訂正線を引きます
「先に申し上げます。私は、あなたを疑っています」
地下二階の第二面談室。麦茶が二つ、机に置かれている。
戸嶋詩織さんは、腰を下ろすより先にそう言った。
五年間、この人が敬語を崩したことは一度もない。今日も崩れていない。
◇
机の上に、書類が三種類並べられた。
一枚目、六月二十一日の鑑定記録。名前は伏せてある。判定、該当なし。備考欄に「本人申告:三年間保有の【剛腕】が発現せず」。
二枚目、七月一日の記録。三回分。全部同じ判定。
三枚目は、協会の入館記録だった。六月二十一日、四十一番。七月一日、医務室受診。
「両日とも、この建物と、その現場に、柏木さんがいらっしゃいます」
「はい」
「六月十九日の記録も出しました。『天啓』本部での契約解除面談。同席者に、九条巽氏」
「はい」
「六月二十四日、『天啓』搬入口。日雇い名簿にお名前があります」
「はい」
戸嶋さんは書類を揃えて、角を指で押さえた。
「私は憶測を書きません。ですので、これは告発ではありません」
同じ言葉を、前も聞いた。
「確認です」
俺は書類を見た。日付が四つ並んでいる。
六月十九日、二十一日、二十四日、七月一日。
この一月ばかりで、俺が動いた日が、全部そこにあった。
◇
「柏木さん。もし何かをされているなら、やめてください」
「やめたら、何かありますか」
前も同じことを聞いた。
あのとき、この人は答えられずに、申し訳ありません、と言って撤回した。
今日は、違った。
「ありません」
即答だった。
「協会は柏木さんに何も提供していません。年に一度の鑑定は無料ですが、無料なのは、結果に価値がないからです」
麦茶の表面が、少し揺れた。
「非覚醒者向けの支援制度は、五年前に廃止されました。利用者が年に十人を切ったためです。柏木さんは、そのうちの一人でした」
「知りませんでした」
「通知は、判定書に同封しました。小さい字でしたので」
三年目に足された一行が、五年目に消えたときのことだ。缶の中の紙で、俺はその変化を見ている。読んではいなかった。
「私が言えるのは、やめてください、だけです。見返りは出せません」
「じゃあ、なんで言うんですか」
俺は聞いた。
戸嶋さんは、書類の角をもう一度押さえた。
「言わないと、記録が感情の話になるからです」
◇
空調の風が、天井の隅から降りてくる。
「記録は、事実だけを書きます。感情を書くと、読んだ人が事実を疑います」
「はい」
「ですので、私は感情の部分を、記録の外で処理しなければいけません」
戸嶋さんは湯呑みを持ち上げて、口をつけずに置いた。
「いま、その処理をしています」
俺は麦茶を一口飲んだ。冷たくて、薄い。
「柏木さん」
「はい」
「私も、この椅子に座ったことがあります」
顔を上げた。
「二〇二六年に」
それだけだった。
続きはなかった。
二〇二六年。ダンジョンが出た年だ。俺が二十八で、資材屋のバイトで、担架の後ろを持っていた年だ。
その年に鑑定を受けたということは、この人は最初の年に受けている。仮設テントだ。俺と同じ場所で、同じ紙をもらった可能性がある。
二十三か、四くらいだったはずだ。
「……そうですか」
「ですので、あの四文字が何なのかは、知っています」
言い方は事務的だった。
この人は、告げられる側から、告げる側になった。
五年間、俺に十二回のうちの五回を告げた。そのたびに、来年もお待ちしています、と足した。
あれはマニュアルにない。誰も監査しない。書かなくていい一行を、五年間、書き足すのと同じことを口でやっている。
「それでも、記録は残します。それが仕事なので」
◇
机の上のPHSが鳴った。
戸嶋さんが出て、二言だけ答えて、切った。
「申し訳ありません。上に呼ばれました」
「はい」
「面談の続きは、後日でよろしいでしょうか」
「大丈夫です」
戸嶋さんは書類をファイルに戻して、部屋を出ていった。
