だめでしょうか
その文字列の意味を、俺は一瞬理解できなかった。
コアタイム。それはいい。
重要なのはそこじゃない。
コアタイム内の移動は認めない。
……何だこれは。
意味が分からない。
ルール、なのか?
いや、そんなルール聞いた事がない。
もしかして見落としていたのかと思い、フレックスタイム制の規定を確認する。
随分と長いマニュアルだったが、上から下まで念入りに。
……やはり、ない。
何で急にそんな事を言い出した?
いや――
そこまで考えて、嫌な思考に辿り着く。
――どうなってもいいと思われているのは、俺か?
何だ。俺は何かやらかしたのか。
考えてはみるものの、これといった心当たりはない。
じゃあ何だ?
何で突然。
俺は、こんな事を言われないといけないんだ?
出口が見つからない思考のループに陥る俺の耳に、ポーンと軽い音が舞い込んで来る。
チャットの通知音。
移動申請窓ではない。
別のチャット。
高嶺さんからだった。
急いで準備して、そのボタンをクリックする。
『――あ、良かった、大竹さん今大丈夫ですか?』
「大丈夫です。あの、さっき申請したら却下されてて」
『それについて今、課長と話してきました』
高嶺さんによると。
――自社事務所への移動は、出社として扱う。
――コアタイムに間に合うように出社するのが通常である。
――例えそれが顧客対応であっても、例外はない。
「…………は?」
思わず、声が出た。
『……そうですよね、私もさっき同じ声を出しました』
「え、だって、前に課長との打ち合わせに行った時って」
前に課長を含めた社内の打ち合わせで、午後から出社した時には何も言われなかった。
その時だって、今と同じように申請して、承認されていたのに。
『私もそう言うたんですが……何と言うか、まったく聞く耳を持ってくれんくて』
「……意味が分からないんですけど……」
顧客との打ち合わせの為に行くと言っているのに、その為の移動は業務ではないって事を言いたいのか?
――いや。
「……もしかして。工数を出社に使うなって事を言いたいんです、かね?」
客先への移動は、何なら昨日もしたばかりだ。
申請したのは1週間前。それについては何も言われなかった。
その時と、移動の時間は変わらない。
だとしたら何が違うのか。
――場所。
客先か自社か、その違い。
自社への移動は業務ではなく、出社。
だから、コアタイム内の出社は認めないって発言になるのか?
『んんん……そう、なんかな……』
俺の考えをそのまま口にすると、高嶺さんは肯定とも否定とも取りづらい返答を呟く。
高嶺さんも想定外なんだ、この却下は。
「……さっきフレックスタイム制のマニュアル見たんですけど、自社への移動が出社だなんてどこにも書いてないんですよ」
『私も初めて聞きます、そんな定義』
出勤の為の移動なら分かる。
それは紛うことなき出社だろう。
けれど、俺は原則在宅勤務だ。
自宅を作業場所として認められていて、自宅で作業していた所から事務所へ移動するのは出社と呼ぶのだろうか。
「……俺の中では、それは業務上必要があって行う移動なんですけど……」
『少なくとも、私はそんなルール知らんです。聞いた事もない。事務所間の移動だって全然ある話やし』
――いや。
言葉の定義の問題なのか?
考えてみればおかしな話だ。
顧客との打ち合わせに影響が出るのは分かっているはずだ。
それでも、例外はないという事か?
顧客対応よりも、そっちが優先されるのか?
考えれば考えるほどに、意味の分からなさだけが膨れ上がっていく。
『ともかく』
深く深く沈んでいきそうな俺を見かねて高嶺さんが声をかけてくる。
『取り急ぎ、打ち合わせどうするかなんですけど』
「……はい」
『コアタイムって10時やったっけ? それまでに事務所行くの、無理ですよね?』
「行くだけなら最悪何とかなるかもしれないですが……それから15時までずっと会社に居続けるのはちょっと厳しいです」
『……あぁそうや……コアタイム内の移動がだめやったらそうですね』
保育園に娘を連れて行く所だけを妻と調整すれば、行くだけなら何とかなる。
ただ問題は、移動も合わせれば8時間近く、家から離れる事だ。
「……高嶺さん」
『はい』
妻も仕事で家を出る。
その上俺まで離れてしまえば、何の対応もできなくなる。
俺は、そこまでのリスクを負えない。
それは、決して軽く扱うわけにはいかない。
「申し訳ないんですが……俺だけ、オンライン参加ではだめでしょうか」
高嶺さんの様子を見る限り、課長は本当に聞く耳を持たないのだろう。
けれど、俺も譲る訳にはいかない。
仕事の都合で、そこを後回しにはできない。
俺の中では、それだけははっきりしていた。
『……分かりました。対面は私と丸川さんで対応します』
「……すみません……」
『いえ。これに関しては知らんルールいきなり吹っ掛けてきたんが悪いです。私も知らんかった。申し訳ないです』
高嶺さんが、画面の向こうで頭を下げてくれている。
高嶺さんは何も悪くないのに。
『ただ……そのまんまじゃあオンラインにしますやと、ちと具合が悪いかもなんで』
それは確かにそうかもしれない。
少なくとも、俺は今日の打ち合わせで、事務所訪問を受け入れた立場だから。
『なので――大竹さん』
高嶺さんが、こちらを真っ直ぐ見て、言った。
「――さて、それでは始めさせて頂きます」
こちらと相手が揃った事を確認し、俺は開催を宣言する。
1月10日。顧客来訪の日。
『大竹さんはオンラインなんですね』
「はい……申し訳ありません」
『あぁいえ、高嶺さんから伺ってます。何でもインフルエンザだとか』
え。
風邪じゃなかったっけ?
