誰も殴らない
台車を、通路の真ん中に置いた。
『天啓』の搬入ゲート前。日雇いの登録で入れる範囲は、地下二階の受け入れヤードまでだ。俺はそこで、軽量荷の担当として名簿に載っていた。
二十日前と同じことをしている。
あのときは、三分で蹴られた。
今日は、十五分経っても誰も来なかった。
通路は使われている。台車が二台、フォークリフトが一台、俺の脇を通っていった。
全員が、俺の手前で速度を落として、迂回した。
迂回するとき、運転手が一人だけこちらを見た。目が合った。すぐ逸らされた。
二十日前、俺はこの通路の風景だった。踏まれても誰も気づかない、置きっぱなしのケースと同じものだった。
今日は、避けられている。
風景は避けない。避けるのは、避ける理由がある相手だ。
その理由を、俺は知らない。
◇
昼前に、戸田が来た。
二十日前に俺の肋を折った男だ。今日も新しい防具のインナーを着ている。
台車の前で足を止めた。
俺は荷札を直すふりをして、動かなかった。
戸田は俺の顔を見た。見て、それから台車を見て、通路の反対側に回った。
二メートル半の幅を、端まで寄って通っていく。
俺は左手で台車の取っ手を掴んで、半歩、戸田の側へ寄せた。
戸田が止まった。
「……なあ」
「はい」
「あんた、こないだの人だよな」
「はい」
戸田は俺の三角巾を見た。それから、自分の手を見た。
「悪かったよ、こないだ」
謝られた。
「けど、触るなって言われてんだよ。あんたには」
「誰にですか」
「上。全社通達。理由は書いてない」
戸田は台車の脇を、身体を斜めにして通り抜けた。手も肩も、俺に触れなかった。
「ハラスメント防止だとよ。急にな」
◇
俺は台車を押して、戸田の後ろに回った。
右腕が使えないので、片手で押すと台車が斜めに走る。壁に擦りながら、早足で追いついた。
前に出て、もう一度、進路を塞いだ。
「おい」
戸田の声が、少し尖った。
「わざとやってんのか」
「はい」
正直に言った。嘘をつく理由が思いつかなかった。
戸田が半歩、踏み込んだ。
その顔に、二十日前と同じものが出かかった。荷物をどける感覚で人を蹴る、あの顔だ。
俺は動かなかった。
来る、と思った。
戸田の踏み込みが、途中で止まった。
両手を上げて、後ろに下がった。
「やめとくわ」
「……」
「触るなって言われてんだ。何があんのか知らねえけど、上が名指しで通達出すってことは、そういうことだろ」
「そういうことって、どういうことですか」
「知るかよ。訴えられるとか、そういうのだろ」
戸田は台車の取っ手を握り直した。
戸田は台車ごと引き返して、別の通路から出ていった。
俺は残された。
誰も俺に触らなかった。
◇
三日、同じことをした。
場所を変えた。第二ダンジョンの搬出口。第五ダンジョンの前線基地。フリーの探索者が多く出入りする資材市場。
第二では、通路に立った俺を、探索者が黙って避けた。
一人だけ、鼻を鳴らして肩を寄せてきた男がいた。ぶつかる直前で、連れが袖を引いて止めた。「やめとけって」。それだけで、その男は行った。
第五では、警備が呼ばれた。警備は俺の腕を掴まなかった。距離を取ったまま、退出を求めるだけだった。「触らずにご退去ください」と、上に指示されているのが分かる言い方だった。
二十日前、同じ立場の警備は、俺を五メートル投げた。同じ制服の人間が、今日は一メートル以内に入ってこない。
資材市場では、フリーの若い連中に絡まれかけた。
最初は普通の絡み方だった。荷を見ろだの、邪魔だのと言って、一人が肩に手を伸ばしかけた。
その手が、途中で止まった。
「あ、こいつあれだ。天啓が回してるやつ」
「なに、触ったらまずいの」
「知らね。けど噂になってるからやめとけ」
「病気とか?」
「だから知らねえって」
三人は少し離れたところで話して、それから別の方向へ歩いていった。
