第10駅 夜の駅は、ちょっと怖い。
千景は食堂の明かりを少し落とした。
窓の外を見る。暗い。
駅前広場。片付けたばかりの道。その先に広がる闇。
何も見えない。けれど、確かに何かがいる気配がした。
『外部からの微弱な移動反応を検知しました』
YURIの声が響く。
「……やっぱり風じゃないか」
『現在、対象の特定には至りません』
ひよりが千景の隣に立つ。
「誰かいるのかな」
千景は少し驚いた顔をしてひよりを見る。彼女の肩は小さく震えていた。
「ひよりちゃん、隠れていてって言ったのに」
「そういうわけにいかないよ。私だけ隠れてるなんて」
「もう……」
二人は黙って外を見た。
白百合駅の照明は、駅舎の周囲にいくつかあるだけだ。その先は、ほとんど闇だった。
「……何も見えないね」
ひよりが隣に立ったまま言う。
「本当にいるのかな」
「分からない」
『先ほど検知した移動反応を再確認します』
YURIの声がした。
「どこで動いてる?」
『駅舎北側、約四十五メートル地点です』
千景は窓越しに目を凝らした。
――いた。
何かが動いた。大きさはハッキリとは分からない。
黒い影が、ゆっくりと駅前を横切る。
「……っ」
ひよりが息を呑む。
「千景ちゃん」
「うん」
「あれ……人かな?」
「たぶん違う」
影が止まった。頭を上げる。
月明かりが一瞬だけ、その輪郭を照らした。
四つ足で歩いてはいるが、大型犬より一回り大きく、全身が界塵に塗れたように濁った灰色をしている。そして何より、その顔の半分が、異常に発達した無骨な骨のプレートで覆われていた。
「灰犬……」
千景は小さく呟いた。
異常生物。大崩落の後に現れた、界塵に適応して変異した生物たち。灰犬は、その一種だ。
肉食で、非常に凶暴。群れで行動することが多く、まともに相対すれば千景のような一般人では到底太刀打ちできない。幸いにも今は一匹だけらしい。
灰犬はこちらを見ている。
「……こっちに来るかな」
ひよりが聞く。
「分からない」
「追い払う?」
「いや」
千景はすぐに答えた。
「下手に近づかない方がいいと思う」
「でも……」
「今の駅には、戦えるものがほとんどない」
千景は外を見つめる。
自分に戦闘能力がないことは理解していた。手元に工具はある。けれど、それは武器ではない。
「千景ちゃん。じゃあ、どうするの?」
「……照明を使おう」
千景は考えた。灰犬は夜行性で明るい場所を避けると聞いた覚えがある。だが、この駅の周囲には、まだ灯りのない場所が多すぎた。
「ユリ」
『お呼びですか、駅務管理者様』
「駅前の外灯、使える?」
『複数の故障箇所があります』
「修復できる?」
『完全に修復することはできませんが、一部だけでしたら可能です』
「それでいい。やって」
『承知しました』
駅前の古い外灯が、一つ。また一つ。順番に明かりが点いていく。
暗かった広場が、少しだけ明るくなった。
灰犬の姿が浮かび上がる。
向こうもこちらを見ている。でも、近づいてはこない。
しばらくすると、ゆっくりと駅から離れていった。
ひよりが、ほっと息を吐く。
「……行った」
「うん」
「よかった」
千景も肩の力を抜いた。
それから自分の手が、少し震えていることに気づいた。
怖かった。
少し前まで、この駅には誰もいなかった。
だから、何かが来ても自分が逃げればいい。それだけだった。
でも、今はそういうわけにはいかない。
「千景ちゃん?」
ひよりが覗き込む。
「……何でもない」
「怖かった?」
「……少しね」
千景は正直に答えた。すると、ひよりはどこか安心したような顔をした。
「よかった」
「何が?」
「千景ちゃんも怖いんだなって」
「……私も普通の人だから」
「知ってるよ」
ひよりは笑った。
「でも、千景ちゃんってこういう時に無理しそうだから」
千景は返事をしなかった。
ひよりはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「さっき、一人で外に出ようとしたよね」
「確認するだけのつもりだった」
「それでも危ないよ」
「分かってる」
「分かってない」
思ったより強い声だった。
千景が振り返ると、ひよりは少し不安そうな顔をしていた。
「もし何かあったら……私、ここで待ってるしかないじゃん」
「……うん」
「それ、嫌だよ」
千景は言葉が出なかった。
ひよりは怒っているわけではない。ただ本気で心配しているのだ。千景にもそれが伝わってきた。
「ごめん」
千景が言う。
「……うん」
「次から気をつける」
「約束してくれる?」
「うん。約束する」
ひよりはようやく笑った。
「じゃあ、私も約束するね!」
「な、何を……?」
「私も危ないことがあったら、一人では行かない」
「それは最初から行かせるつもりない。ひよりちゃんには危ないことなんて絶対にさせないから」
きっぱりとした口調で言い切る千景。ひよりの頬が微かに赤く染まった。
「……千景ちゃんって意外と独占欲、強い?」
「そ、そんなことないと思うけどなぁ」
その返事をしてから千景は駅の外を見た。
さっき灰犬がいた場所。
外灯。壊れた柵。低い壁。開きっぱなしの入口。
今までならばそこまで気にしなかった。
自分一人なら多少危険でも、気をつければいい。
でも、今はそういうわけにはいかない。この駅を家だと言ってくれる人がいるのだ。
千景は考えた。
鍵。外灯。柵。警報。できることはいくらでもある。
「ユリ」
『なんでしょう、駅務管理者様』
「駅の出入口、全部調べて」
『了解しました』
「鍵が壊れてるところは?」
『三箇所あります』
「直せる?」
『可能です』
「明日やる」
『承知しました』
駅員姿をした少女のホログラムを見つめながら少し考える。
「……次。照明もチェックして」
『現在、全体の三十二パーセントが稼働しています』
「もっと増やせる?」
『電力消費を考慮すれば、段階的な増設を推奨します』
「じゃあ、それもやる」
ひよりが隣で聞いていた。
「千景ちゃん、急にいっぱい直し始めたね」
「……うん」
「どうしたの?」
千景は少し考えてから答えた。
「この駅、もう少し安全にしないと」
ひよりは一瞬だけ目を丸くする。
「……うん。そうしよう」
そう言って微笑んだ。
* * *
翌朝。千景は駅の出入口を一つずつ確認した。
壊れた鍵を外す。古い金具を交換する。
扉がきちんと閉まることを確認する。
外灯の配線を調べる。
そして、駅前へ続く道に、簡易的な照明を追加する。
結局一日がかりの作業になり、全て終わった頃には夜もかなり深くなっていた。
ひよりは先に部屋へ戻らせた。
千景は最後に駅舎の入口を確認する。
カチャン、と小気味の良い音がした。今度は、ちゃんと鍵がかかった。
「……よし」
たったそれだけのことだった。でも、少し安心する。
千景は駅舎の中へ戻った。
そして、廊下の先を見る。
数日前までならここには何もなかった。
でも、今はひよりがいる。
朝食を食べる食堂がある。風呂がある。畑もある。帰ってくる部屋もある。
千景は、そっと呟いた。
「……これなら、少しは安心して眠ってもらえるかな」
誰に向けた言葉なのかは、自分でもよく分からなかった。
ただ、白百合駅はもう誰も来ないから安全という場所ではなくなりつつあった。
だからこそ千景は思う。
誰かがいるなら、守ってあげられる場所にしたい。
その夜、白百合駅の外灯が、昨日より少しだけ多く灯った。




