資産ではありません
洗濯機を回すのに、四十分かかった。
洗剤の計量カップを左手で持って、蓋を開けようとして、床にこぼした。粉が畳の目に入って、絞った雑巾で拭くと余計に広がった。
結局、掃除機を出してきた。掃除機のコードを片手で伸ばすのに、また五分かかった。
退院して二日目の朝だった。
右腕はギプスで、三角巾で吊っている。物を持てるのは左手だけ。飯を作るのも、風呂に入るのも、全部が二倍かかる。
ダンジョンで死ぬ人間の話は毎日ニュースになる。腕を折った人間が洗剤をこぼす話は、どこにも出ない。
勝った男の生活が、ただ不便になっている。
◇
求人サイトを開いた。
非覚醒者可、当日枠。荷運び、清掃、警備補助。
どれも、両手を使う仕事だった。
条件に「片手可」の項目はない。作った人間が、そういう人間の存在を想定していない。
絞り込んでいくと、残ったのは二件。座ってできる書類の封入と、電話の受付。どちらも週三日で、日当六千円。
電話の受付のほうを開いて、応募要件を読んだ。
明るく丁寧な対応ができる方。基本的なパソコン操作。未経験歓迎、四十代活躍中。
十一年、俺の仕事は荷物を運ぶことだった。明るく丁寧な対応をした記憶がない。頭を下げた記憶ならある。
通帳の残高は四十五万円。家賃が五万二千円、固定費が三万。
六千円の週三日では、家賃に届かない。
スマートフォンを畳に置いた。
窓の外で蝉が鳴いている。七月の朝の日差しが、畳の縁の擦り切れたところに当たっていた。
通知が一つ来た。
動画サイトのおすすめだった。
『【衝撃】S級・九条巽 引退か 「もう出ない」発言の真相』
◇
その動画は、業界紙のリーク記事を読み上げるだけのものだった。
音源が一つ、埋め込まれていた。
誰が録ったのかは分からない。会長室で交わされた会話だと説明されていた。
俺はイヤホンを挿した。
「九条は、もう資産ではありません」
鷹取源三の声だった。病室で聞いたのと同じ、天気の話をする調子。
「一ヶ月ください」
九条の声。低い。俺が知っている声より、少し掠れていた。
「訓練で戻せるかもしれない」
「戻った前例がありません」
「前例がないだけです」
「前例のないものに、うちは投資しません」
「訓練メニューは組める。基礎からやり直せば」
「九条さん」
鷹取さんの声が、一段だけ低くなった。
「あなたは、基礎からやり直した人間を、何人現場から外しましたか」
音源が三秒ほど無音になった。
「……関係ない」
「ええ。関係ありません。ただ、うちの判断基準は、あなたが十二年使ってきたものと同じです」
紙をめくる音がした。
「柏木さん、という方をご存じですか」
鷹取さんが名前を出した。
俺は畳の上で、少し姿勢を変えた。
「知らん」
九条の声は、迷いなくそう答えた。
「第三資材置き場の業者です。あなたが六月十九日に契約を解除された」
「……ああ」
二文字だった。
ゲート前で聞いたのと、同じ二文字。
「その方が、あの場におられました」
「業者だろ。関係ない」
「そうかもしれません」
鷹取さんは、それ以上言わなかった。
音源はそこで少し飛んで、続きが始まった。
「俺は十二年、天啓にいた」
九条の声。
「ええ。そのほうが早いと思って、私が拾いました」
音源は、そこで切れていた。
続きはない。
動画のコメント欄が流れていた。切り抜きの再生数は、二時間で四十万を超えている。
『鷹取こわ』
『会社ってこういうもんだろ』
『九条もさんざん人切ってきたしな』
『因果応報で草』
俺はイヤホンを外した。
因果応報、という言葉が引っかかった。
この四十万人は、九条が誰かに何かをされたとは思っていない。自業自得だと思っている。
実際には、俺がやった。
俺がやったことを、世界が別の名前で呼んでいる。
◇
夕方、協会の医務室に行った。
退院時に、経過観察で一度来るように言われていた。ギプスの位置を見て、腫れの引き方を見て、五分で終わった。
地下二階に降りたのは、帰り道の階段の都合だった。