伸ばされかけた手が、何にも触れずに戻っていくのを、俺は見ていた。
三日で、俺が得たものはゼロだった。
◇
業界紙のウェブ版に、短い記事が出ていた。
『天啓、非覚醒業者との接触自粛を全社通達 ハラスメント防止の観点から』
記事は五行だった。業界の反応として、他の大手も追随を検討している、と書いてある。
鷹取源三は、俺の能力を知らない。
映像を四十七本集めて、どれにも俺が九条に触れる瞬間が映っていないことを確認しただけだ。
触れる瞬間が映っていない。
だから、触れさせない。
推測としては雑だ。理屈も通っていない。当たっているのは、結果だけだ。
あの人が病室で言ったのは、あなたを損失として処理します、それだけだった。何もしない、とも言った。
実際、何もしていない。
通達を一本出しただけだ。
それで、俺は詰んだ。
殴り返されるほうが、まだやりようがあった。
◇
三日目の夜、アパートに戻った。
冷蔵庫を開けた。麦茶のボトルと、卵が二個。
通帳の残高は三十七万円になっていた。日雇いは片手だと単価が下がる。八千円が六千円になった日もあった。
右腕はあと四週間。
畳に座って、左手で掌を開いた。
「鑑定」
名前:柏木湊
スキル:
・硬化
・疾走
・火弾
三行。
二十日前と、同じ三行。
この三日で一行も増えていない。
硬化はB級の脚。疾走は警備の踏み込み。火弾は部下の威嚇。
どれも、S級には届かない。
◇
俺は自分の能力の形を、初めて正確に理解した。
撃つには、まず殴られなければならない。
殴られるには、相手が俺に手を出さなければならない。
相手が手を出すかどうかは、俺には決められない。
十一年、俺は殴られないように立ち回ってきた。通路の端に寄り、荷車を先に通し、目を合わせず、謝る必要のないところでも先に謝った。
二十日前から、その逆をやっている。
逆をやったら、今度は向こうが避けるようになった。
俺の意思が届く範囲は、最初から一ミリもなかった。
◇
麦茶を飲んだ。ぬるかった。
この能力は、要するに空箱だ。
誰かが何かを入れてくれないと、何も入っていない。入れてくれるかどうかは、入れる側の気分で決まる。
十一年、俺の日当も同じだった。
仕事が回ってくるかどうかは、回す側が決めた。荷が減れば呼ばれない。呼ばれなければ収入がない。文句を言う先がない。
同じことを、別の形でやっているだけだった。
卵を一個割って、飯にかけた。醤油をかけて、左手の箸で食べた。
台所の壁に、去年の作業カレンダーがまだ貼ってある。第三資材置き場の名前が入った、業者向けの粗品だ。
六月十九日のところに、何も書いていない。
あの日、俺は年次更新の面談だと思って三十四階に上がった。書くほどの予定ではなかった。
◇
スマートフォンが鳴った。
登録した番号だった。ダンジョン協会、鑑定課、戸嶋詩織。
三日前の電話で、面談の日程を決めていた。明後日の午後二時。地下二階の第二面談室。
確認の連絡だった。
「明後日の件、ご都合はお変わりありませんか」
「変わりません」
「では、お待ちしております」
定型文だった。事務連絡の定型文には、来年もお待ちしています、は入っていない。
電話が切れた。
俺は畳の上で、しばらく画面を見ていた。
この三日、俺に話しかけた人間は四人いる。戸田と、警備と、資材市場の若い連中と、いま電話をくれた人だ。
そのうち、俺の名前を呼んだのは一人だけだった。
三行の掌を、握って閉じた。
増えない。
増える見込みもない。
俺を殴る人間がいなくなれば、俺は何もできない男に戻る。
二十日前と同じ、通路の風景に戻る。
違いは、貯金が十万円減ったことと、右腕が折れていることだけだ。
あの人だけが、まだ俺の名前を呼ぶ。
『ブックマーク追加』と、下にある☆☆☆☆☆評価をよろしくお願いします。




