第3駅 水が、ない。
朝の駅舎に、ひよりの絶望的な声が響いた。
「千景ちゃん!」
「ど、どうしたの?」
彼女は駅舎の床に座り込んで、水筒を持っている。
「水、なくなった!」
「……そう」
「そう、じゃないよ!」
ひよりが水筒を振る。からん、と乾いた音がした。
「全部飲みきっちゃったみたい」
「仕方ないと思う。飲めばなくなるよ。自然の摂理……」
「そういうことじゃなくて! 千景ちゃん、この辺に川とか井戸ってないかな?」
「あっても飲めないよ。界塵が混ざってる。そのまま飲んだら、内臓がやられちゃう」
「うっ……。じゃあ、雨水を貯めて濾過するしかないか……」
千景は、ひよりを見つめる。困り果てた彼女の様子を見ているとなぜだか胸が痛んだ。
普段ならば千景は他人とあまり関わりを持とうとしない。しかし、この時だけはなんとかしてやりたいという思いが胸をよぎった。
「……待ってて」
「どうするの、千景ちゃん?」
「探してみる」
「探す?」
「水源」
千景は立ち上がった。こういう時、考え込んでも仕方がない。
白百合駅には、昔の設備が残っている。電気が復旧したなら、水道設備も一部だけなら生きている可能性がある。問題は、その位置だ。
「どこだっけかなぁ……」
「分かってるわけじゃないんだ」
「資料が古いからね。でも、たぶん地下だと思う」
「地下!?」
ひよりの声が少し大きくなる。
千景は駅務室の端末を起動した。画面が淡く光る。
『おはようございます、駅務管理者様!』
「……おはよう」
『今朝の居住者登録について改めて確認しますか?』
「今はいいよ」
『本当に確認しなくてよろしいのですか? 記念すべき一人目の居住者ですよ?』
「いいってば。真横にいるんだよ、本人が」
『承知しました』
「しつこく聞いてきた割に切り替え早いな。何だ、こいつ」
隣でひよりが笑っている。
「面白い。千景ちゃんって普段は口数が少ないけど、ユリが相手だと結構喋るよね」
そう言われた途端、千景は体から一気に冷や汗が流れ出るのが分かった。
「違っ……、違うんです、これは……。機械が相手だと気を遣わなくていいので、好き勝手に喋れるだけで……根暗ですみません……」
「私が相手でも気なんか遣わなくていいのに」
「そ、そういうわけには……ひよりちゃんをこんなポンコツと一緒にするのも気が引けるし……」
「ポンコツ呼ばわりは可哀想だよ。ユリって色々と便利じゃん」
ひよりの言葉を聞いてホログラムの少女が笑顔を浮かべる。
『ありがとうございます! お褒めいただき光栄です!』
「おお。褒めると反応するの!?」
「なんかそういうよく分からない機能もあるんだよね……」
『褒められると嬉しいように設計されています』
「えっ、すごい! 高性能じゃん!」
「いくらなんでも感情まではないと思うんだけどなぁ」
かつての人類文明は人工知能がシンギュラリティを迎える前に滅びたのだ。駅の業務サポートAIにだって感情など備わっているわけがない。
そんな千景の言葉を認識したのか、端末の画面に短いロードが入る。
『驚愕の事実です。確認してみたところ私に感情はありませんでした……そんなバカな……』
駅員姿をした少女のホログラムが項垂れた。
「何だよ、こいつもう!」
千景が思わずツッコむと、ひよりが声を上げて笑う。
「千景ちゃん、やっぱり面白い」
千景は顔を真っ赤にした。YURIのことは無視しようと決め、端末の地図データを開く。
古い駅の見取り図。
その地下。管理区画。給水設備。貯水槽。
「……おお。あった」
「本当!?」
「旧貯水設備。ここだと思う」
千景は立ち上がった。
「見に行ってみる」
「私も行くよ」
「いいって。危ないかもしれないから」
「でも、復旧作業をするなら二人の方がやりやすくない?」
「うっ……」
「私、役に立つよ?」
ひよりが上目遣いで見つめてくる。
「……わ、分かった」
昨日までなら、きっと一人で行っていた。でも、今は、ひよりがいる。
千景はそれを、ほんの少し不思議に思った。
* * *
地下への階段は、駅務室の奥に隠れていた。
錆びた扉を開ける。
空気が変わった。
冷たい。湿っている。
「きゃっ……」
ひよりが小さく声を漏らした。
「大丈夫?」
「ちょっと怖いだけ」
「戻っててもいいよ」
「やだ」
即答だった。千景は少しだけ驚いた。
「……そう」
「だって、千景ちゃん一人じゃ行かせられないよ」
「まあ、水は必要だもんね……」
「そういうことじゃなくて!」
どういうことなのだろう。千景は首を傾げたが、それ以上尋ねることもしなかった。
二人で地下通路を進む。
ところどころ崩れている。
千景は壁面の配線を確認しながら歩いた。
旧式の設備。
記憶の中の母の言葉が浮かぶ。
――古い設備ほど、壊れている箇所ではなく、止まっている箇所を見る。
千景は配電盤を開けた。
「これ……まだ使えそう」
