第11駅 記念日を祝おう。
朝。千景は、駅舎の入口に立っていた。
白百合駅の空気は、少しだけ変わっていた。
電気がある。水が出る。壊れていた浴室には、お湯が出るようになった。食堂には、机と椅子がある。旧貨物ヤードには、小さな畑。そして、旧駅長室には自分のベッドがある。
「うーん……」
千景は、なんとなく駅舎の中を見回した。
少し前までここはただの廃駅だった。屋根が壊れて。窓が割れて。水も電気もなくて。そして、誰も住んでいなかった。
それなのに今は――。
「おはよう、千景ちゃん!」
食堂から、ひよりの声がする。
「おはよう」
ひよりが朝食の準備をしている。
鍋から湯気が上がる。テーブルには二人分の食器。
その光景が、もう白百合駅の日常になり始めていた。
「今日は何を作ってるの?」
「野菜はまだ収穫できないから、保存食のスープ」
「……畑、まだ芽も出てないもんね」
「それはそうだよ」
ひよりが笑う。
「でも、毎日見てると楽しいよ」
「毎日見てるの?」
「うん」
「まだ何も出てないのに?」
「育つまでを見守るのも畑だから」
「……そういうものなんだ」
「そういうもの!」
千景は椅子に座った。昨日と同じ場所。いつもの席。気づけば、それが当たり前になっていた。
「いただきます」
「い、いただきます」
二人で朝食を食べる。
窓の外から、風の音。少し離れたところでは、鳥の鳴き声。
駅舎の壁を、朝の光が照らしている。
以前ならこんな時間は、一人きりで過ごしていた。それに、とても静かだった。
今は、少し賑やかになってしまったけれど、一人ではない。
「千景ちゃん。この駅に住み始めてから、今日でちょうど一週間くらい?」
「……たぶん、それくらいかな」
ひよりは少し考えてから言う。
「すごいね」
「何が?」
「一週間で、こんなに変わったよ」
千景は周囲を見る。
確かに、ひよりの言う通りだ。
最初の日、ここには明かりしかなかった。
それが、水ができた。寝る場所ができた。風呂ができた。食堂ができた。畑ができた。駅前も少しずつ片付いた。
「……そうだね。まだ、足りないものばかりだけど。でも」
千景は少しだけ間を置いた。
「暮らせるようにはなった」
「だよね」
ひよりは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、お祝いしよう!」
「何を?」
「居住開始記念!」
「そんな記念日、ある?」
「今日、作るの!」
「……ひよりちゃんらしいな」
その時、YURIの声が食堂に響いた。
『駅務管理者様へのご報告があります!』
「また急だなぁ」
『生活関連設備の稼働状況を確認しました。こちらをご覧ください!』
端末の画面に一斉に項目が表示される。
《電力――稼働》
《給水――稼働》
《居住区画――稼働》
《衛生設備――稼働》
《調理設備――稼働》
《農業区画――稼働》
《安全設備――暫定稼働》
千景は黙ってそれを眺めていた。
項目が最後まで表示されるとYURIが言う。
『総合判定を実行します!』
「そ、総合判定って何……!?」
「なんか分かんないけど、評価みたいなことかな。楽しそう!」
軽快なドラムロールが鳴る。
『第一段階・居住――達成です!』
異様に陽気なファンファーレが鳴り響いた。
千景が目を瞬かせる。ひよりも目を丸くした。
『おめでとうございます。白百合駅は、最低限の居住環境を満たしました。次段階への移行を提案します!』
端末の画面に新しい文字列が表示される。
《第二段階――生活》
食堂が急に静かになった。
千景は、思わず駅の外を見る。
昨日まで自分はここを廃駅と呼んでいた。でも、もうそんな呼び方はできないらしい。
「……廃駅じゃない」
ひよりが小さくそう言った。千景も頷く。
「うん」
「まだ壊れてるところいっぱいあるけど」
「うん」
「でも、ここで暮らせる」
「……うん」
ひよりは、少し照れたように笑って言った。
