第6駅 お風呂は文明です。
旧駅長室と宿直室の片付けから一夜明けた朝。
千景は、給湯室の奥にある小さな個室――かつて駅員たちが仮眠の後に使っていたであろう、古い浴室の前に立っていた。
「……で、これをお湯が出るようにしろと」
「はい! お願いします!」
ひよりが千景の背後から、期待に満ちた熱い視線を送ってくる。
千景はため息をつきながら、浴室の中を覗き込んだ。壁のタイルはひび割れ、シャワーヘッドは錆びつき、排水溝には長年の泥が詰まっている
「まあ、この辺は掃除すればいいとして……」
「掃除は私が頑張るよ!」
「あっ、うん。じゃあ、お願い。問題は……」
千景は古い配管を確認していた。浴室は完全に壊れているわけではない。給水管の一部は昨日復旧した。問題となるのは給湯設備だ。
「ボイラーが死んでるな」
「直せそう?」
「完全には無理」
「じゃあ、やっぱりお湯は出ないの……?」
ひよりの悲しげな声を聞くと胸が痛んだ。
「……方法がないわけじゃないよ」
「さすが千景ちゃん!」
「き、急に褒めないで……!」
「どうして?」
「集中できなくなるから……」
「じゃあ、心の中で褒める!」
「そ、それならいいかな……」
ひよりが笑った。
千景はそそくさと作業を始める。
古い配管を外す。内部を確認する。壊れた部品を一つずつ交換していく。幸い、母が残してくれた工具と部品の中に使えそうなものがあった。
問題は熱源だった。旧設備のままでは動かない。
「どうするの?」
「電気式に切り替える」
「そんなことができるんだ」
「たぶん……」
「また、たぶんだ」
「……成功率は高い、と思う」
「それなら大丈夫だね」
ひよりはそう言って、千景の作業を見守っていた。
「私、何かすることある?」
「それじゃあ、そこにある配線、持って」
「これ?」
「うん」
「こう?」
「もう少し上」
「こんな感じ?」
「そう」
二人で配線をつなぐ。千景が端子を固定する。ひよりが工具を渡す。そのやり取りが、昨日までよりずっと自然になっていた。
「千景ちゃん」
「なに?」
「私たち、ちょっとだけ夫婦みたいじゃない?」
「うぐっ……」
千景の手が止まった。
「……な、何を言ってるの、ひよりちゃん」
「昨日、私のこと良いお嫁さんになれるって言ったの千景ちゃんでしょ」
「そ、それは料理の話!」
「えー。そうなの?」
「それに、ひよりちゃんなら私なんかよりもっと良い人がいるよ……」
「私は嫌じゃないよ?」
楽しげな笑みを浮かべるひより。
千景はため息をついた。こういう作業が嫌じゃないなんて変わっている。畑仕事も得意だと言っていたし、この手の作業がよほど好きなのだろう。そう納得する。
けれど、千景自身もさほど嫌ではなかった。むしろこうやって誰かと一緒に作業することが少し楽しい。
そんなことを考えていたらYURIの声がした。
『給湯設備の再構成を推奨します』
「分かってる」
『現状の設備のままではお湯を沸かすことはできません』
「分かってるって。だから今やってるの!」
『承知しました』
ひよりが笑う。
「ユリもお風呂に入りたいのかな。お風呂が直ったら三人で一緒に入る?」
『私は入浴を必要としません』
「残念。一緒に入りたかったのに。ね、千景ちゃん?」
「……う、うん」
ひよりの表情が妙に色っぽく見えて、千景は少しだけどきりとした。
* * *
しばらくして。
浴室の蛇口から、水が流れ始めた。
「出た!」
ひよりが叫ぶ。
「ま、まだ水だけだよ……」
「でも、出たよ!」
「終わったわけじゃないって」
千景は制御盤を確認する。配線を一つ。もう一つ。そしてスイッチを入れる。
「……これでどうかなぁ」
低い機械音。しばらくして蛇口から立ち上る湯気。
「すごい……!」
ひよりが目を見開いた。
「お湯、だよね……?」
「うん」
千景も自分の手を水に近づける。
温かい。ちゃんと温かい。
「……成功したよ」
照れ臭くて、思わず声が小さくなる。その瞬間。
「やったああああ!」
ひよりの歓声が浴室に響いた。
「千景ちゃん、すごい!」
「ちょっと、声大きい」
「だってお風呂だよ!?」
「分かってる」
「温かいお湯だよ!?」
