第14駅 帰ってくるまで。
霧のような濃さの界塵を抜け、ようやく白百合駅にたどり着く。
駅前広場の橙色の明かりが見えた瞬間、ひよりはその場にへたり込んだ。
「つ、着いた……」
二重にした防塵マスクは、呼吸を極端に苦しくした。ひよりは、広場の冷たいアスファルトに座りながら肩で息をする。
駅の近くは界塵が少しだけ薄いようだった。だが、このまま倒れ込んでいてはどんな危険が降りかかるか分からない。ひよりは気力を振り絞って身を起こすと、駅舎の中へと駆け込んだ。
* * *
吹き荒れる風の音が、分厚い壁や窓ガラスをガタガタと揺らしている。
駅舎の中は、非常用電源による暖房が効いていて十分に温かかった。けれど、部屋の中を行ったり来たりしているひよりの指先は、氷のように冷え切っている。
「……遅い」
ひよりは食堂の窓から外を見た。
ひよりが駅にたどり着いてから、既に三時間が経過している。
いつでも千景が温まれるようにお湯を沸かし、簡単な食事も用意した。しかし、待てど暮らせど、千景は帰ってこない。
十分か二十分ほど遅れるだけだと言っていたのにあまりにも遅すぎる。
食堂の片隅で、YURI-OSのホログラムが淡々と無機質な報告を続けた。
『駅務管理者様との通信が途絶しています』
「……そうだね」
『最後に接続があったのは二時間三十七分前です』
YURIの声が妙に大きく聞こえた。
「二時間三十七分……」
ひよりは窓の外を見た。空が、少しずつ白くなっている。
「……嫌な感じ」
『警戒を推奨します』
「分かってるよ、ユリ」
ひよりは立ち上がった。
じっとしていると、不安になる。
だから、掃除をした。食堂を片付けた。畑を見に行った。水をやった。
それでも時間だけが過ぎていく。
千景は帰ってこない。
「……遅いよ。何してるの、千景ちゃん」
ひよりは駅前広場に出た。
外灯を見た。数日前に千景が直したものだ。
駅舎の入口。千景が修理した扉。食堂。風呂。畑。
どこを見ても千景との思い出がある。
だから、その本人だけがいないことが妙に寒々しく感じられた。
「……千景ちゃん」
小さくその名を呼ぶ。
返事はない。
『通信の再接続を試みます』
「お願い」
『試行中』
長い沈黙。
そして、虚しい返答。
『接続できません』
ひよりは唇を噛んだ。
その時。
「……嫌だ」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。
「千景ちゃんが帰ってこないの、嫌だ」
今までならただ同居人のことが心配なだけだと思っていた。
怪我をしていないか。道に迷っていないか。それだけだと思っていた。
でも、違う。
千景がいない駅は広すぎる。静かすぎる。
せっかく家みたいになったのに。
千景がいなければ、ここはまたただの廃駅に戻ってしまいそうだった。
「……早く帰ってきてよ」
ひよりは駅前に立ったまま呟いた。
* * *
日が沈み始めた頃だった。
白百合駅の北側。白い霧の向こうに小さな人影が見えた。
ひよりが顔を上げる。
「千景ちゃん!」
そこには、全身を真っ白な灰に塗れさせ、息も絶え絶えで荷車を引っ張る千景の姿があった。
ひよりは走った。
「し、死ぬかと思った……。でも、なんとか着いた……」
千景が顔を上げる。
無事に帰還できたことに安堵の息を吐きかけた千景の肩を、ひよりが猛烈な勢いで掴んだ。
「……ひ、ひよりちゃん?」
千景は目を丸くした。出迎えてくれたひよりの顔が見たこともないほど怒りで歪み、瞳の端は涙で滲んでいたからだ。
「……遅すぎる」
「ご、ごめん」
「何時間かかったと思ってるの?」
「ごめん。み、道に迷っちゃって……体力も限界だったから道端にあったコンテナの中で少し休んでて……。で、でも! ひよりちゃんが作ってくれたお弁当を食べたらまた歩けるようになってさ。なんとかここまで――」
