第16駅 少しだけ、安全な場所。
その朝、千景は駅の外へ出てすぐに違和感を覚えた。
「……なんか静かだ」
白百合駅の周辺は、以前から静かだった。人がいないのだから、当然だ。
けれど、今日の静けさは少し違う。
鳥の声がする。遠くで風に揺れる木の音もする。
それだけなら珍しくない。
けれど、ここ数日、駅の周囲で聞こえていた妙な物音がない。灰犬の遠吠えも、夜中に聞こえていた何かを引きずるような音もない。
「何だろう……」
千景は駅前広場を見回した。
少し前まで、ところどころに異常生物の痕跡があった。
土が掘り返されていたり、柵が倒されていたり、食べ物を探した跡が残っていたり。
それが減っている。
「……不思議な感じ」
「何が?」
後ろから、ひよりが顔を覗かせた。
「おはよ、千景ちゃん!」
「お、おはよう」
ひよりは朝の空気を吸い込む。
「んーっ! いい、朝! ……で、どうしたの?」
「昨日までより、痕跡が少ないんだ」
「痕跡?」
「灰犬とか、そういう異常生物の痕跡」
ひよりも周囲を見る。
「そういえば……」
「最近、夜も静かだったし」
「言われてみればそうだね」
ひよりは少し考えた。
「この辺りが安全になったのかな」
「まだ分からない。理由もなくそんな変化が起きることもないだろうし」
「でも、なんだか前より怖くない感じするね」
「……そうだね」
千景は地面にしゃがんだ。
古い足跡を見る。少なくとも、昨日や今日のものではなさそうだった。
「ユリ」
『何でしょうか、駅務管理者様』
小さな女駅員風のホログラムが現れ、ぴしっと敬礼をしてみせる。
「この周辺の異常反応、昨日までと比べてどう?」
少し間があった。
『測定データを比較します』
YURIのホログラムが小さく揺れる。
『白百合駅周辺の異常反応が減少しています』
「どのくらい?」
『直近三日間の平均値と比較して、約三十八パーセント低下』
「三十八パーセント……?」
ひよりが目を丸くする。
「結構減ってない、それ!?」
「う、うん。かなり減ってる」
『さらに、界塵濃度も緩やかな低下傾向を確認しています』
千景は顔を上げた。
「界塵も?」
『はい』
「理由は?」
『現時点では特定できません』
千景は黙った。
単に天候や風向きの影響かもしれない。異常生物の行動周期の問題かもしれない。
けれど、なぜだか偶然とは思えなかった。白百合駅に明かりが点いて、電気が戻って、水が戻って、設備が動き始めてからだ。周囲の異常が少しずつ減っている。
「うーん……」
何かある。そんな気がした。
* * *
駅舎へ戻る。YURIに周辺データを表示させる。
古い地図の上に、薄い円が浮かんだ。
「この範囲がそうなの?」
『はい。現在の推定安定化領域です』
駅を中心におよそ数百メートル。
「これ、前からこうだったわけじゃないよね?」
『そうです。地下設備の再起動前は、この機能は停止していました』
千景は画面を見つめる。
「地下設備……?」
『現在は安定化ノードの稼働を確認しています』
「千景ちゃん。安定化ノードって、何?」
ひよりが聞いた。
「私にも分からない……」
YURIが補足する。
『旧文明期の境界安定化設備と推定されます』
「境界安定化設備……」
千景はその言葉を頭の中で反芻する。言葉通りに受け取れば、界塵の影響や境界現象を抑え込むための設備ということになるのだろうか。
けれど、今はそれ以上を考えるのはやめた。いくら悩んでも答えは出なさそうだったからだ。
「とりあえず」
千景は駅の窓から外を見る。
「ここが少し安全になったってことだ」
「うん」
ひよりの顔が明るくなる。
「じゃあ、畑も安心して見られるね!」
「百パーセント安全になったわけじゃないから油断はしない方がいいよ」
「分かってる」
そう言いながらひよりは少し笑っている。
「でも、なんだかここなら安心して暮らせそうだね」
千景はその言葉を聞いて駅舎を見渡した。
電気がある。水がある。風呂がある。食堂がある。畑がある。外灯もある。