「分かってるってば……」
ひよりは、蛇口のお湯に手を差し出す。
「あったかい……。千景ちゃん、やっぱり自分のすごさが分かってない! 本当に魔法使いだよ!」
ひよりが濡れた手のまま、千景に抱きついてきた。
「えっ、ちょっと。服が濡れる……っ」
「ありがとう、千景ちゃん! これでお風呂に入れるよ!」
千景は引き剥がそうとしたが、ひよりの力が意外と強く、結局抱きつかれたままになった。
嬉しそうに笑うひよりの顔を見て、千景はなぜだか自分も嬉しくなった。
電気を復旧した時も水を出した時も、設備が動くこと自体が嬉しかった。でも、今は少し違う。
この設備を使えることを誰かがこんなに喜んでくれる。それが嬉しい。
「千景ちゃん」
「なに?」
「ありがとう」
「……うん」
「すっごく嬉しい」
「……そう」
「一緒に住んでる感じ、するね」
千景は浴室を見る。
新しく直した配管。古いけれど、ちゃんと動く給湯設備。そして、その前で嬉しそうにしているひより。
「……そうかも」
千景は小さく答えた。
白百合駅は少しずつ誰かと暮らす場所になっている。
* * *
その日の夜。ひよりは風呂上がりに、深く息を吐いた。
「生き返った……」
「そんなに?」
「そんなにだよ」
自分の部屋があるというのに、ひよりはわざわざ千景の部屋までやってきた。彼女は髪を拭きながら簡易ベッドの隅に腰掛ける。
持参した少し大きめのTシャツとハーフパンツというラフな格好だが、その肌は湯上がりでほんのりと桜色に染まっている。界塵と泥に塗れていた顔はすっきりと洗い流され、本来の可愛らしさが際立っていた。
「千景ちゃん。次、入っておいで! お湯、最高だったよ! 」
千景は、無意識のうちにひよりから目を逸らしてしまった。なんだか、直視してはいけないような気がしたのだ。
「……いいよ。私は別に」
「行っておいでってば! 絶対に気持ちいいから!」
ひよりに促され、千景も渋々ながら浴室に向かった。
千景が中に入ると、昼間とは見違えるほど綺麗になった空間が待っていた。ひよりが約束通り気合を入れて掃除してくれたのだろう。タイルは本来の白さを取り戻し、排水溝の詰まりも解消されている。
服を脱いだ千景は、ひやりとした空気に少し身を縮めた。夕方まで機械油の匂いに包まれていた彼女の手は、今はまだ微かな金属臭を残している。
シャワーヘッドや蛇口もひよりが丁寧に錆を落としてくれたようだ。心の中で感謝しながらシャワーの蛇口をひねると温水が勢いよく噴き出した。水滴が細かい雨のように降り注ぎ、黒い髪を濡らしていく。
千景の小柄な体は水流の下で震えた。首筋から肩へ、そして胸元へ——滑らかな肌の上をお湯が這うように流れ落ちる。鎖骨の窪みに溜まった水が胸元へ伝い、さらに腹部を通って足元へ消えていった。
温かいお湯が、体に染み付いた油汚れと、何日分もの疲労を洗い流していく。
「……確かに、これは文明だ」
千景は小さく息を吐き、少しだけ頬を緩めた。
シャワーを背中側に当てる。その背は、日焼けをしていない白さを保っていた。華奢な身体は、小さな肩甲骨の間に指を入れれば沈みそうな薄さだ。
両腕にはあちこちに細かな擦り傷がある。機械を扱う時についた傷だ。
膝を抱えるようにしゃがむと、太ももの内側をお湯が滑り落ちる感覚があった。千景はその感触から目を背けるように目を閉じた。なぜか今日だけは、自分の体から流れ落ちる液体に特別な意識が向いてしまう。
これまでは一人きりだったから自分の身体を他人と比べることなどなかった。だが、今はどうしてもひよりの姿が頭をよぎる。湯上がりで艶やかな肌を見せていた同居人の姿と、今ここにいる自分自身を重ねてしまっていた。
自分の細くて貧相な身体を見下ろす。機械いじりばかりしているせいで荒れた手。特に右手の人差し指は黒鉛のような汚れが皮膚に染みついている。それに小ぶりな胸。どこもかしこも、女の子らしいとはとても言いがたい。ひよりの健康的な肉体とは大違いだ。
「……ひよりちゃんは、なんで私なんかのそばにいてくれるんだろうな」
友達だから、というのは違うだろう。あんな素敵な女の子が自分なんかと友達になってくれるはずがない。
