第7駅 駅前を掃除しよう。
白百合駅の朝は、少しずつ騒がしくなっていた。
風の音。古い建物が軋む音。
それから、ひよりの笑い声。数日前まで、この駅にそんなものはなかった。
千景は朝食の片付けをしながら、ふとそんなことを考えていた。
「……この駅って、こんなに騒がしかったっけ」
「騒がしい?」
ひよりが振り返る。
「もしかして私、うるさい?」
「あっ。いや、その、そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、いいってこと?」
「た、たぶん……」
「たぶんなんだ」
ひよりが笑う。
千景は少しだけ口元を緩めた。
旧駅長室と宿直室の片付けが終わり、二人とも最低限の寝床を確保した。
水も出るようになった。電気もある。浴室だって使える。
次は、キッチンを稼働させ、畑を作る。ひよりはそう言っていたが、どうやって進めるつもりなのだろう。何気なく彼女の方を見る。
だが、朝食の片付けを終わらせたひよりは、箒を片手に高らかと別の宣言をした。
「畑を作る前に、まずは駅前を綺麗にします!」
その声に、千景はびくりと肩を震わせる。
「……な、なんで?」
「私は気づいてしまった。せっかくお風呂に入っても、一歩外に出た瞬間に埃と界塵塗れになったら意味がない! 生活の基本はまず足元から! 玄関口の掃除です!」
千景は窓の外を見た。
駅前広場。かつては人が行き交っていたはずの場所。
今は雑草が伸び、倒れた看板が転がり、瓦礫があちこちに散らばっている。ホームへ続く通路も、土と枯れ葉で埋まっていた。
「こ、ここ!?」
「うん」
「掃除するの?」
「そう」
「け、結構広いよ……?」
「分かってる」
「たぶん今日だけじゃ終わらないよ?」
「それも分かってる」
自分一人ならば絶対に掃除などしなかった。千景は遠い目をしながらひよりの肩を叩く。
「……ひよりちゃん」
「何?」
「真面目だね……」
「普通だと思うけどなぁ」
「絶対に普通じゃないと思う」
そう言うと、ひよりは快活に笑った。
* * *
ひよりに先導され、駅前広場の掃除が始まる。
最初に拾ったのは、折れた案内板だった。次に、錆びた空き缶。古い木箱。破損したベンチ。それから、駅前の植え込みに絡みついた雑草。
「これ、全部捨てちゃう?」
ひよりが木箱を持ち上げる。
「一応、中を確認する」
「何に使えるか分からないもんね」
「うん」
千景は木箱の蓋を開けた。中には、古い釘と金具が入っている。
「……おお。これは使えそうだ」
「本当に?」
「たぶん」
「また、たぶんだ」
「使える……可能性がある……!」
「それをたぶんって言うんだよ」
ひよりは笑いながら、木箱を残す側へ運んだ。その動きが妙に自然な様子だった。旧駅長室の片付けや浴室の修理を一緒にやったことで少しずつ慣れてきているのかもしれない。
千景は、そんなことを考えながら、また別の瓦礫を拾った。
「……ねえ、千景ちゃん。昔って、ここにも電車が来てたんだよね」
「うん」
「いっぱい人がいた?」
「いたよ」
「千景ちゃん、知ってるの!?」
「子どもの頃に一回だけ来たことがある」
「へえ」
「母と一緒に」
千景は手を止めた。目の前の広場を見つめる。
「その時は、もっと人がいたな」
「そうなんだ」
「駅前に店もあった」
「今は何もないね」
「……うん」
ひよりは、それ以上聞かなかった。ただ、隣で雑草を抜いていた。
しばらく二人とも黙っていた。けれど、今までの沈黙とは違った。何を話せばいいのか分からない気まずい沈黙ではない。黙っていても、隣にいるのが気にならない。
ひよりが草を抜く。千景が瓦礫を運ぶ。たまに目が合えば、ひよりが笑う。それだけだった。
「……やっぱりいいね、こういうの」
ひよりがぽつりと言った。
「何が?」
「一緒に作業するの」
千景は少し考えた。
「……そうだね」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
* * *
昼を過ぎる頃。駅前広場の一角が見えるようになった。
雑草を抜いた。瓦礫を片付けた。倒れていたベンチを起こした。
完璧に綺麗になったわけではない。
でも、人が歩ける。立ち止まることができる。ベンチに座れる。それだけで、昨日までとは違った。
「見て!」
ひよりが嬉しそうにベンチに腰掛けた。
「ちゃんと座れる!」
「壊れてないか確認してからの方がいいよ……」
「千景ちゃん、厳しいなぁ」
ひよりが笑いながら立ち上がる。
千景がベンチを軽く押す。少し軋む。でも、倒れない。
「大丈夫。座って」
「やった」
ひよりがまた座る。彼女に手招きされ、千景もその隣に腰を下ろした。
二人で駅舎を見る。
数日前まで、そこはただの廃墟だった。
今は窓の一つに明かりがある。
入口には、二人分の靴が並ぶ。
旧駅長室と宿直室にはそれぞれの荷物。
駅務室では、サポートAIのYURIが起動している。
少し離れた場所には、片付けた駅前広場。
小さな変化ばかりだった。
けれど、数日前とは大違いだ。
「……人が住んでる感じ、するね」
ひよりが言った。
「そうかな」
「するよ」
ひよりは広場を見渡した。
「昨日までは、ここ全部死んでたみたいだった」
「……うん」
「でも今は、ちゃんと人がいる場所に見える」
千景は返事をしなかった。その代わり、足元に落ちていた小さな石を拾い、隅へ寄せた。
ひよりが笑う。
「まだ片付けるの?」
「気になるから」
「じゃあ、私もやる」
「……無理しなくていいよ」
「無理はしてない」
そう言って、ひよりは立ち上がった。
その時、YURIの声が駅舎から響く。
『周辺清掃率、二十七パーセントです!』
「二十七パーセント……」
ひよりが振り返る。
「じゃあ、あと七十三パーセントだね」
「……結構あるなぁ」
「頑張ろう、千景ちゃん!」
「うん」
千景も立ち上がる。
駅前広場はまだ、廃墟の面影を残している。
でも、そこにはもう、二人が歩いた跡があった。
物を片付けた場所がある。座れるベンチがある。駅舎へ続く、歩きやすい道がある。
そして、そこを歩く人がいる。
たった二人だけ。それでも駅の住人だ。
「千景ちゃん」
「なに?」
「ここ、ちゃんと家にできるよ」
ひよりが初めてこの駅にやってきた日に言ったのと同じ言葉だ。千景は、その言葉を嚙み締めた。
「……家」
「うん」
千景は白百合駅を見上げる。
自分は、人が来ないと思ってここを選んだ。
でも、今は人がいる。明かりがある。水がある。
帰ってくる場所がある。
「……そうだね」
小さく答える。
そして、千景は工具を持ち直した。
「じゃあ、もう少し頑張ろう」
「うん!」
白百合駅の前に初めて、暮らしている人の痕跡が残った。
それはまだ小さな変化だった。けれど、廃駅が家になるための、最初の一歩だ。