そして、駅の周囲には、見えない何かが広がっている。
それが今までより、少しだけ安心できる空間を作っている。
「……そうだね」
千景は答えた。
「確かにここなら……」
上手い言い回しが思いつかず、言葉がそこで止まる。ひよりが振り返った。
「ここなら?」
「う、うーん……」
千景はひよりに見つめられ、冷や汗を流した。
必死に言葉の続きを考えようと焦っていると、ひよりが穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、千景ちゃん。ゆっくりでいいから千景ちゃんのペースで話して」
「……うん」
千景は深く息を吸う。
「……た、確かにここならちゃんと暮らせるかもしれない」
散々悩んだ割に平凡な言葉しか出てこなくて酷く恥ずかしかった。だが、それでもひよりは嬉しそうに笑ってくれた。
「うん。安心して暮らせる私たちの家だね」
「……あ」
千景は反射的に否定しようとした。
――白百合駅は駅だ。家ではない。元々は駅だった建物を修理しているだけ。
頭の中に浮かんだその理屈は、言葉になることはなかった。
代わりに短く言う。
「……そうだね。私たちの家だ」
ひよりが笑った。
「やっぱり千景ちゃんもそう思うよね!」
千景は駅舎の中を見る。
食堂。窓辺には小さな花瓶。
駅舎の奥にある個人の私室。
部屋の中には、ひよりの荷物。自分の工具。
それからいつの間にか増えた、二人の生活の痕跡。
千景とひよりの思い出。
――家。我が家
そう呼んでも、もういいのかもしれない。
* * *
午後。二人は駅周辺を歩いた。
今まで使っていなかった細い道。
駅前の空き地。
旧貨物ヤードの外側。そこで、ひよりが立ち止まった。
「千景ちゃん。見て、ここ!」
足元を指差す。
以前は雑草と泥で覆われていた場所。今は白い小さな花が咲いている。
「……花だ。いつから咲いてたんだろう」
「私も昨日まで気づかなかった。すごいね」
二人でしゃがみ込む。
花そのものが珍しいわけではない。
でも、この場所に以前より動植物が増えているように感じる。
「安定化ノード、ってやつの影響かな」
「分からない」
「でも、なんかいいね」
ひよりが花を見つめる。
「……うん」
千景も頷いた。
その時、遠くから、数匹の鳥が飛んでいった。
――白羽鳥。界塵に適応した鳥だ。大きな白い翼で空を羽ばたいている。
その鳥たちを見送って千景は考えた。
もし駅の中心に安全な場所ができてその周囲に少しずつ安定した土地が広がり、もっと先までその範囲が伸びていったら――。
いつか人はこの大地へ戻ってこられるのだろうか。
答えは分からない。
でも、何かが起きている。
確実に。
* * *
夕方。千景はYURIの端末に、今日の記録を保存していた。
――安定化領域の拡大。異常生物の減少。界塵濃度の低下。
一つずつ書き込む。
「これって……」
千景は画面を見つめる。
白百合駅を中心とした円。
今はまだ小さい。しかし、もしこれが駅を直すほど広がるものなのだとしたら話は変わってくる。
「この効果……」
千景は呟いた。
「外から見たら、どう見えるんだろう」
『質問の意味を理解できません』
「例えば――」
千景は地図を拡大する。
「遠くから見た時にそこだけ極端に異常が減っている場所があったら誰かが気づくんじゃない?」
『人間の行動様式に基づいて考えれば、その可能性は十分にあり得ます』
ひよりが後ろから画面を覗き込む。
「誰か気づいてくれるかな?」
千景は答えなかった。
代わりに画面の上の小さな円を見つめる。
白百合駅。
その中心にある、見えない力。
そして、その先に広がる世界。
「まだなんとも言えないけど……」
でも、もし誰かがこの変化を見つけたら、その人はここへ来るかもしれない。
そんな予感がした。
その夜、白百合駅の外灯は、静かに周囲を照らしていた。昨日までよりほんの少しだけ安全な場所を広げながら。




