五枚の下
コンビニを出たら、路地の入口に若い男が立っていた。
三日前から、ずっと同じ男がいる。
置き場のシャッターの外で名前を呼んだのも、この男だ。あの日は結局、俺は出なかった。
夕立の前の空気だった。雲が低くて、湿っていて、風がない。
「戸嶋です」
男が名乗った。
「……戸嶋」
「あ、はい。戸嶋律っていいます。C級です」
その名字を、俺は先週聞いたばかりだった。
地下二階の鑑定室で、五年間、俺の判定を読み上げてきた人の名字だ。
偶然かもしれない。よくある名字ではないが、無いわけでもない。
俺は何も言わなかった。
聞けば済む話だった。鑑定課に戸嶋さんという方はご親族ですか、と。
聞かなかった。
聞いて、そうです、と言われたときに、どうすればいいのか分からなかったからだ。
◇
「俺、『天啓』の日雇いで、あんたを見てろって言われてて」
律はそう言った。
隠す気がまるでない。
「見てて、どうするんですか」
「わかんないっす」
律はコンビニの袋を持ち替えた。中身は缶コーヒーが二本見えていた。
「所在確認って言われました。写真撮って送るだけ。それで一日一万五千円」
一万五千円。
俺の日雇いは八千円で、片手だと六千円になる。
「触るなとも言われてます。絶対に触るなって、それだけは何回も言われました」
「そうですか」
「あの、なんで俺がこんな話するかっていうと」
律は言葉を探していた。
「三日、見てて。あんた、何もしてないんで」
◇
「毎日、置き場行って、荷物運んで、帰ってるだけで」
律は歩きながら喋った。俺が歩き出したので、ついてきた。
「スキル喰いって聞いてたんで、もっとこう、なんか」
「なんか」
「わかんないっす。悪いことしてるんだと思ってました」
空が鳴った。夕立が来る。
「俺、C級で三年止まってて」
聞いていないことを喋りはじめた。
「同期はもうAとかBとかで。俺のスキル、灯しっていうんですけど」
「灯し」
「暗いところで、味方の位置が互いに分かるんです。それだけです。攻撃も防御もできません」
律は笑った。笑うと、余計に若く見えた。
「役に立つでしょう、って言われたことないっす」
「暗いところに入る仕事なら、要るでしょう」
俺が言うと、律は少し黙った。
「……ないんですよ、そういう仕事」
「ないですか」
「深いとこ行くパーティは、みんな照明持ってます。金があるんで。灯しが要るのは、照明が壊れたときだけです」
缶コーヒーの袋が、律の手の中で鳴った。
「照明が壊れるようなパーティに、C級は雇われないんです」
筋の通った話だった。
役に立つ場面が、構造的に来ない。そういう能力が、この世界にはある。
◇
大通りに出たところで、街灯が一斉に落ちた。
三十メートルほどの範囲が、同時に暗くなった。
夕立の雲で、もともと暗かった。そこから、完全に暗くなった。
停電にしては、区画の切れ方が正確すぎた。
この通りは商店街の外れで、街灯の系統が三つに分かれている。十一年、荷を運びながら見てきた道だ。三系統が同時に落ちる故障は、聞いたことがない。
「え、なに」
律の声が上ずった。
次の瞬間、反射で動いた。
◇
律の身体から、淡い光が広がった。
明るくなったのではない。
道も、塀も、電柱も、暗いままだ。
人だけが、見えるようになった。
地面から数センチ浮いたところに、人の形をした光が散っている。律の位置。俺の位置。それから、路地の入口に三つ、ビルの陰に一つ。
照明としては、何の役にも立たない。足元も見えない。
味方がどこにいるかだけが、分かる。
自分の位置が、光っていた。
「あっ」
律が口を押さえた。
「ごめん、これ、俺、癖で」
暗くなったら点ける。三年、そうやって生きてきた癖だ。
俺の掌に、五枚目が入った。
◇
路地の陰から、人が出てきた。
防具はつけていない。私服の男が一人。三十代くらい。
男は何も言わずに、右手を振った。
空気が鳴った。
