意味が分からない
課長からの話を拒絶した翌日。
俺は、爽やかな朝の光に包まれながら――
「瑞穂ー! そろそろ起きてー! 保育園行くんでしょー!」
「……まだねむーい……」
「ほら、パパと顔洗っといで! 克己くんも!」
「……まだ眠ーい……」
「いい加減に起きろぉ!」
――戦場のど真ん中にいた。
いや、正確には戦えていないのだけれど。
大竹家の朝は決して早くない。
俺はいわゆる出勤がないし、美里は俺が業務開始してから出勤しても間に合う。
だから、我が家が戦場と化すのは、決まって8時からだ。
「ほれ瑞穂、お顔、パチャパチャしちゃおう」
「……つめたいの、やー」
「お湯にしてるから、もう温かいよ」
「……ぱぱかわりにやっといてー」
無理だっつの。
力任せになり過ぎないように抱き上げ、洗面所へと連れて行く。
ハンカチを濡らして顔を拭いてやると、少しずつ瑞穂は覚醒していった。
「克己くん、あたし今日買い物してこれないかも」
「ん。昼休みに買いに行っとく。後で買うものだけリストに入れといて」
「ぱぱー、これあけていー?」
「粘土は帰ってきてからにしなさい、カチカチになっちゃって遊べなくなるぞ?」
いつもの光景。
変わらない朝。
朝食を摂り、その後瑞穂を着替えさせて保育園に向かう。
いつもの流れだった。
あ、そうだその前に。
打ち合わせが昼休憩と前後していると買い物に行く時間は気を付けないといけない。
今日の打ち合わせは何時だったっけと確認しようと、スマートフォンを取り出す。
「……ん?」
そこで、気付いた。
――9時半から、打ち合わせを入れられている。
あれ、こんなのあったっけ?
昨日寝る時にはなかったはずだけど。
タイトルは、ただの「MTG」。
説明は、何もない。
何を話すのかも、誰が何を求めているのかも、何一つ分からない。
……雑だな。
誰が入れてきたのかと、参加者を確認しようとした。
予定の作成者は、須藤部長。
しかも作成されたのは、夜の23時。
さらに参加者は、俺と部長のみ。
……意味が分からない。
23時?
何でそんな時間に入れてくる?
……偶然にしては、出来過ぎている。
拒否させない為に、意図的にそうされた――そんな印象を受ける。
何か部長と話さないといけないような事があったかと考えてみるが、思い当たる節は、ない。
仕事上、部長と直接関わるような事はしていない。
……まさか。
昨日の件、か?
「パパー! 行くよー!」
「ぱぱはやくー!」
2人に呼ばれ、とりあえず保育園に行ってこようと玄関へ急ぐ。
……あー。
これは逃げられない。
保育園から帰ってきたら、もうすぐに予定の時間。
何の話をしようとしているか、確認している余裕がない。
……仕方ない。
内容はどうでもいい。とにかく、早く終わらせよう。
そう思いながら、娘を保育園に送っていった。
保育園から戻り、玄関で靴を脱ぎながら時計を見る。
9時27分。
……間に合うか。
手を洗い、仕事部屋に滑り込んでノートパソコンを開く。
電源を入れると同時に、チャットツールとカレンダーを確認するが、新しい情報は何も来ていない。
やはり、あの予定以外は何もない。
……本当に、それだけか。
小さく息を吐きながら、会議ツールを立ち上げる。
開始時刻の3分前。いつもなら少し早めに入っておくのだが、今日はその気にもならなかった。
――9時30分。
通知音と共に、画面が切り替わる。
会議に参加する。
カメラはオフのまま。マイクもミュート。
表示されている参加者は、俺と――須藤部長。
やはり、1対1か。
少しして、相手側の接続が安定したのか、音声が入る。
『あー、大竹くん?』
聞き慣れない声だった。
「はい、大竹です」
『あー、はい』
「おはようございます」
短いやり取り。
それ以上、何か続く気配はない。
――何の話だ。
こちらから切り出すべきかと一瞬考える。
だが、予定を入れてきたのは向こうだ。話す内容があるはずなのも向こうの方だろう。
待つ。
数秒の沈黙。
『えーと……あれだよね』
来たかと思えば、曖昧な入り方だった。
『この間、役員とのミーティングあったじゃないですか?』
「……はい」
やはり、そこか。
『あれ、来なかったよね?』
確認というよりは、事実のなぞり直しに近い言い方だった。
「はい。課長にもお伝えしている通り、家庭の事情で対面での参加が難しかった為、参加は見送りました」
簡潔に答える。
これ以上付け足す必要はない。
『うんうん。聞いてます』
軽い相槌。
……なら、何だ。
『でもさ、一応俺もね、直接聞いておこうと思って』
「……そうですか」