「分かるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私、失敗することもあるから」
「でも、この駅の電気は点けたんでしょ」
「ただの偶然かもしれないし……」
「それは絶対違うと思う。もっと自信持ってよ」
ひよりの言葉を聞き流しながら、千景は端子を確認した。
問題は給水ポンプ。電源系統が一部死んでいる。さらに他の箇所も。
「フィルターも詰まってるみたい」
「どうするの?」
「掃除する」
「それで水、出る?」
「出ればいいんだけどなぁ、って感じ」
「出るよ」
「なんで分かるの?」
「千景ちゃんがやるならきっとできる!」
「なんで私より自信あるの……」
「なんとなく!」
「なんとなくって……」
少し困った。こういう言葉は苦手だ。期待されるのも、信じられるのも。できなければ失望されるに違いないのだ。
「……じゃあ、とりあえずやってみるよ」
工具を取り出す。ボルトを外す。固着したフィルターを洗う。
ひよりはその横で、黙って作業を見ていた。時々、声をかけ、できることを探して動いてくれる。
千景にとって、それは少しだけ新鮮だった。
一人なら、全部自分でやる。
誰かが手を貸してくれるということを、あまり知らなかった。
「……よし」
最後の配線をつなぐ。
千景はポンプのスイッチに手を置いた。
「いくよ」
「うん」
カチリ、と音がする。
最初は何も起こらなかった。
数秒間の沈黙。
「……駄目っぽい?」
「待って」
地下の奥から、低い音が響いた。
――ゴウン。
続いて、カタカタカタ、と。古いポンプが、ゆっくり回り始める。
「もしかして……!」
ひよりが顔を上げる。
配管の奥から、水が流れる音。細く。けれど確かに。
「来た……」
千景は立ち上がった。
地上へ戻り、駅員用の古い蛇口をひねる。
最初は空気だけが出た。
次に、茶色く濁った水。
「うわっ、汚っ!」
「ずっと使ってなかったからね。最初に出てくる水は流しっぱなしにして捨てよう」
しばらく流す。
やがて透明な水が、細く流れ始めた。
「出た……!」
ひよりが呟いた。
「うん」
「本当に、水が出た……!」
ひよりは両手を差し出した。
流れる水を受ける。それから、嬉しそうに笑った。
「すごい!」
「……そうかな」
「すごいよ!」
「でも、古い設備を動かしただけだから」
「それがすごいんだって!」
ひよりが振り返る。
「千景ちゃんって、すごいんだね。魔法使いみたい!」
千景は黙った。
「どうしたの?」
「……こういうの、苦手で」
「こういうの?」
「褒められるの」
「なんで?」
「慣れてないから……」
「じゃあ、ちょっとずつ慣れていこうよ」
「な、慣れていく……?」
「今日はいっぱいすごいって言うね!」
「ええっ!?」
ひよりは、大仰な身振りを交えながら千景を褒め称え始めた。
「千景ちゃん、すごい! 天才! 千景ちゃんならこの世界だって直せるよ!」
「そ、それはさすがに大袈裟……」
「大袈裟じゃないよ! 千景ちゃんは私の命の恩人なんだから! 本当にすごいよ、千景ちゃん!」
千景は困った。
だが、ひよりの瞳には、一点の曇りもない純粋な尊敬と好意が満ちていた。それを見ていると、嫌な気分にはならなかった。
「……あ、ありがとう」
ようやく、それだけ言う。
「私がお礼を言われるのも変だけどね。どういたしまして!」
ひよりは、嬉しそうに笑った。
その後ろで、YURIが淡々と告げる。
『給水設備の一部復旧を確認。飲用前の追加浄水を推奨します』
「浄水もまだ必要なんだ」
ひよりが言う。
「うん。ある程度すれば普通に飲めるようになるだろうけど、しばらくは煮沸が必要」
「じゃあ、それもやらなきゃね」
「……うん」
「やることいっぱいだね」
「そうだね」
駅の中を見回す。
電気。水。暖房。
あるのはそれだけ。まだ足りないものばかりだ。
けれど昨日までとは違う。
少しずつこの場所が生活するための空間に近づいている。
――煮沸作業を終え、千景は水の入ったひよりの水筒を見た。
「これで、しばらく大丈夫だよね」
「うん」
ひよりは水筒を抱えた。そして。
「あ」
何かに気づいたように、駅舎の奥を指差した。
「ねえ」
「なに?」
「私たちって今夜どこで寝るの?」
千景は黙った。
駅舎には寝床と呼べる場所はない。
あるのは古い長椅子と、壊れた待合室だけだ。
「……か、考えてなかった」
千景は目を逸らす。
一人の時は長椅子で丸まっていればよかったが、確かに『生活する』となれば、これは由々しき問題だった。
白百合駅には、水が戻った。
次に必要なのは寝る場所だった。
「そ、そうだね。とりあえず……」
そう呟いた途端、お腹の音が鳴った。そういえば朝起きてからまだ何も食べていなかったのだ。千景の顔が一気に真っ赤になる。
「あ、あの、これは、その……!」
ひよりは、そんな千景に優しく微笑んだ。
「とりあえず朝ご飯にしよっか!」
千景は、まるで太陽みたいだなと思いながら、少し目を細めた。