金属の糸が、俺の胴と両腕に巻きついた。
細い。髪より少し太いくらいの線が、何十本も束になって、俺を縛り上げていく。ギプスごと右腕が締められて、骨の中で何かが動いた。
声は出さなかった。
その瞬間だった。
◇
右の掌の一番上で、何かが剥がれた。
撃ったわけではない。使ったわけでもない。
六枚目が入ったのと、ほとんど同時だった。
入れ物の縁から、一番古いものが押し出されて、落ちて、消えた。
硬化だった。
『天啓』の搬入口で、俺の肋を折った男から取ったものだ。
一度も使っていない。
誰にも返っていない。
ただ、無くなった。
あの男は、明日も自分の脚を鉄にできる。取られたことも、返ってきたことも知らない。
俺だけが、一枚失った。
入れ物に入りきらなかったものは、どこにも行かずに消える。
撃ったときと同じだ。撃っても消える。溢れても消える。
俺の手を通ったものは、どちらにしても、この世界から減っていく。
◇
糸が締まった。
男は無言だった。俺を殺す気はないらしい。締め上げて、動きを止めて、それで終わりにするつもりの力加減だった。
俺は撃たなかった。
撃てば、この場は抜けられる。火弾でも縮地でも、たぶん抜けられる。
撃った瞬間に、身体が壊れる。
鉄の箱を殴って指が三本折れた。S級を殴って前腕が折れた。
いま撃てば、この糸の中で、動けない身体だけが残る。
それに、撃てば一枚減る。
二十日以上かけて四枚にした。そのうち一枚は、たった今、撃たれもせずに消えた。
残りを、こんなところで使うわけにはいかない。
だから、別のことをした。
◇
右腕を、引き抜いた。
ギプスの表面と皮膚のあいだに、まだ隙間がある。汗で濡れていた。
腕を捻って、肩から先を糸の輪から抜いた。
ギプスの縁が肘の内側を削って、骨がずれる感触がした。
声は出さなかった。
抜けた右腕を支点にして、身体を回した。糸が緩んだところから、胴を抜いた。
地面に転がった。膝と肩を打った。
立ち上がって、走った。
◇
「なんで逃げないんすか!」
律の声が、後ろから追いかけてきた。
「逃げてます」
俺は走りながら答えた。
男は追ってこなかった。
路地の入口で立ち止まって、こちらを見ているだけだった。
任務は、たぶん威嚇までだ。捕まえろとも、壊せとも言われていない。鷹取源三は自分では手を汚さない。雇った人間にも、汚させない。
◇
三本目の路地を曲がったところで、夕立が落ちてきた。
止まった。息が入ってこない。右腕が肩から先まで熱を持っている。
塀に背中をつけて、雨を浴びた。
左手で、右の掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・疾走
・火弾
・縮地
・灯し
・鉄糸
五行。
増えて、減った。
硬化が無い。
撃っていないのに無くなった。あの男に返ることもなく、ただ消えた。
入れ物には、限りがあるらしい。
◇
そこまで考えて、指先が止まった。
五行を、上から順に数え直した。
疾走、火弾、縮地、灯し、鉄糸。
五つ。それ以上は入らない。今日それが分かった。
分かったうえで。
五枚の下に、何かある。
数えられない。掴めない。名前も出ない。
六枚目の縁が押し出されたとき、押し出された先とは別の方向に、もっと深いところがあった気がした。
雨が包帯に染みていた。
俺は掌を握って、開いた。
五行しか出ない。
もう一度、強く呼んだ。半分あきらめて呟くと出ない、という性質は分かっている。今度は本気で呼んだ。
やはり五行だった。
六行目は出ない。出ないのに、そこにある。
目を閉じてみた。雨の音だけになった。
掌の感覚だけを残すと、五つの熱の下に、もっと冷たいものがある気がした。
気がした、で終わった。掴めるものは何もなかった。
それでも、ずっと前からそこにあった気がした。
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