「え、えぇはい。咳は収まったので、声だけでもと思いまして」
『大丈夫ですか? そんな状態で打ち合わせされてて。39℃の熱が朝も出ていたとか』
おーい!
知らない設定を足すなー!
まともに事情を話せば済むはずの話なのに、こちらが設定を足したり引いたりしながら辻褄を合わせなければならない。
その事自体が、ひどく不格好に思えた。
けれど今は、そう感じた所でどうにもならない。
「だ、大丈夫です。先程測ったら熱も下がっていたので」
『そうですかー』
『とは言え、まだ外出自粛期間中ですので、ご説明については私と、こちらの丸川からいたします』
『よろしくお願いします』
うーん。
画面が映らないから誰が喋ってるのか微妙に分かりづらい。
向こうでもそれを分かってくれているのか、基本的には高嶺さんの方で進行してくれているようだ。
お客様に筋を通しつつ、俺が在宅のまま打ち合わせに出るにはどうするか。
その話になった時、高嶺さんが言ったのは――
――大竹さん、当日体調崩しましょっか。
そうすれば、対外的には直接参加していなくてもおかしくはない。
諸事情とかで中途半端に濁すと、そこを掘り下げられて会社の信頼度を失うかもしれないと思ったらしい。
……事前の擦り合わせでは風邪って事になってたと思うんだけど。
でもどうやら、インフルエンザなら仕方がないって事になっているようだ。
打ち合わせ自体は、割と順調に進んだ。
一度だけ。
『――それでは、丸川の方から実際構築したもののデモンストレーションをお見せします』
『……あれ?』
『ん? どうしました?』
『あ、いえ、ちょっとPCが……』
「あ、申し訳ありません。そしたらちょっと先に私からお伺いしておきたい事がありまして――」
こんな事態も起こったりはしたけれど。
概ね顧客には満足して貰えて、その日の打ち合わせは乗り切れた。
『――ふぃー、何とかなって良かったっすねー』
「ホントだよ。行けなくてすみませんでした」
『うーわ! 大竹さんが謝るとかこわーい!』
「うるさいよ!」
丸川さんがいつものように軽口を叩く。
『打ち合わせとして上々やったんやないですかね』
「……高嶺さーん? 俺は風邪って聞いてたんですけどねー?」
『なはは、まさか『そんな状態で打ち合わせ出ていいんですか』ってツッコまれるとは想定外でしたわ』
「熱が39℃超えててとか余計な情報ブチ込むからです」
『なはははー』
そんなやり取りをしつつも。
2人には本当に感謝しなきゃいけない。
2人がいてくれたから、何とか乗り切れた。
俺だけではどうしようもなかったと思う。
――だからこそ。
こんな思いを二度と繰り返さない為に。
俺は高嶺さんと改めて相談し、ルールが変わらない限り自社事務所には行かない事を決めた。
申請して、却下されて、理由を問い質しても筋が通らない。
その度に高嶺さんを巻き込み、顧客対応のやり方まで捻じ曲げるくらいなら、最初から近寄らない方がまだいい。
そういう結論だった。
それは、明文化もされていないルールを認める事にはなるけれど。
そんな事に使う時間が無駄だという俺達の判断だった。
だめだと言うなら、そうするしかない。
その代わり、曲げないものは曲げない。
今回は高嶺さんの起点と丸川さんの助けもあって乗り切れた。
だから、実害とはまだ呼べないかもしれない。
でもこれは――実害未遂だぞ。




