今日のこの家の主は【ベルトラム視点】
木曜の銀の盆は、玄関の広間の小卓に、二時の鐘の前に出しておくものでございます。
お客様が名刺をお置きになる盆です。旦那様が先代からお継ぎになった古いもので、縁の模様がところどころすり減っております。毎週木曜の朝、私はこれを磨きます。この秋からは、名刺の載らない木曜が増えましたが、磨くのはやめておりません。
十二月の三度目の木曜の朝も、私は盆を磨いておりました。
◇
居間の扉は、開いておりました。
奥様は、机の前に立って、お嬢様方の予定表を見下ろしておいででした。今週の木曜の欄には、奥様ご自身の字で、在宅、と書いてございます。
その横には、王家の封蝋の手紙が置いてありました。
「……王女殿下のお招きですもの」
奥様は、どなたにともなく、そうおっしゃいました。それから、予定表の上の在宅の字を、指でそっと押さえて、すぐに離されました。
「マルグリート。支度をなさい。灰青ではなく、若草色のほうを」
「わたくしは、行かないわ」
長椅子のマルグリートお嬢様が、竪琴の弦から目を上げずにお答えになりました。
「あの子の茶会に、あの子の姉として行くのは、嫌」
「何を言っているの。王女殿下の」
「リーケ嬢、ならびにご家族の皆様。わたくしは、ご家族の皆様、のほうよ。お母様は行けばいいわ」
奥様は、しばらく黙っておいででした。
「……では、あなたは留守番ね」
そうおっしゃってから、奥様は、ご自分の口から出た言葉を聞いた方のお顔をなさいました。
その言葉を、私はこの家で、何年も聞いてまいりました。いつも、リーケお嬢様に向けて。
奥様は、それきり何もおっしゃらずに、支度のために階段を上がっていかれました。
◇
リーケお嬢様が九つの夏のことを、私はよく覚えております。
はしかで寝ておいでのあいだに、ご家族は海辺の保養地へお発ちになりました。屋敷に残ったのは、私と家政婦長のヘッダと、熱の下がらないお嬢様でございました。
熱の下がった朝、お嬢様は寝間着のまま、玄関の広間に下りていらして、閉まった扉をご覧になっておいででした。
お泣きになりそうなお顔でしたので、私は申し上げました。お嬢様。留守番は、家をお預かりすることでございます。今日のこの家の主は、お嬢様です、と。
お嬢様は、しばらく考えておいででした。それから、小さな声で、では、来た方は私がお迎えします、とおっしゃいました。
それから、お嬢様が留守番を嫌だとおっしゃったことは、一度もございません。
◇
昼過ぎに、旦那様と奥様の馬車が門を出ていかれました。
私は居間の戸口に立って、申し上げました。
「マルグリートお嬢様。本日、この家の主は、お嬢様でございます」
お嬢様は、眉をひそめて私をご覧になりました。
「わたくしは、留守番なんて、したことがないわ」
「左様でございます」
「誰も来ないわよ。皆、あちらへ行くもの」
「左様かもしれません」
お嬢様は、ふいと竪琴のほうへ向き直られました。けれど、居間を出ていこうとはなさいませんでした。
二時の鐘が鳴りました。
鐘が鳴り終わって、ほどなく、呼び鈴が鳴りました。
◇
扉を開けますと、向かいのドルン男爵様が、杖をついて立っておいででした。足元で、ボッケが尻尾を振っております。
「やあ、ベルトラム。今日はあちらは、宮廷のご婦人方でいっぱいと聞きましてな。年寄りには椅子が回ってきますまい。昔の小客間で、一杯いただけますかな」
私は、居間のほうを振り返りました。
居間の戸口に、マルグリートお嬢様のお姿がございました。
「……男爵様。ようこそ、おいでくださいました」
ぎこちない、けれど正しいお言葉でございました。
居間へお通しすると、お嬢様は、ネルにお茶を頼もうとして、言葉に詰まられました。男爵様がお茶に何をお入れになるのか、ご存じなかったのです。
お嬢様の目が、机の端に落ちました。奥様がいつもそこに置いておいでの、折り目の柔らかくなった紙でございます。お嬢様はそれを手に取り、開いて、読まれました。
「ネル。濃いめのお茶を。それから、焼き菓子の端を、少し」
ボッケが、焼き菓子の端をいただいて、お嬢様の足元に座りました。
◇
男爵様は、お茶を一口召し上がってから、居間の隅の竪琴にお目を留められました。
「おお。これが、上のお嬢さんの」
「……ええ」
「下のお嬢さんが、よく言っておりましたよ。上のお嬢さんの竪琴は、家で聞くのがいちばんだと」
竪琴の弦に触れかけていたお嬢様の指が、止まりました。
「音楽堂では、咳が出るといけないから、と。いつも、図書室の窓辺で聞いておりましたそうで」
お嬢様は、黙っておいででした。
しばらくして、男爵様が、一曲お願いできますかな、とおっしゃいました。お嬢様は、黙って竪琴の前にお座りになりました。
お聞きになっているのは、男爵様と、ボッケと、戸口の私だけでございました。
男爵様は、最後の音が消えるまで、一言もお話しになりませんでした。それから、杖を膝に立てかけて、ゆっくりと手を叩かれました。
お嬢様は、竪琴の枠に手を添えたまま、お顔を上げられませんでした。
◇
四時の鐘が鳴りました。
お嬢様は、膝の上の紙に目を落とされました。そこには、リーケお嬢様の字で、四時の鐘が鳴ったら、お帰りの時刻を申し上げること、と書いてございます。
「……男爵様。お帰りの、時刻で、ございます」
男爵様は、声を立ててお笑いになりました。
「いやいや。上のお嬢さんにまで言われるとは」
男爵様は、名刺を一枚、銀の盆にお置きになってお帰りになりました。この秋に入ってから、木曜の盆に名刺が載ったのは、久しぶりのことでございました。
◇
日が暮れて、旦那様と奥様がお戻りになりました。
私は扉を開けて、いつものように申し上げました。
「おかえりなさいませ」
すると、私の隣で、小さな声がいたしました。
「……おかえりなさいませ」
振り向きますと、マルグリートお嬢様が玄関の広間に立っておいででした。いつの間に居間から出ていらしたのか、私は気づきませんでした。
奥様が、外套を脱ぎかけたまま、立ち止まられました。
◇
リーケお嬢様がお戻りになったのは、それからずいぶん遅くでございました。公爵家の戸締まりを、ご自分でなさってからお帰りになるのです。
「おかえりなさいませ、リーケお嬢様」
「ただいま、ベルトラム」
外套をお預かりしながら、私は申し上げました。
「本日、マルグリートお嬢様が、男爵様をお迎えになりました」
リーケお嬢様は、手袋を外す手を止めて、居間のほうをご覧になりました。
それから、そうですか、とだけおっしゃって、居間の戸口のほうへ歩いていかれました。開いた扉の向こうで、竪琴の弦を緩める音がしておりました。