「私は千景ちゃんを危険な目にあわせたくてお弁当を作ったわけじゃない!」
千景が驚いたように後ずさる。
「連絡だってなかったし!」
「そ、それは界塵のせいで通信が――」
「分かってる!」
ひよりの声が震えた。
「分かってるけど……!」
言葉が続かない。
千景は黙った。
ひよりの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「……ごめん」
千景はもう一度言った。
すると。
「……こんなことになるなら」
ひよりが俯く。
「一人でなんか帰らなきゃよかった」
「本当にごめん……」
「心配したんだからね」
千景は答えられなかった。
胸の奥が、ズキズキと痛む。
でも、駅の明かりが見えた瞬間、自分もほっとしていたのだ。
帰ってきたと思った。
白百合駅に。ひよりのいる場所に。
「……分かったよ、ひよりちゃん」
千景は小さく頷く。
「次は、ちゃんと一緒に帰る。……私も、帰ってきた時、ひよりちゃんが待っててくれて……すごく、ほっとしたから」
「今度こそ本当に約束だからね」
「うん」
ひよりがようやく顔を上げた。
「……おかえり」
千景は少し驚いて。
「ただいま」
と答えた。
「……お湯、沸いてるから。お風呂、入ってきて」
少しだけ拗ねたように言って、千景の手を握った。千景は彼女のその手の冷たさに驚く。
「も、もしかしてひよりちゃんもお風呂入ってないの……!? いいよ、ひよりちゃんが先に行ってきてよ!」
「ダメ。千景ちゃん、どれだけ長い間、外にいたと思ってるの」
「私はいいってば。ひよりちゃんが先!」
「……じゃあ、一緒に入る?」
潤んだ瞳で見つめてくるひより。千景は思わずどきりとする。
「……い、一緒に!?」
千景の声が裏返った。
「うん。一緒に」
ひよりは、先ほどまで怒っていたのが嘘のように、にこやかに笑う。
「だ、だって……お風呂、狭くない……?」
「二人くらい入れるよ。修理する時だって二人で中に入ったでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
「じゃあ、決まり!」
ひよりは千景の返事を待たず、その手を引いた。
「ち、ちょっと待って、荷車! 荷物の整理も!」
「それは後で! とりあえず安全なところに置いておけば大丈夫だから!」
「で、でも、今日拾ってきた部品を使えば設備の――」
「千景ちゃん」
ぴたりと足を止めたひよりが、振り返った。
「今は、千景ちゃんが先」
いつになく真剣な声だ。
「……ちゃんと温まって、ちゃんと休んで。それから、いっぱいお話ししよう?」
千景は目を瞬かせた。
ひよりの手は、さっきよりも少し温かくなっていた。それでも、指先にはまだ冷たさが残っている。
ずっと待っていてくれたのだ。
自分が帰ってくるまで。
「……うん」
千景は、握られた手をそっと握り返した。
「お風呂、行こう」
その言葉に、ひよりはようやく安心したように笑った。
* * *
浴室の扉を開けると、ふわりと温かな湯気が二人を迎えた。
廃駅の設備を再利用して作った浴室は、決して広くはない。壁のタイルには古いひび割れが残り、天井の照明も時折頼りなく明滅する。
それでも、隅々まで掃除され、使いやすいように手が加えられたこの場所は、今では二人のお気に入りの一つだった。
壁際には、千景が修理した給湯器が静かな音を立てている。
「ふふ。ちゃんと動いてるね」
ひよりが嬉しそうに給湯器を見上げた。
「……うん。昨日もメンテナンスしたから」
「千景ちゃんって、本当に何でも直しちゃうよね」
「そ、そんなことないよ。壊れてるところが分かれば、直せるものもあるってだけで……」
「でも、私には難しいもん!」
ひよりは悪びれもせず笑った。
「だから、すごいんだよ」
「……っ」
