十一年ぶりの条文
「——協会は本日、九条巽氏のS級認定を取り消すと発表しました」
素麺の鍋を、左手で持っていた。
あやうく落とすところだった。ガスを止めて、鍋を流しに置いてから、テレビの前に立った。
昼のニュースだった。
画面に、協会の会見場が映っている。壇上に三人。中央の男が原稿を読み上げていた。
『協会規定第四十一条に基づき、本日付で認定を取り消しました』
テロップが出た。
〈スキル喪失によるランク取消 制度発足以来初〉
◇
スタジオに戻って、コメンテーターが二人並んでいた。
「これ、そもそもなんですが」
年配のほうが原稿を見ながら言った。
「この第四十一条というのは、なぜ作られたんでしょうか」
「制度設計の段階で、ありうると考えられていたようです」
答えたのは若いほうだった。ダンジョン制度に詳しい大学の准教授と紹介されていた。
「十一年前は、まだスキルの性質が分かっていませんでした。増えるかもしれない、消えるかもしれない、そういう前提で条文が用意された」
「実際には」
「一度も起きませんでした。ですので、忘れられていたんです。先月、B級の方で一件目が出て、それが最初の適用になりました」
「今回が二件目、ということですね」
「はい。二件出たので、協会はもう事故として処理できなくなりました」
「原因は」
「分かっていません。共通点も出ていません。一件目はB級の若い方、二件目はS級のベテランです。年齢も、所属も、スキルの系統も違います」
「感染のようなものではないと」
「その説を取る専門家もいます。ただ、二人のあいだに接触の記録がありません」
准教授は原稿の端を指で押さえた。
「正直に申し上げて、いま言えることは一つだけです。この十一年、前提だと思われていたことが、前提ではなかった」
年配のコメンテーターが、原稿を置いた。
「S級というのは、全国で十九人しかいないんですよね」
「今日から、十八人です」
「補充は」
「S級は認定制です。上げるものではなく、出るものです。ですから」
准教授はそこで少し言葉を選んだ。
「出るのを、待つしかありません」
◇
俺は流しの縁に寄りかかって、それを聞いていた。
素麺が伸びていた。鍋の湯が濁って、表面に膜が張っている。
茹で時間は一分半だ。十一年、一人分の素麺を茹でてきた。時計を見なくても分かる。
今日は、たぶん五分茹でた。
二件出たので、事故として処理できなくなった。
戸嶋詩織さんが、面談室で麦茶を飲みながら言ったことだ。
一件では作れません。一件は事故として処理されます。
二件目が出たら、変わります。
あの人は、変わると言った。変えるとは言わなかった。
実際、あの人は何もしていない。三回測って、記録を残しただけだ。
記録を残しただけで、制度が動いた。
俺は何もしていない。
殴ったのは八日前で、それからはずっと片手で洗剤をこぼしていた。
その間に、十一年開かなかった条文が開いて、会見が開かれて、十九人が十八人になった。
これは俺がやったことなのか、それとも、制度が勝手にやったことなのか。
どちらでもある気がした。そして、どちらでもない気もした。
◇
午後、第三資材置き場に行った。
電車を使わずに歩いた。四十分かかる。片道の運賃が二百二十円で、往復で四百四十円になる。日当八千円のうちの四百四十円は、いま惜しい。
峰岸さんから電話が来ていた。人手が足りないので、軽い荷だけでいいから顔を出せないか、という内容だった。
日当は八千円。片手で運べる範囲。
断る理由がない。
置き場に着くと、シャッターが全開になっていた。猛暑日で、中に熱が籠もるからだ。
峰岸さんが自転車を停めているところだった。
「飯、食ったか」
「素麺、伸ばしました」
「そうか」
塩むすびが二個、押しつけられた。
アルミホイルが汗をかいている。夏場は、朝握ったものが昼には少し酸っぱくなる。それでも峰岸さんは買ってこない。
