リーケ嬢のお母様
十二月の三度目の木曜、公爵家の客間の椅子は、二時の鐘が鳴り終わる前に足りなくなった。
いつもの木曜のお客様に、王女殿下の茶会に招かれていたはずの方々が加わったからだ。宮廷の夫人たち。王宮で殿下のお側に上がっている令嬢たち。皆様、殿下のお知らせのとおり、まっすぐ公爵家へいらした。
「マウリッツ。広間の椅子を、こちらへ」
「かしこまりました。……布を外しておいて、ようございました」
マウリッツは、秋に布を外したばかりの大広間から、椅子を一脚ずつ運ばせた。
私は玄関で、お一人ずつお迎えした。初めての方には、お椅子とお茶のお好みを伺った。窓から遠いほうを、と言う方。暖炉のそばを、と言う方。殿下と同じものを、と言う方には、蜂蜜を少し。
いつもの顔ぶれの中で、男爵様のお姿だけが見えなかった。暖炉の前の敷物が、ボッケのいないまま空いていた。宮廷の方々で混むと聞いて、今日はご遠慮なさったのかもしれない。
隅の椅子で、ヘッダが繕い物をしながら、私の言うお好みを小声で繰り返していた。覚えるのを、手伝ってくれているらしかった。
◇
王女殿下は、今日は護衛を一人だけ連れて、半を過ぎたころにいらした。ハウトマン夫人も、後ろに控えていた。
「ようこそおいでくださいました、殿下」
「お邪魔するわ。わたくしの茶会ごと、ね」
殿下は、閣下の隣の、日の当たる椅子にまっすぐ歩いていった。冬の最初の木曜に座った、あの椅子だった。お茶は、聞かずに蜂蜜を少し入れてお出しした。殿下は、一口飲んで、私を見て笑った。
ほどなく、玄関の広間で、マウリッツの声がした。
「ローゼンダール伯爵ご夫妻が、お見えでございます」
私は、玄関へ出た。
父と母が、そこに立っていた。父は一番上等の上着を着て、母は淡い紫のドレスに、真珠を一連だけ首にかけていた。姉の姿は、なかった。
在宅日のお客様として、この家の玄関で両親を迎えるのは、初めてだった。ローゼンダール家の玄関でも、私はいつも、両親を見送る側で、迎えるのは夜遅くに帰ってきたときだけだった。
私は、ほかのお客様にするのと同じように、お二人の前で膝を折った。
「ようこそおいでくださいました。お父様、お母様」
母は、外套の留め金に手をかけたところで、動きを止めた。
唇が、何かを言いかけた形で止まっていた。父が先に、「うむ、うむ」と言って、マウリッツに帽子を渡した。
◇
客間に入ると、殿下が、すぐに母に気づいた。
「あなたが、リーケ嬢のお母様ね」
母の背中が、こわばった。
母はずっと、どこへ行っても、マルグリートの母と呼ばれてきた。王都一の才媛のお母様、と。下の娘の名で呼ばれたためしは、たぶん、なかった。
「……はい、殿下。お招きに、あずかりまして」
「来てくださって嬉しいわ。上のお嬢様は?」
母は、少しだけ間を置いた。
「……家に。留守番を、しております」
殿下は、ほんの一瞬だけ私のほうを見た。それから、何も聞き返さずに、母に隣の椅子を勧めた。
周りの夫人たちが、殿下にならって、母に挨拶をし始めた。リーケ嬢のお母様、お初にお目にかかります。リーケ嬢のお母様、この冬はお寒うございますわね。母は一人ずつに会釈を返しながら、膝の上で手袋を握りしめていた。
私は、母にお茶をお出しした。ミルクを、先に。
母は、カップを受け取った。けれど、すぐには口をつけなかった。白く濁ったお茶の面を、じっと見ていた。
◇
殿下が、カップを置いた。
「コルネリス」
客間じゅうに聞こえる声だった。窓際の椅子の閣下が、顔を上げた。
「賭けは、わたくしの負けね」
客間が、少し静かになった。
殿下は、私のほうに向き直った。
「あなたに、謝らなければならないことがあるの。五月の最初の木曜、わたくし、急に茶会を開いて、あなたのお姉様をお招きしたわ。あの日、あなたのお父様は、この人と会う約束をしていたのですって」
殿下は、責める声ではなかった。ご自分の失敗を話す声だった。
「お父様は、この人との約束より、わたくしの茶会を選んだの。それを知って、娘のあなたはどうするか、見てみたくなったのよ。だから、わざと木曜に茶会を置いたの」
客間は、もうすっかり静まっていた。
父が、椅子の上で身じろぎした。それから、明るい声で笑ってみせた。
「いや、殿下。あれは、殿下のお招きでございましたから。お断りするなど、とても」
誰も、笑わなかった。
南の生まれの若い夫人は、カップに目を落としていた。子爵夫人の扇が、途中で止まっていた。
「ええ。だから、わたくしのせいね」
殿下は、父にではなく、私に向かってそう言った。
「ごめんなさい。あなたは、あの日も家にいたのに」
私は、少し考えた。
「殿下は、何もご存じありませんでしたから」
それだけ申し上げた。ほかに申し上げることは、なかった。
殿下は、私の顔をじっと見て、それから、ふっと笑った。
「あなたも、この人と同じね。言うことがないと、本当に言わないのね」
窓際の閣下が、カップを手の中で回していた。
◇
四時の鐘が鳴った。
「皆様、お帰りの時刻でございます」
殿下は、今日は私が言い終わる前に、もう立ち上がっていた。宮廷の夫人たちも、殿下にならって立ち上がった。
「お父様も、お母様も。お帰りの時刻でございます」
父は、何か言いたそうな顔で帽子を受け取った。母は、黙って頷いた。
玄関の広間で、閣下が殿下を呼び止めた。
「頼みを、一つ聞くと言ったな」
「言ったわ。でも、今日はやめておくわ。次の木曜に聞かせて。……あなたの頼みは、怖いから。聞く覚悟をする時間をちょうだい」
殿下は笑って、馬車へ向かった。
◇
両親の馬車が玄関の前に回ってきた。
父が先に乗り込んだ。母は段に片足を載せて、こちらを向いた。外套の襟に顔を半分うずめて、私を見た。
「リーケ」
「はい、お母様」
「マルグリートが、一人で家にいるの」
母は、それだけ言った。何を伝えたかったのか、母自身にも分かっていないようだった。
馬車の扉が閉まった。
私は、玄関の明かりの下で、走り去る馬車を見送った。
(お姉様が、留守番)
ローゼンダール家の、木曜の午後。あの家に、今日は、家の者がお姉様一人しかいない。
呼び鈴は、鳴ったのだろうか。