「じゃあ、ここは私たちの家だね」
千景は黙った。
胸の奥に、何かが引っかかる。
否定しようと思った。
これは駅だ。あくまでも廃駅を修理しているだけ。家なんかじゃない。
そんなことを言おうとして。でも、言葉が出なかった。
代わりに小さく呟いた。
「……そうかも」
ひよりが笑う。
「うん。それじゃあ、やっぱり今日は居住開始記念日だよ!」
ひよりが来てから一週間。長いようで短い時間だった。楽しいことも苦労したこともあった。
けれど、ひよりのこの満開の笑顔を見ていると頑張って駅を直した甲斐があったなと、そう思えた。
* * *
昼過ぎ。千景は一人で駅前を見回っていた。
外灯。入口の鍵。簡易柵。駅舎の屋根。畑。
昨日までなら、全てただの設備に過ぎなかった。
今は違う。
これが壊れたら、困る。これが止まったら、生活できない。
そんな風に考えるようになっている。
「……不思議なもんだなぁ」
千景は駅前広場のベンチに座った。
少し離れたところから、ひよりの声がする。
「千景ちゃーん!」
「なに?」
「こっち来て!」
「今、行くよ」
自然に返事をして千景は立ち上がった。それから一瞬だけ足を止める。
今までならば誰かに呼ばれて、自分からそちらへ行くなんてことはほとんどなかった。ずっと一人きりだったのだから。
でも、今は、これが自然だった。
白百合駅は一人で閉じこもる場所ではなくなり始めていた。
「不思議なもんだ」
もう一度そう呟き、千景はひよりのもとへと向かった。
* * *
夜。千景とひよりは、食堂で夕食を食べていた。
特別なものではない。保存食を使ったスープとパン。
それでも、ひよりは満足そうだった。
「改めまして居住開始記念日、おめでとう!」
「お、おめでとう」
「いえーい!」
そう言ってひよりは拍手をした。千景も真似るように小さく拍手をする。
「特別なことはしなかったけど、なんかちゃんとした一日だったね」
「そう?」
「うん」
ひよりが窓の外を見る。
「朝ご飯を食べて」
指を折る。
「畑を見て」
もう一つ。
「駅前を掃除して」
さらに一つ。
「お風呂に入って」
「……うん」
「またご飯を食べて」
「普通だね」
「それがいいの」
ひよりは笑った。
「せっかくの記念日だから何かしてもよかったんだけどね。……でも、こういう普通の一日が、私は好きだな」
千景は、その言葉を聞いて少しだけ考える。
――普通。
そんなものが、この世界ではずっと遠い存在だった。
でも、今はここにある。
小さくて不完全で壊れたところだらけだけど、普通の一日がある。
「……私も」
千景が呟いた。
「ん?」
「……こういうの、悪くないと思う」
ひよりが笑った。
「でしょ?」
その時、YURIが静かに告げた。
『外部に未確認の移動反応を検知しました』
千景の表情が変わった。
「どこ?」
『駅北東方向です』
「距離は?」
『約二百メートルです』
ひよりも立ち上がる。
「また異常生物かな?」
「分からない」
二人で窓の外を見る。
夜の闇。外灯の光が届かない先。
目を凝らしてもしばらくは何も見えない。
けれど――。
遠く。本当に遠くで。何かが動いた。
「……見えた?」
ひよりが聞く。
「うん」
千景は目を細めた。
人――のように見えた。
細い影。二本の足で立っている。
しばらく、その場でこちらを――白百合駅を見ていた。そして、闇の中へ消えた。
「……誰だろう」
ひよりの声が少しだけ低くなる。
「分からない」
千景は窓の外を見つめた。
今まで、この駅を見つける人はいなかった。
ひよりだってたまたま近くを通りがかったから気づけただけだろう。
でも、もうあの時とは状況が違う。
明かりがある。煙突から湯気が上がる。駅前に人の歩いた跡がある。畑がある。人が暮らしている。
だから、いとも容易く誰かに見つけられる。
千景は静かに息を吐いた。
白百合駅は、もう誰にも見つからない廃駅ではなかった。
そして、それが少しだけ怖かった。