俺も出た。
医務室で経過観察票を出す用事があったので、五階に上がった。エレベーターが混んでいて、階段を使った。
五階の廊下を歩いていたら、右手の扉の向こうから声が漏れていた。
◇
課長室、と表示が出ていた。
中年の男の声だった。
「九条氏の三回分、記録から落とせないか」
「落とす、とおっしゃいますと」
戸嶋詩織さんの声だった。
「三回測ったのは事実だ。ただ、二回目と三回目は確認測定だろう。正式な判定は一回でいい」
「三回とも正式です。装置が起動していますので」
「様式上は、代表値を一つ書けばいい話だ」
「様式にそういう規定はありません」
「規定を作ればいい。今日中に」
俺は歩調を落とした。落とすつもりはなかったが、足がそうなった。
「なぜでしょうか」
戸嶋さんが聞いた。
「三回測ったという事実が残ると、協会が疑っていたことになる。疑っていた、と書けば、次に何かあったとき、協会が知っていて放置したことになる」
「はい」
「拠出金の話にもなる。うちは予算の六割を大手から貰ってる。天啓の会長が三回の記録を見て、どう思うかだ」
空調の音がした。五階の廊下は、地下二階より暑い。
◇
「記録は、直しません」
戸嶋さんの声だった。
敬語は、崩れていなかった。
「訂正線を引きます」
「訂正線」
「様式の第七条です。記録の修正は、元の記載を判読可能な状態で残したうえで、訂正線と訂正印により行うと定められています。ですので、消すことはできません」
「そこまでする話じゃないだろう」
椅子の動く音がした。
「そのうえで、もう一点」
戸嶋さんの文が、長くなっていた。
五年間、この人の文が長くなるのを、俺は一度しか聞いたことがない。麦茶の輪ができた面談室で、二〇二六年に、と言ったときだ。
「本日、記録の削除を指示された事実も、記録いたします。指示者、日時、内容。所定の様式がございます」
沈黙があった。
「……脅してるのか」
「いいえ。手続きです」
また沈黙。
「もういい。行け」
◇
扉が開いた。
戸嶋詩織さんが出てきて、俺を見て、少しだけ動きが止まった。
俺は経過観察票を持って、廊下の真ん中に立っていた。
「……お疲れさまです」
「はい」
それだけだった。
戸嶋さんは会釈をして、階段のほうへ歩いていった。
三段ほど降りたところで、一度立ち止まって、こちらを見ずに言った。
「来月の受付は、まだ先です」
それから、降りていった。
◇
俺は廊下に残された。
いま起きたことを、順番に並べ直してみた。
あの人は、俺を守ろうとしていない。
守るつもりなら、記録を落とすほうが早い。三回を一回にして、九条の件を「体調不良」で処理してしまえば、俺の名前が近くにある入館記録も、誰も見返さなくなる。
あの人は、その逆をやった。
記録を残した。俺が疑われる材料を、正確に、消えない形で。
それでいて、結果として、協会は俺に手を出せなくなった。三回の記録が残っている限り、この件は事故として処理できない。処理できないものを、拠出金の都合で握り潰すこともできない。
守られたのではない。
あの人が自分の仕事をした結果、たまたま、俺の場所が残った。
俺は経過観察票を握っていた左手を、開いた。紙の端が、汗で柔らかくなっていた。
この一月で、俺に何かをくれた人間は三人いる。
峰岸さんは、片手でできる仕事を作ってくれた。人手が足りない、という嘘をついて。
鷹取源三は、恨まないと言って、俺の手足を封じた。
戸嶋詩織さんは、疑っていると言って、俺の居場所を残した。
三人とも、言っていることと、やっていることが違う。
違う方向に違っている。
俺は階段を降りた。地下二階の空気は、五階より二度低い。
だから俺は、この人にだけは会いたくないと思った。
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