千景は俯いた。
褒められるのは苦手だ。どう返せばいいのか分からなくなってしまうし、内心では嬉しいと思っていることまで見透かされてしまいそうで落ち着かない。
けれど、ひよりはそんな千景の様子を見て、くすくすと笑うだけだった。
「ほら、早く温まろう?」
「う、うん……」
二人は湯船に入る前に、身体を洗い、冷えた身体を少しずつ温めた。
千景は湯加減を確かめながら、そっと湯船に足を入れる。
「……あったかい」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
長い道のりで冷え切った身体に、温かな湯がじんわりと染み込んでいく。張り詰めていた肩から、少しずつ力が抜けていった。
浴槽は、二人で入るには少し狭かった。
千景は、肋骨が浮き出た痩せた身体を自信がなさそうに縮こまらせ、隅の方で膝を抱える。
すると、先に湯船に浸かっていたひよりがそのすぐそばに身体を寄せてきた。そして、少し息を吐くと、千景の腰に優しく腕を回した。
「そんなに端っこに行かなくてもいいよ、千景ちゃん」
「あっ……えっ……!?」
お湯の中で、二人の肌が直に触れ合う。
ひよりの健康的な太ももの柔らかさや、豊かな身体の丸みが、千景の肌へ直に伝わってくる。密着した部位から、ひよりの体温がお湯を伝って流れ込んでくるようだった。千景の顔はもう湯気のせいだけではなく真っ赤になっていた。
ひよりが申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「千景ちゃんがすぐに温まれるようにと思ってずっとお湯を用意してたから電気を無駄に使っちゃったかも。……ごめんね」
「……全然いいよ。ありがとう」
「えへへ。どういたしまして」
千景はひよりの方に軽く背中を預け、ゆっくりと息を吐いた。
温かい。そして、静かだった。
壁の向こうからは、風が駅舎を揺らす音が聞こえてくる。けれど、この浴室の中だけは別世界のようだった。
どこまでも続く白い荒野も、視界を覆う界塵も、帰り道に何度も見失いかけた頼りない足跡も、今は遠い。
すぐ隣には、ひよりがいる。それだけで、こんなにも安心できる。
「……千景ちゃん」
不意に名前を呼ばれ、千景は顔を向けた。
「なに?」
「もう、無茶しないでね」
ひよりの声は穏やかだった。
さっきのように怒ってはいない。けれど、いつもの明るさの奥に、まだ不安の影が残っている。
「……うん」
「帰ってこないかと思った」
千景の胸が、小さく痛んだ。
「ごめんね……」
「ううん。謝ってほしいんじゃないの」
ひよりは湯面を見つめた。
「ただね。私、今日、すごく怖かったんだ」
千景は黙って彼女の言葉を聞いた。
「何をしてても、千景ちゃんのことばっかり考えちゃって。ご飯を作っても、掃除してても、外を見ても、千景ちゃんがいないんだもん」
ひよりは困ったように笑った。
「この駅って、こんなに広かったんだなあって思っちゃった」
「……ひよりちゃん」
「千景ちゃんが帰ってきたら、絶対に怒ろうって決めてたのにね。顔を見たら、怒るより先に泣きそうになっちゃった」
「……ごめん」
「だから、謝るんじゃなくて」
ひよりが千景を見た。
「次からは、ちゃんと一緒に帰ろうね」
その言葉に、千景は小さく頷いた。
「うん。約束する」
「あと、危なそうな時は無理しないこと! 困ったら引き返すこと! それから――」
「ひ、ひよりちゃん。そんなにいっぱい言われても覚えきれないよ……」
「あっ、そっか!」
ひよりは一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「じゃあ、一つだけ!」
人差し指を立てて、千景の顔を覗き込む。
「何があっても絶対に帰ってくること!」
千景は、その言葉を胸の中で繰り返した。