◇
午後の仕事は、書類の詰め替えだった。
保管室の隣の事務スペースで、古い保管票を新しいファイルに移す。座ってできる。左手だけでできる。
峰岸さんが選んだ仕事だと、すぐに分かった。
人手が足りない、という電話は嘘だ。この時期は荷が減る。片手の人間に八千円を出す余裕は、うちの規模だと本当はない。
礼は言わなかった。言うと、次から呼びにくくなる。
三時間ほどやって、休憩に出た。
保管室の扉を開けた。除湿機の音がして、乾いた空気が出てくる。外は三十四度で、この部屋だけが二十度台だ。
最上段の、いちばん左。
角の潰れた箱の天面に、埃がなかった。
峰岸さんが拭いてくれていた。
「引取人、まだ来ねえのか」
振り返ると、峰岸さんが扉のところに立っていた。
「十一年、来てません」
「……そうか」
峰岸さんは中に入ってきて、除湿機のタンクを外した。水が半分ほど溜まっている。
「これ、二日でこうなる。夏は早い」
「はい」
「あんたが入院してるあいだ、俺が捨ててた」
「ありがとうございます」
峰岸さんはタンクを持って出ていった。
俺は最上段を見上げた。
箱に手を伸ばして、いつもの癖で角を押した。左手だと力の入る向きが違って、押しにくかった。
当然、直らない。
貼り紙の手書きの字は、十一年前より薄い。朝倉智。二〇二六年六月。引取人なし。
この箱がここに来たとき、協会には遺品の保管規程がなかった。規程は三ヶ月後にできた。
規程を作った人間は、そのとき、規程より前のものをどうするかを決めなかった。
決めなかったものが、十一年ここにある。
条文と同じだ。作った人間はいて、使う人間が十一年いなかった。
◇
夕方、事務所でスマートフォンを開いた。
SNSが荒れていた。
『九条、薬物じゃねーの?』
『S級の限界説これでほぼ確定だろ』
『精神やられたって聞いた』
『第四十一条とかいう伝説の条文、初起動でワロタ』
『B級のときは誰も気にしなかったのに、S級だと大騒ぎ』
最後の一つに、返信がいくつもついていた。
『B級誰?』
『先月の。名前忘れた』
名前を忘れられたB級は、槙原という。
三年持っていたものを、俺が鉄の箱に使った。
俺はスクロールを止めた。
該当なし、という四文字が、いくつも流れていく。
十一年、それは俺の言葉だった。年に一度、地下二階でだけ使われる言葉で、他の場所で見たことがなかった。
いま、この画面の中で、何万人かがその四文字を使っている。
誰も、その言葉が何なのかを知らない。
俺は知っている。缶の中に十二枚ある。
悪くない気分だった。
そう思ったことに、まだ何の疑いも持っていなかった。
画面の下のほうに、引用されている投稿があった。
『っていうか消えたスキルってどこ行ったの?』
返信が二つついていた。
『どこも行かねーだろ。消えたんだから』
『それな』
俺はその三つを、しばらく見ていた。
どこに行ったのか。
考えたことがなかった。
俺の手に入って、俺が撃って、それきりだ。撃ったあとは、俺の掌の表示からも消える。
消えたものが、どこかに残っているという発想が、そもそも無かった。
スマートフォンを閉じた。
外の熱気が、事務所の窓から入ってくる。三十四度の夕方だった。
◇
シャッターを閉める前に、着信があった。
知らない番号だった。
左手で耳に当てた。
「柏木湊さんの携帯電話でよろしいでしょうか」
女性の声だった。
早口で、定型文を読むときの速度で。
「ダンジョン協会、鑑定課の戸嶋と申します」
十一年、年に一度だけ聞いてきた声だった。
この声を、鑑定室の外で聞いたのは、初めてだった。
「先日の件で、もう一度お話を伺えないでしょうか」
シャッターの巻き上げ機が、頭の上で軋んだ。
「今度は、確認ではありません」
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