昼間は冗談めかして「夫婦みたいだ」なんて言っていたが、夫婦というのは恋愛感情の果てに婚姻関係を結ぶもののはずだ。であれば、それもあり得ない。恋愛感情を抱かれるような女性的な魅力が自分にあるとは到底思えない。
となると――やはりこの駅だろうか。駅があるから、ひよりはここにいてくれるのだろう。
「……明日からも頑張って駅を直さなきゃな」
千景は顔を上げ、シャワーのお湯を全身に浴びた。髪から滴る水が首筋を伝い、肩を流れて胸元へ落ちていく。ため息のような声が漏れた。
全身を洗い終えた後も、千景はしばらく浴室で立ち尽くしていた。部屋に戻ればひよりがあの湯上りの姿で待っているのだろう。ただでさえ彼女は距離感が近いのだ。あの格好でそばにいられるのは心臓に悪すぎる。こちらまで距離感を間違えてしまいそうになるのだ。
お湯の粒が一つまた一つと、千景の肌を離れていく。まるで何かに引っ張られているかのように――。
千景は小さくくしゃみをし、身を震わせた。折角お湯を浴びたというのにこのままでは体が冷えてしまう。
「戻るか。……ひよりちゃん、頼む。今だけはめちゃくちゃ厚着をしていてくれ!」
千景は最後にもう一度シャワーの栓を捻ると、静かに浴室を出た。
駅長室に戻ると、ひよりは念入りに髪をタオルで拭いている。千景の願いも虚しく、その姿は先ほどのラフな格好のままだ。
「やっぱダメか。そりゃそうだよなぁ。さて、陰キャの危機だぞ」
その呟きにひよりが顔を上げる。
「ダメ? お湯、出なかった?」
「そ、そんなことないよ! 絶好調! 気持ち良かった。お風呂ってすごいね!」
「よかった。おかえり、千景ちゃん」
ひよりの眩しい笑顔に千景はたじろぐ。
「……た、ただいま」
千景は簡易ベッドに腰掛けた。すると、ひよりが腰を浮かせ、千景のすぐ隣に座り直す。石鹸のいい匂いが、ふわりと千景の鼻をくすぐった。刺激が強すぎて思わず顔を背けてしまいそうになる。
「千景ちゃん」
「な、なに」
「お風呂、作ってくれてありがとう」
ひよりが、改まった声で言った。
千景は少し驚いて隣を見た。ひよりの瞳は、真っ直ぐに千景に向けられていた。
「私ね、昨日この部屋や自分の部屋の片付けをしている時、すごく楽しかったんだ。千景ちゃんが直してくれたこの駅が、どんどん『私たちの家』になっていくのが嬉しくて」
ひよりが、膝を抱えるようにしながら小さく微笑む。
「最初は、変な子だなって思ったけど……千景ちゃん、すっごく優しいね。それに、頼もしい」
「べ、別に、優しくないよ。私はただ、自分の環境を整えてるだけで……」
千景は照れ隠しのように、ぶっきらぼうな口調で答えた。しかし、ひよりは小さく笑うと、千景の肩にそっと自らの頭を乗せた。
「そういうことにしておくね。……でも、私は、これからも千景ちゃんと一緒にここを直していきたいな」
千景の肩に、ひよりの体温と、少し湿った髪の感触が伝わってくる。一緒に暮らしているという実感が、じわじわと千景の心に浸透していく。
――悪くないかもしれない。
千景は、ひよりの頭を押し退けることもせず、ただ静かに前を見つめていた。
この関係が、そしてこの気持ちが何なのかはまだ分からない。けれど、彼女とこうしているのは決して嫌ではなかった。
「よしっ!」
突然、ひよりが顔を上げ、気合を入れるように両手で自分の頬をパンッと叩いた。
「お風呂に入ってさっぱりしたら、色々やりたいことが浮かんできた! 千景ちゃん、お風呂の次は『ちゃんとした食事』を作ろう!」
「昨日とか今日のご飯も美味しかったよ?」
「じゃなくて。もっと本格的なご飯! もっとこう、フライパンでジュージュー焼いたり、新鮮な野菜を使ったりする『料理』だよ!」
ひよりが力強く宣言する。
「お水も電気もあるんだから、次はキッチンを稼働させます! 私の持ってきた野菜の種だってそろそろ植えないとダメになっちゃうのがあるし!」
「……畑、作るの?」
「もちろん! 自給自足の第一歩だよ!」
次から次へとタスクを増やしていくひよりに、千景は小さくため息をつく。しかし、その口元には、やはり隠しきれない小さな笑みが浮かんでいた。




