄糸なら、二人まとめて縛れる。あと三人いる。
どれを撃っても、足りない。
昨日、五枚のうち一枚が勝手に消えた。四枚しか残っていない。
この四枚を全部使っても、五人は抜けない。
抜けたところで、動けない身体が河川敷に転がるだけだ。
二十日以上かけて集めたものが、一日で無くなって、何も残らない。
そこまで考えて、堤防の上を見た。
◇
日が傾いた。
堤防の影が伸びて、河川敷の半分が暗くなった。
律が、また点けた。
癖だ。
暗くなったら点ける。三年、毎日やってきた。
俺の位置が、五人全員に共有された。
◇
俺は立ち止まった。
堤防の上の律を見た。
律も、俺を見た。
その顔で、律は自分が何をしたかを理解していた。理解して、光を消そうとして、消えなかった。
灯しは、範囲の中の全員に等しく効く。誰か一人にだけ見せない、ということができない。
三年、それで役に立ったことがない能力だ。
いま、それが完璧に機能している。
◇
俺は掌を開いた。
撃つのは、縮地でも火弾でも鉄糸でもなかった。
五人を倒す必要はない。
俺の位置が共有されていることが問題なら、共有している装置を止めればいい。
装置は、堤防の上にいる。
灯しだった。
◇
河川敷が、普通の夕方に戻った。
光の点が全部消えて、堤防の影と、川面の反射と、遠くの街灯だけになった。
五人が、俺を見失った。
一人が「どこだ」と言った。もう一人が「そっちだ」と答えて、違う方向を指した。
俺は歩いて離れた。走らなかった。走ると音がする。
◇
撃った代償は、身体には来なかった。
骨も折れず、腱も切れなかった。灯しは攻撃系でも強化系でもない。俺の身体に、耐えるべき出力がなかった。
代わりに、目が使えなくなった。
視界が白く飛んで、それから灰色になって、輪郭が全部溶けた。
他人の位置を見る力を撃った反動が、自分の目に返ってきた。
堤防の斜面を、左手で草を掴みながら登った。三十分ほどで戻る、という見当だけがあった。根拠はない。
◇
声が追いかけてきた。
「あれ、何した」
律の声だった。
俺は答えなかった。
「なんで、出ない」
草の斜面を、手探りで登った。
「柏木さん」
声が近づいてくる。俺の位置が分かっているわけではない。声を出しながら、探している。
「なんで出ないんですか、俺の」
◇
「返してよ」
斜面の途中で、俺は足を止めた。
止めたのは、目が見えなかったからではない。
「返してよ……返してくださいよ、それ」
律の声が、後ろで止まっていた。
追ってこなかった。追ってこられなかったんだと思う。
俺は振り返らなかった。
振り返っても見えない。見えないから振り返らなかったのではない。
見えていても、振り返れなかった。
◇
二十分ほどで、輪郭が戻ってきた。
河川敷は無人だった。五人も、律も、いなくなっていた。
俺は堤防の上に座って、掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・疾走
・火弾
・縮地
・鉄糸
四行。
灯しがない。
◇
三年、C級だった。
攻撃も防御もできなかった。役に立つ場面が構造的に来ない能力だった。
同期はAとBになって、本人はEに毛が生えた場所で止まっていた。
それでも、あいつが持っていた唯一のものだった。
俺はそれを、逃げるために使った。
九条のときは、返しに行ったと思った。
あの男は俺を風景として踏んで、俺はその足を取り返した。理屈は通っていた。
今日は違う。
あいつは俺に何もしていない。缶コーヒーを持って謝りに来て、逃げてくださいと言って、それでも仕事だから点けた。
その一つを、俺が持っていっただけだ。
立ち上がると、河川敷の草が膝に貼りついていた。
右腕の包帯に、血が乾いていた。
今日のは、ただの強盗だ。
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