既に共有されている内容を、わざわざもう一度。
理由としては理解できなくはないが、納得はできない。
『どういう事情なの?』
改めて聞かれる。
――説明済みだろう。
一瞬そう思うが、口には出さない。
「子どもの送り迎えの都合上、指定された時間帯での外出が難しい状況です。事前にオンラインでの参加が可能か確認しましたが、対面のみとの事でしたので、今回は見送らせて頂きました」
事実だけを並べる。
感情は乗せない。
『ふーん……』
短い相槌。
その後、少しだけ間が空いた。
『でもさ、それってさ』
言い淀むような、繋ぎ方。
『仕事としてはどうなのって話にならないですかね』
――来たな。
「どう、とは?」
確認するように問い返す。
『いや、だってさ。役員が時間作ってくれてるわけですよ? それに対して来ないっていうのは、ちょっとどうなのかなって』
言っている事自体は、分からなくはない。
表面だけ見れば、筋は通っているようにも見える。
「事前に課長を通して事情は共有しておりますし、参加方法についても確認した上での判断です」
淡々と返す。
『うーん……でもさ』
歯切れの悪い返し。
『それでいいのかなっていうのは、やっぱりあるよね』
何を基準にしているのかが、曖昧だ。
「何をもっていいとされているのか、基準を教えて頂いてもよろしいですか」
自然と、そう聞いていた。
確認しないと、話が進まない。
『基準っていうかさ』
少しだけ声のトーンが変わる。
『社会人として、っていう話なんですよね』
その言葉の中身を、測りかねる。
「具体的には、どういった点でしょうか」
曖昧なままでは受け取れない。
そう思って、確認する。
『いや、だからさ』
少しだけ声のトーンが強くなる。
『仕事って、優先順位があるじゃないですか?』
「……はい」
『今回って、役員とのミーティングだったわけでしょ?』
「そうですね」
『だったら普通、そっちを優先するよねって話なんだよ』
――普通、か。
その言葉が、引っかかる。
「家庭の事情については事前に共有しておりますし、その上で参加方法についても確認しています。今回はその条件に沿って判断しています」
あくまで、事実として返す。
『うーん……でもさ』
また、同じ返し。
『皆さ、そういうのって何とかしてると思うんだよね』
――来たな。
今度は、皆か。
「何とかするというのは、具体的にはどういった対応を指していますか」
確認する。
曖昧な言葉のままでは、何も決まらない。
『いや、例えば』
少しだけ間が空く。
『家族に頼むとか』
――それは、既に検討済みだ。
『あと、まぁ……色々あるじゃない?』
具体は出てこない。
『とにかくさ、来れないっていう前提で話すんじゃなくて、来る前提で考えるべきなんじゃないのって思うわけですよ』
前提が、逆だ。
「行く前提で検討し、調整も試みた上で、難しいと判断しています」
淡々と返す。
『いやでもさ』
少しだけ被せるように、言葉が来る。
『それって、結局来ない理由を探してるだけじゃないんですか?』
――違う。
そう言いかけて、止める。
ここで否定しても、意味はない。
「その認識はありません」
短く返す。
『いやぁ……でもなぁ』
納得している様子はない。
『だってさ、他の人たちもさ、皆何とかしてるわけなんですよ』
繰り返し。
皆という言葉だけが、少しずつ重なっていく。
『それなのに、自分だけ来れませんっていうのは』
――あぁ。
そういう話か。
個別の事情ではなく、同調の問題。
そこまで考えて、
『正直、社会人の考え方として、おかしいと思うんですよ』
――線が、見えた。
どこで引かれているのか。
何を基準にしているのか。
ぼんやりとしていたものが、少しだけ形になる。
「社会人としてというのは、具体的にどういう状態を指しているのでしょうか」
確認する。
言葉の定義を合わせないと、話は進まない。
『いやだからさ』
少し苛立ったような声。
『会社の都合に合わせるって事だよ』
――来たな。
その言葉で、大体の方向は見えた。
「会社の都合と、個人の事情については、事前に協議の上で調整するという前提で認識しています」
入社時に確認した内容を、そのまま返す。
『いやいや、でもさ』
即座に否定される。
『そうは言っても、仕事ってそういうもんじゃないでしょ?』
論理ではない。
前提が、最初から違う。
『だってさ、必要なら何とかするのが普通でしょ?』
――何とか、か。
『例えばさ』
少しだけ間。
その後、軽い調子で続く。
『ベビーシッターでも何でも雇って、来るのが普通ですよ』




