第2駅 最初の住人が増えた。
千景が保存食の乾パンをかじりながら、次にどこを修理しようかと配線図を眺めていた時のことだ。
駅舎の外から、ガラガラと車輪が転がるような音が聞こえた。
千景は固まった。
動物の足音ではない。もっと人工的な、例えば小さな荷車でも引くような音。ということは、人間か。
その音が、駅舎の入り口で止まった。
「ど、どうしよう……。どうすればいいんだ……!?」
千景は、困惑しながら顔を上げた。
足音が近づく。次の瞬間。
「すみません」
鈴が転がるような、明るく澄んだ女の子の声だった。
千景は息を呑んだ。
わざわざ人が来ない場所を選んだのに、なぜ人が来るのか。狼狽するだけで何も反応することができない。
しばらくそのまま固まっていると――。
入口から、少女が顔を覗かせた。
明るい表情。千景と同じくらいの歳か、少し年下くらいだろうか。栗色の髪をサイドでふんわりとまとめ、少し大きめの防寒着を着ている
そして、その近くには小さな荷車。
「あの……」
少女が周囲を見回す。
「どなたかいらっしゃいますか?」
「……ひっ!? 人間! あ、あの、その……」
千景は、数十秒かけてゆっくりと答えた。
「い、います……」
「よかった……!」
少女の顔がぱっと明るくなる。
それだけで、千景は少し戸惑った。こんなに喜ぶことなんだろうか。
「い、いますけど! でも……!」
千景は続けた。
「ち、近づかないでください……!」
「なんで!?」
少女は思いきり目を丸くした。
千景は少し考えた。
「ひ、人と話すの、苦手なので……」
「理由が正直!」
少女は思わず笑った。
「正直なのはむしろ好感が持てますね」
「こ、好感を持たれても……」
千景はますます困った。この人は、どうして笑うんだろう。なんと声をかけていいか分からず、呻くような声を漏らすことしかできない。
少女はそんな千景の様子を知ってか知らずか興味深そうに周囲を見渡している。
「……ここ、駅だよね? 一人で住んでるの?」
「……はい」
「住めるものなんだね。私、遠くから見かけたことはあったけど、ずっと廃墟だと思ってたよ」
「廃墟ですよ。直しているだけで……」
「へえ。こんな施設を修理できるなんてすごいね!」
「ま、まあ……はい……」
褒められてもどんな反応をしていいか分からず、つい素っ気ない返事をしてしまった。
一瞬、沈黙が訪れる。何か話さなければと思っても何も言葉が出てこない。全身から冷や汗が流れた。千景は己の対人能力のなさを呪う。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
その時だ。外から風の音が聞こえた。
白い灰が舞う。空気の色が、少しずつ濁っていく。
少女の表情が変わった。
「……界塵?」
千景は窓の外を見る。確かに濃くなっている。
今夜は外を出歩かない方がよさそうだ。
「ちょっとマズいなぁ、これは……」
「か、帰るんですか?」
淡い期待を込めて千景が聞く。だが、少女は困ったような顔をした。
「帰りたいけど……この濃さだとね」
「そ、そうですか。そうですよね」
千景は駅舎を見回した。
壊れた待合室。簡易ベッド代わりの古い長椅子。そして、さっき点いた照明。
一方、外の状況は千景から見ても最悪だった。窓ガラスの向こうでは、白い灰が吹雪のように舞い始めている。今、外に出れば、肺をやられるか、方向を見失って遭難するかのどちらかだ。
「……ひ、一晩だけなら」
千景は、蚊の鳴くような声で言った。
彼女を助けたいというより、この子を外に出して死なれたら夢見が悪いという消極的な理由だった。
「と、泊まっていっても……」
少女は、ぱっと笑った。
「本当に!? いいの!? ありがとう!」
満面の笑みで駅舎に入ってきた。
「私、白石ひより。お世話になります!」
そう言って手を差し出してくる。距離感が近い。初対面なのに、もう十年来の友人のような笑顔だ。千景は思わず半歩後ずさった。
