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見限る理由しかありません  作者: 高杉零
流石に看過できません
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18/26

詐欺と変わらない

 ……。


 …………は?


 今、何を言われた?


 耳に入ってきた言葉を、頭の中でなぞる。


 ベビーシッター。

 雇って。

 来るのが普通。


 意味は、分かる。


 言葉としては、理解できる。


 ――ベビーシッター。


 一瞬、別の思考が割り込んでくる。


 ……それで、どうにかなる話か?


 誰でもいいわけじゃない。

 誰にでも任せられるわけでもない。


 そもそも、そんな都合のいい人間が簡単に見つかるとでも思っているのか。

 それに必要なコストは誰が払うんだ。


 ――いや。


 違う。


 そこじゃない。


 その前提が、分からない。


 何を前提にすれば、その結論に辿り着くのかが、見えない。


 数秒の沈黙。


 その間に、頭の中でいくつかの仮説を組み立てる。


 単に言葉の選び方が悪かったのか。

 あるいは、意図を汲み取れていないだけなのか。


 ――いや。


 違う。


 これは、言葉の問題ではない。


 前提そのものが、違う。


「……それは、会社としての方針でしょうか」


 自然と、そう口にしていた。


 個人の感想なのか。

 それとも、組織としての見解なのか。


 そこは、切り分けておく必要がある。


『いや、方針というか』


 軽い調子で返ってくる。


『普通に考えて、そうでしょって話なんですよ』


 ――普通。


 また、その言葉か。


『だって、仕事なんですし。必要なら何とかするのが当たり前じゃないですか?』


 繰り返される。


 同じ言葉。

 同じ前提。


 だが、その何とかの中身は、一向に具体化されない。


「そこに、個人の事情を含むべきではないという事でしょうか」


 確認する。


 ここを曖昧にしたままでは、話は終わらない。


『いや、含む含まないって事ではなくて』


 少しだけ間。


『優先順位の話なんですよ』


 ――やはり、そこに戻るのか。


『仕事があって、その上でどうするかっていう話なんですよ』


 順番が、逆だ。


 少なくとも、俺の認識では。


「事前に共有している通り、私の働き方については家庭の事情を前提にした上で合意を頂いている認識です」


 淡々と返す。


 事実として、そうなっている。


『いやいや、でも』


 即座に否定が返る。


『それってあくまで配慮ですよね?』


 ――配慮。


 その言葉に、少しだけ引っかかる。


 それは、本来こちらが無理を言って譲って貰っている時に使う言葉だ。


 だが、俺の認識は違う。

 最初から事情を伝え、それを前提に働き方を確認した上で入社している。


 つまりこれは、後から頼み込んだ例外対応ではない。

 少なくとも、俺にとっては。


 にもかかわらず、向こうはそれを配慮してやっているだけだと捉えている。


『配慮はしますけど、仕事が優先なのは変わらないじゃないですか?』


 なるほど。


 そういう整理か。


 頭の中で、一つ線が引かれる。


 こちらは、前提として『両立』を置いている。


 向こうは、『優先』の下に『配慮』を置いている。


 だから、話が噛み合わない。


 ――そう思った所で、部長の話はまた別の方向に飛んだ。


『いや、あとさ。こういうのって周りも見てるじゃないですか』


 ……周り?


『一人だけそういう働き方してると、他の人もじゃあ自分もってなるでしょ?』


 それは、少なくとも今話している事とは別の論点だ。


 事情があって許可をされているのと、許可を得ずに勝手にやるのとではまったく別の話だ。


 俺は、強引に話を戻す。


「その認識については、入社時に確認している内容と異なります」


 そう伝えた瞬間、部長は軽く頷いた。


『人事の方には、その辺りの記録は残っていないんですよね』


 ――は?


 一瞬、言葉の意味を取り違えたのかと思った。


「こちらには記録があります」


 短く返す。


 入社時に確認した内容は、記録として残している。


『あ、そうですか』


 あっさりと引き下がる。


『それならそれでいいですけど』


 ――それで終わりか?


 人事に記録がないと言った時点では、こちらの認識を崩す材料になると思っていたのだろう。

 だが、こちらに記録があると分かった途端、それ以上は何も追わない。


 確認したいわけでも、事実を揃えたいわけでもない。


 ただ、自分の話を通すのに使える材料があるかどうか。

 見ているのは、それだけらしかった。


 確認でも、精査でもない。


 ただ一言で流される。


『でもさ、正直そこを今さら言ってもしょうがないじゃないですか』


 ――今さら?


