それでいいです
自分が取るべき動きを決めてからの行動は、自分でも驚くほどに早かった。
転職エージェントに相談し、家庭事情を理解してくれること、会社が何をしたいのか明確であることを条件に求人を絞っていく。
願わくば、仕事のやり方を変えていくという仕事がしたいとも伝えた。
パンデミック後の出社回帰の流れは強まっていたが、そこを曲げる気はなかった。
そうして、1つ2つと少しずつ選考に進められる会社が出てきていた。
そんなある日。
――ピコーン
仕事中、いつもの通知音。
誰かからチャットメッセージが来た事を端末が告げる。
見てみると、久利生課長の名前だった。
今度は何だよ。
気乗りしないまま、それでも仕事だと割り切り画面を開く。
『1on1で話をしたいです』
相変わらず何も分からなさ過ぎてため息が出た。
指を滑らせ、返信を書く。
『それは、私の職務上対応必須でしょうか。内容が分からないので判断ができません』
……自分でも驚くほど冷たい。
別にそれを悪い事だとも思わなかった。
そのまま、送信ボタンをクリックする。
すぐに、返答がある。
『先日の役員とのミーティングの件です』
『ミーティングの、何を話されたいのでしょうか』
『ミーティングに参加できなかった理由について、部長から詳細を求められています』
『事情については既に何度もお伝えしてきておりますが』
『お伝えしたい事もあるので、何とかお願いします』
……何だ、やけに食い下がってくるな。
あれだけこちらを無下にあしらったのに。
このまま意地を張り続けてもいいかとも思った。
ただ。
延々とこのチャットの通知音が鳴り続けるのが、正直面倒くさかった。
『……分かりました。稼働中の案件についての作業もありますので、手短にお願いします』
『ありがとう。かけます』
少しして、着信がある。
気持ち大きめに深呼吸してから、俺はボタンを押した。
「……どうされましたか」
『あ、大竹さん。ありがとう、時間とってくれて』
第一声を聞いて、思わず目を見開いた。
急に距離を詰めるような話し方だった。
先日のやり取りなど、最初からなかったことにしたいみたいに。
「御用は何でしょうか」
『あー、えっと、先日のミーティングの件で』
「それは分かってます。何を確認されたいのでしょうか」
長々と話されるのを何気なく阻止する。
手短にって言ったろう。
『えぇと。実は人事にも確認したんだけど、記録がなくってさ』
「記録?」
『うん。大竹さんが面接の時に事情を伝えたってやつ』
……は?
言っている意味が分からない。
人事に記録が残っていない?
採用の方で記録をとっていると明言されていたはずだ。
とった記録って消されるのか?
何の為の記録だよ。
記録があるから大丈夫だと思っていた訳ではない。
けれど、残していると明言されたものが、必要になった途端に出てこないのは、それだけで十分に気味が悪かった。
決まっている事より、その時そこにいる誰かの認識の方が強い。
この会社は、そういう形で回っているのかもしれない。
この場で必要になって初めて、記録がないと言われる。
それ自体が、この会社らしい気もした。
「確かに伝えていますよ。どうしてもって言うなら、面接の時の記録も出せますが」
『あぁいや。それはいいんだ。高嶺さんからも改めて聞いたから』
いいのかよ。
正直大問題だと思うけど。
「だとしたら、何を?」
『えぇと、大竹さんの事情としては――』
課長が、自身が把握している内容をつらつらと述べていく。
娘が病気を抱えている事。
保育園の送り迎えがあり、その都度看護師と情報の申し渡しが必要である事。
娘に何かがあった場合、内容によっては即座に保育園に行き対応する必要がある事。
これらから、原則はフルリモートで勤務し、どうしても必要がある時は相談の上で、可能な範囲で対応すると定めている事。
こうして他人の口から並べられると、妙な気分だった。
生活の都合も、娘の事情も、俺にとっては毎日の現実でしかない。
それが確認事項のように読み上げられていくのを聞いていると、何だか自分の話ではないみたいだった。
これで認識は合っているかと聞いてくる。
――正確には、足りない。
『足りないって言うと?』
「今通わせている保育園は看護師が常勤していなくて、別の保育園から来てくれています。そこには保育園間の契約があって、看護師は朝8時50分を過ぎないと保育園に入れません」
それから看護師側の準備があるので、申し渡しができるのはどうしたって9時を過ぎる。
場合によっては9時半を過ぎてしまう事だってある。