少女――ひよりは、そんな千景を見て小首を傾げながら微笑む。
「どうしたの?」
「あ、いや、あの……その……」
千景は意を決し、震える手を伸ばした。相変わらず顔は背けたままだ。
「わ、私、黒瀬千景、です……」
指先だけでぎこちなく彼女の手のひらに触れる。
ひよりが笑った。
「何それ。握手はこうだよ」
千景の手を強く握り締める。
「よろしくね、千景ちゃん!」
温かくて柔らかい。他人の手の感触。
「ひぃっ! こ、これが握手……! シェイクハンズ……!!」
千景は思わず悲鳴を上げた。
「い、嫌だった……?」
「そ、そんなことないよ、白石さん!」
「ひより、でいいよ」
「じゃ、じゃあ、ひより……ちゃん……?」
「うん!」
屈託のない笑顔を浮かべるひより。
千景は思った。やはり人が来ると、静かではなくなってしまう。けれど、このひよりという少女のことは不思議と嫌ではなかった。
――夜になって、非常用暖房を動かした。
しばらくすると、冷え切った駅舎に少しずつ温かい空気が流れ始める。
「わあ……」
ひよりが、目を細める。
「あったかい……」
「電気は少ししか使えないけど」
「ううん、十分すぎるよ。外はあんなに寒くて命の危険だってあるのに、ここだけ別の世界みたい」
ひよりが、暖房の吹き出し口の前にしゃがみ込み、幸せそうに呟いた。
「……夜中にこんな暖かい場所で過ごすのなんて何年ぶりだろう」
瞳の端には涙が滲んでいる。
ひよりは、明かりのついた駅舎を見回した。
「……すごいな。ここ、ちゃんと家にできるね」
ひよりが、ふとそう漏らした。
「……え」
千景は心臓が跳ねた。白百合駅を見渡す。
壊れた壁。古い床。剥がれた案内板。穴の開いた天井。
確かに、まだ廃駅だ。でも、明かりがある。暖房も動く。そして今、自分以外の人間が、ここにいる。
「……家」
千景が小さく呟く。その言葉が、急に現実味を帯びて聞こえた気がした。
「い、いやいやいや! ここは家とかじゃないですから……!!」
「そう? 屋根を直して、お水を引いて、あとお風呂も作れば、すごくいいお家になりそうだけど」
「……わ、私は、一人でひっそりと暮らせればそれでいいので」
「そうなんだ。もったいないなぁ」
「も、もったいなくないです。別に……」
千景は自分一人が隠れ住む場所を作ろうとしていたのだ。誰かが住める場所を作るつもりなど、毛頭ない。
しかし、ひよりの目はキラキラと輝いていた。まるで、洞窟の奥で宝の山を見つけたかのように。
――翌朝。外の界塵は収まり、抜けるような青空が広がっていた。
帰り支度をするひよりを見送ろうと、駅前広場に出た時のことだ。
「ねえ、千景ちゃん」
荷車を引くひよりが、くるりと振り返って千景を見た。
「ここ、私も住んじゃダメ?」
「……はい!?」
千景の思考が停止した。
「私、畑仕事と料理なら得意なの! 千景ちゃんが駅を直して、私がご飯を作る。完璧な役割分担だと思わない?」
「いや、あの、そういう問題じゃなくて。ここは私一人で……確かに広さはあるし、住もうと思えば住めるかもしれないんですけど……」
小声でごにょごにょと言い訳する。その時、突然、駅舎のスピーカーからYURIの声が響いた。
『居住者登録申請を確認しました!』
「してないよ!?」
千景は即座に否定する。
『暫定居住者一名を登録します。ようこそ、白百合駅へ!』
「してないってば!」
千景の抗議を無視して、YURIはあっさりとひよりをシステムの保護対象に加えてしまったのだ。
「私も住んでいいってこと!? やった! よろしくね、千景ちゃん!」
ひよりは満面の笑みを浮かべると、思いきり抱きついてくる。柔らかくて温かい体の感触に包まれながら千景は悶えた。
――人が来ない場所を作ろうと思って駅を直していたのに。
千景の小さなため息は、澄んだ朝の空気に吸い込まれて消えた。
こうして、千景の思い描いていた『孤独で静かな終末ライフ』は、開始早々に崩れ去ったのである。