『会社って状況変わるし、現場で回す為に判断変わる事なんて普通にありますよ』


 理解は、できる。

 状況に合わせて判断を変えていかないといけない事は、もちろんある。


 ただそれは、認識を合わせて変えようと合意が取れた場合だけだ。


 こちらに説明もなく、既に変わっていた事にしていい話ではない。


「求人票にも、フルリモート前提と記載がありました。ですから私は応募をしたわけで」


 続けて、事実を並べる。


『いや、でもさ』


 すぐに返ってくる。


『時流って変わるじゃないですか』


 ――時流。


『その時にそう書いてあっても、今はその前提じゃないっていうのは普通にある話でしょ?』


 軽い調子。


 まるで当然の事のように。


「契約条件が変更されたという説明は受けていません」


 確認する。


 ここは、曖昧にしていい部分ではない。


『いや、契約書上はさ』


 間髪入れずに返ってくる。


『業務命令に従うって書いてあるじゃないですか』


 ――あぁ。


 そこに持っていくのか。


『管理職が判断を変えたら、それに従うのが普通でしょ?』


 さらに続く。


『いちいち説明する義務もないと思うし』


 言葉が、そこで止まる。


 ……なるほど。


 頭の中で、点と点が繋がる。


 前提が違うのではない。


 そもそも、


 前提を共有するつもりがない。


 ――そう整理しかけた所で、また別の話が差し込まれる。


『というかさ、大竹くんってちょっと理屈で考え過ぎなんじゃない?』


 ……今度はそこに行くのか。


『もっと柔軟に考えないと、社会人としてまずいと思うよ』


 違う。


 そうじゃない。


 まずいのは、俺の方じゃない。


 今、あなたが口にしている事、そのものだ。


「……それは」


 一拍、置く。


「説明もなく契約条件を変更しているという事になりますよね」


 言葉を選ぶ。


 感情は乗せない。

 ただ、事実として並べる。


「それは、詐欺と変わらないと思うのですが」


 静かに、そう告げた。


 一瞬、沈黙が落ちる。


 それまで途切れる事なく続いていた言葉が、止まった。


『……いや、詐欺っていうのはちょっと違うと思うけど』


 弱く返ってくる。


 だが、その先が続かない。


 さっきまでの勢いは、もうない。


『まぁ……その辺はまた、改めて話しましょうか』


 話題を逸らすような言い方。


『今日はもうちょっと時間もないもんで』


 ――あぁ。


 そういう終わり方か。


「……」


 それ以上、言葉は返さなかった。


 こちらから何かを言う必要は、もうない。


『じゃあ、また』


 一方的に、通話が切られる。


 画面が切り替わり、会議ツールが閉じる。


 静かになった部屋の中で、しばらく動けなかった。


 ……いや。


 動かなかった、の方が正しいか。


 頭の中で、今のやり取りを整理する。


 何を言われたのか。

 何が問題なのか。

 どう受け取るべきなのか。


 ――答えは、もう出ている。


 あの発言は、一線を越えている。

 個人の事情に踏み込み、やり方を指示し、価値観を押し付ける。


 それを『普通』と断じる。


 偶然でも、言い間違いでもない。

 あれが、この人の考え方だ。


 なら。


 ここで終わらせるのは、簡単だ。


 聞かなかった事にする事もできる。

 流して、やり過ごす事もできる。


 実際、そうしてきた人もいるのだろう。


 ――だが。


 ふと、頭をよぎる。


 さっきの言葉。


『皆、何とかしてる』


 本当に、そうなのか。


 それとも、そうさせられているだけなのか。


 もし後者だとしたら、また同じ事が起こる。


 誰かが、同じ事を言われる。

 同じように、前提を押し付けられる。

 同じように、選択肢を奪われる。


 ――それを、見過ごすのか。


 これまでも、納得できない事は幾つもあった。

 説明のない変更。

 後から出てくる理屈。

 確認したはずの前提が、いつの間にか別のものにすり替わっている事。


 その度に、腹の底では何かが引っかかっていた。


 だが、流せるものは流してきた。

 いちいち止まっていては、仕事にならなかったからだ。


 けれど、今のは違う。


 これは単なる価値観の違いではない。

 個人の事情に踏み込み、それを『普通』の一言で押し潰そうとしている。


 しかも、それを悪い事だとすら思っていない。


 なら、放っておけばまた繰り返される。


 少しだけ、目を閉じる。


 怒りはある。

 だが、それだけでは動けない。


 必要なのは、理由だ。

 動く為の、理由。


 ゆっくりと目を開く。


 ……やるか。


 どうせ、ここに長くいるつもりはない。


 選考は、進んでいる。

 遅かれ早かれ、離れる場所だ。


 ならその前に、やれる事をやっておく。

 それが、ここにいた最後の意味になるのなら。


 それでいい。


 机の上に置いたままのスマートフォンに手を伸ばす。


 まずは――


 社内規定の確認からだ。


 退職の申し出は、確か1ヶ月前だったはずだ。


 その間に、何ができるか。何をすべきか。


 これが――俺の、最後の役目だ。

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