そういうことにしておく。
鑑定課の前の廊下に、椅子が並んでいる。壁際に七つ。左から三番目のクッションが潰れている。
その、四番目に、男が一人で座っていた。
私服だった。無地のシャツと、量販店のチノパン。付き人はいない。カメラもない。
九条巽だった。
◇
一瞬、別人かと思った。
テレビで見る九条は、いつも輪郭がはっきりしていた。装備の肩が張っていて、立ち方に角度があって、周りに一メートルの空きがあった。
椅子に座っているこの男には、そのどれもなかった。
膝の開き方も、背中の丸め方も、順番待ちの一般人と変わらない。
俺は廊下の角で足を止めた。
九条は膝の上に、黒い手帳を開いていた。
輪ゴムは外れて、ページの上に置かれている。
開いたまま、動かない。
読んでいるわけではなかった。目が文字を追っていない。ページのどこにも焦点が合っていない。開いた状態で、そこで止まっている。
俺の位置からは、ページの端しか見えなかった。
罫線の入ったページに、縦に何かが並んでいる。文章ではない。一行が短くて、そのぶん行数が多い。
名簿の書き方だった。
十一年、俺は保管票を書いてきた。品名を一行ずつ並べるときの、あの並び方だ。
空調の音がしていた。地下二階は夏でも涼しい。
俺は通路を歩いた。
九条の前を、二メートルの距離で通った。
顔は上がらなかった。
四日前まで、この男は俺を見なかった。
今日は、誰のことも見ていない。
◇
受付から、名前が呼ばれた。
「九条さん。九条巽さん」
反応がなかった。
「……九条さん」
二度目。
三度目でようやく、九条が顔を上げた。手帳を閉じて、輪ゴムをかけて、ポケットに入れた。
立ち上がるとき、少しよろけた。
あの男が、平らな床でよろけた。
距離を支配していた男が、自分と床のあいだの距離を測り損ねている。
鑑定室の扉が開いて、閉まった。
あの部屋の中で、戸嶋詩織さんが判定を読み上げる。何度測っても、同じ四文字が出る。
俺は十一年、あれを聞いてきた。
聞き慣れた人間と、初めて聞く人間とでは、たぶん響き方が違う。
◇
俺は非常階段から地上に出た。
エレベーターを使わなかったのは、扉が開いたときに鉢合わせたくなかったからだ。
四階ぶんの階段を、右腕を吊ったまま降りた。手すりを左手で持つと、身体が傾く。踊り場で二度、休んだ。
外は、まだ明るい。蝉の声が、湾岸の風に混ざっている。
防潮堤の縁に腰を下ろした。腰を下ろすとき、右腕が邪魔で、左手で身体を支えた。
ざまあみろ、と思うべきだった。
思わなかった。
後悔もしていない。
あの男は俺を風景として踏んで、南を編成から外して、十一人か十二人の名前をあの手帳に書いてきた男だ。
俺がやったことは、返しただけだ。
ただ。
地下二階の椅子で、開いた手帳を膝に載せたまま動かない男の姿は、想像していたものと違った。
俺が想像していたのは、怒鳴っている姿だった。誰かに食ってかかって、認めさせようとして、それができずに崩れる姿。
実際に見たのは、静かだった。
誰にも言えないから、静かなんだと思った。
消えました、と言っても信じてもらえない。証明する方法がない。鑑定機の記録は「該当なし」で、それは体調不良でも説明がつく。
十一年、俺は同じ四文字を持っていた。
持っていることを、誰にも説明したことがない。説明する必要がなかった。誰も聞かないからだ。
あの男は、これから説明しようとして、失敗し続けるんだろう。
俺はギプスの中で指を動かそうとした。動かなかった。
汗が、包帯の縁に溜まっていた。
防潮堤の下で、水が石を叩いている。
明日、協会が九条の処遇を決める。
鷹取源三が病室で言った条文が、十一年ぶりに開く。
俺は何もしない。何もできない。腕は折れていて、金はなくて、次の仕事もない。
それでも、明日、制度が動く。
俺が三十四階で頭を下げた日から、二十日も経っていなかった。
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