――何があっても絶対に帰ってくること。
帰る場所がある。
帰りを待ってくれる人がいる。
それは、荒廃した世界でずっと一人きりで生きてきた千景にとって、何より心強い言葉だった。
「……うん」
千景はいつもより少しだけ、はっきりと答えた。
「絶対に帰ってくるよ。何があっても、必ずひよりちゃんのところに」
ひよりはしばらく千景を見つめていた。
やがて、頬をほんのり赤くして、ふいっと顔を逸らす。
「……そ、そういうこと、さらっと言うのずるいよ」
「えっ? えっ、私、何か変なこと言った……!?」
「言った!」
「ご、ごめん……!」
「謝らなくていいの!」
ひよりは慌てて言い返したあと、恥ずかしそうに口元を押さえた。
そんな彼女を見て、千景は首を傾げる。
相変わらず、他人の考えを察するのは苦手だ。ひよりの考えていることもよく分からない。
けれど彼女が笑ってくれているなら、それでいいと思った。
* * *
しばらくすると、ひよりが湯船の縁に頬を乗せたまま、ぽつりと言った。
「ねえ、千景ちゃん」
「……うん?」
「今日は、もうどこにも行かない?」
「行かないよ。荷物の整理は明日でいいし、部品の確認も明日……いや、明後日でも」
「明日でいいよ!」
「そ、そうだね……」
ひよりは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日はずっと一緒にいようね」
千景は、こくりと頷く。
「……うん。一緒にいる」
それから二人は、この数時間の出来事をぽつぽつと話した。
ひよりが待っている間に畑の様子を見に行ったこと。荷物の整理をしていたらずっと前に買い込んだ缶詰が奥から出てきたこと。千景が道中で見つけた古い案内標識のこと。そして、荷車に積んで帰ってきた部品の中に、畑で使えそうな道具があったこと。
話しているうちに、千景の声にも少しずつ元気が戻ってきた。
「それでね、そのコンテナの中に、農具みたいなのが置いてあって……」
「何それ!? すっごく気になる!」
「う、うん。ちょっと汚れてたけど、まだ使えそうだったから、持って帰ってきたの」
「見たい! あとで見せて!」
「うん。明日、一緒に見てみよう」
明日。その言葉が、ごく自然に口から出た。
明日もここにいる。
ひよりと一緒に、白百合駅で朝を迎える。
それが当たり前のことになったのが、千景は少し不思議で、少し嬉しかった。
「……千景ちゃん?」
「な、なに?」
「今、笑ってた」
「えっ」
慌てて口元に手を当てる。確かに、頬が緩んでいた。
「わ、笑ってないよ……」
「笑ってたよー!」
「き、気のせいだってば……!」
ひよりは楽しそうに笑い、千景はますます顔を伏せた。けれど、今度は隠しきれなかった。
千景の口元には、小さな笑みが残っていた。
浴室の窓の向こうでは、相変わらず風が吹き荒れている。
世界はまだ、簡単には優しくなってくれない。
明日になれば、また修理しなければならない設備が見つかるだろうし、食料の残りを確かめる必要もある。二人で外に出るなら、界塵への備えも欠かせない。
それでも帰ってくれば、こんなに温かい場所がある。
帰ってくれば、明るい声で迎えてくれる人がいる。
そして、これからはきっと、帰り道も一緒だ。
「……ひよりちゃん」
「んー?」
「待っててくれて、ありがとう」
ひよりは目を丸くした。
それから、いつものように、太陽みたいな笑顔を浮かべた。
「どういたしまして!」
少しだけ間を置いて、彼女は付け加える。
「でも、次は待たせないでね?」
「……うん」
「約束!」
「……約束する」
二人は小指を絡めるようにして、そっと約束を交わした。
湯気の向こうで、ひよりが笑う。
千景も、今度は隠さずに笑った。
白百合駅の小さな浴室には、久しぶりに二人分の楽しげな声が響いていた。