だから、自宅から1時間半近くかかる事務所に、コアタイム開始時間である10時までに辿り着くのは物理的に不可能なのだ。
「これについても、そうなる時に事前にお伝えした上で、フレックスでの勤務に抵触しないのであれば問題ないと許可を頂いています」
『……あぁ、そうだった。高嶺さんからも言われてた』
それはそうだ。高嶺さんが認識していないはずがない。
だから俺と高嶺さんとの間では、10時までに出社はできないと共通認識があった。
この制約は入社時にはなかったものだが、そうなると分かった段階で高嶺さんと相談していた。
『うん、なるほど。よく分かった』
「お分かり頂けて何よりです」
同じ説明を、何度目だろうと思った。
その度に少しずつ形を変えて伝えてきたつもりだったが、結局はその場限りで流れていったのだろう。
今さら言葉にし直している自分が、少し馬鹿らしかった。
一通りの確認を終えたところで、課長が一拍置いた。
『……ごめんね、大竹さん。私は、配慮を怠っていたんだと思う』
……驚いた。
その言葉が出てくるとは思っていなかった。
『先日の件があって、部長からも詳細を求められて、高嶺さんと話した時に――怒られちゃってね』
どうも、いくら何でも社員の事情を考えなさ過ぎだと高嶺さんが進言してくれたらしい。
単純に対応できないと言っているだけでなく、その理由も説明し、こういう形態なら対応ができると代替案まで出している相手に、指示に従わないなら業務命令違反だとは何事かと。
そもそも自分がワーキンググループに関連して出社はしないように自分達で決めていいと言っておきながら、上から言われたからと反故にするのはあまりにも無責任だと。
そう、高嶺さんが言ってくれたのだそうだ。
それを聞いて、少しだけ視線が落ちた。
あの人との認識だけは、最初からズレていなかった。
『出社をするならコアタイム前にしなければならない――これは、私達が定めた運用のルールであって会社の規定じゃあない』
「そうですね。規定のどこにもありませんから」
『そう。運用のルールは円滑に運用する為に定めたものなのに、運用自体を阻害している事に私は気付いていなかった』
……何なんだ、これは。
謝られている、らしい。
けれど、だから何だという気持ちの方が先に立った。
もう、その言葉を受け取る場所が残っていない。
ほんの少し前までなら、こういう言葉を待っていたのかもしれない。
何が問題だったのかを認め、次からどうするかを整理する。
そういう当たり前のやり取りがあれば、まだ考える余地はあった。
その時なら、こちらももう一度説明しようと思えたかもしれない。
どこが食い違っていたのかを整理して、どうすれば回るのかを考える余地もあった。
でも、それはまだここに期待が残っていた頃の話だ。
その頃の自分はもうここにいなかった。
まるで言葉が届いて来ない。
たぶん、届かないのではなく、もう受け取る気がないのだ。
『今、人事とも相談している所なんだ。どうするのが良いのか、ちゃんと整理して――』
「いえ、いいです」
はっきりと、言い放つ。
「業務命令違反だと言われた時は流石に面食らいましたが、ペナルティがないなら、それでいいです」
――どうでも、とは言わなかった。
それを伝える事すら、もう手遅れだから。
「確認は以上でしょうか。作業が山積みですので、できれば戻りたいのですが」
『あ、えぇと、うん』
「それでは、失礼します」
画面が閉じると、部屋はまた元の静けさに戻った。
さっきまで耳元で鳴っていた声も、もうほとんど残っていない。
モニタには、途中で止めた作業画面がそのまま残っている。
数分前と何も変わっていないはずなのに、さっきのやり取りだけがひどく場違いだった。
仕事に戻ろうと思えば戻れる。
けれど、さっきのやり取りを何かとして受け止める気にはなれなかった。
謝罪された。確認もされた。今後を整理するとも言われた。
それでも、何かが動き出したような感覚は少しもなかった。
謝罪も、確認も、相談も。
どれも、今の俺には遠い場所の話みたいだった。
もう、今更なんだ。
俺はもう諦めた。
今更擦り寄ってくるような真似をするな。
どこまで行っても、この会社の構造が歪んでいるだけだ。
たぶん、課長なりに歩み寄ろうとしていたのだと思う。
けれど、そこに応じる気持ちはもう残っていなかった。
何かを埋めようとするには、できてしまった溝が深過ぎた。
一度零れてしまった水は、もうコップに返る事はない。
それでも戻そうとしているのなら。
――延々とコップが濁り続けるだけだ。




