想定内って
それからの俺は、意識的に仕事に線を引いた。
踏み込まない。深入りしない。
それを徹底していた。
――もう、ここにいる意味はない。
その気持ちを、はっきりと自覚していた。
下手に関わればまた妙な事に巻き込まれる。
これまでは、まぁいいかと思って受け入れてきた。
けれど、もうそんな事はしない。
そう決めてからは、意外に気分は晴れやかだった。
目の前のお客様に誠実に対応する。
これまで助けてくれたチームメンバーにはしっかりと対応する。
それ以外の事は、しない。
不思議なもので、線を引いただけで今まで感じていたストレスの大半が消え去った気がした。
あれだけ考えていた事が、どうでもよくなる。
それだけで、こんなにも楽になるのかと、少し拍子抜けするくらいだった。
久利生課長からは何度かチャットメッセージが来ていたけれど、脳内スルーを繰り返していた。
どうしても重要な場合がないとも言えないので、一応目には入れる。
けれどその大半は、そのまま頭の中からすぐに消え去った。
仕返しなんて幼稚な事はしないが、鏡であろうと努める事にした。
あちらが俺の意図を考えるつもりがないなら、こちらも相手の意図を考えない。
相手が俺にも誠実であるなら、俺も相手に対して誠実に。
こちらから何とかしようと意気込み続けたのが悪かったんじゃないかと思えるくらい、清々しい気持ちだった。
『あ、大竹さん、お疲れさまです』
「どもー、お疲れさまですー」
休み明け。
上田さんからミーティングの誘いを貰った。
前日に行われた役員との打ち合わせについて、との事だった。
もうどうでもいいかなとも思ったが、上田さんとは話したかったし、せっかくなので受け入れる事にした。
『驚きましたよ。まさか大竹さんがいないなんて』
「いや一応事前に言ったじゃないですか」
『業務命令違反にされる事になったので当日お休みしますなんて、冗談だとばかり……』
「あっはっは、俺が上田さんに嘘つく訳じゃないじゃないですか」
最低限の礼儀礼節くらいは弁えているつもりだ。
あの日、休むという宣言をした後。
関係者にはちゃんと伝えておかないとと思って、真実をありのままに伝えた。
対象はワーキンググループのメンバーと鷲頭課長。
それからチームマネージャーの高嶺さんと、ニヤニヤしながら話を聞きに来た丸川さん。
その頃にはもう、俺の中では笑い話になっていた。
『何か処分が下りそうなんですか?』
「いやー? 今の所そんな話は何も来てないですね」
評価なんて別に下がろうが何をしようがと思っているし。
どうせ、評価点が良くても昇給や昇進はこの2年半して来なかった。
今更1回2回の低評価になろうと、別にどうという事はない。
「それで、どうだったんです? 上田さんは行ったんですよね?」
『えぇ。というか、大竹さん以外は何だかんだで集まりまして』
何だかんだって何だろうと思ったら、当日遅刻したメンバーがいたりしてちょっとしたドタバタがあったらしい。
何でも、本社に行った事がなくて道に迷ったんだとか。
……本社に行った事は俺もないし、何なら事務所でも未だに迷う自信があるのは内緒だ。
『で、まぁ……全体的には何と言うか……よく分かりませんでした』
「上田さんでも?」
『私どんな評価されてるんですかね?』
いやだって、上田さんをもってして分からないなら、俺が分かる訳がないと思うもの。
たぶんそのぐらい、理解の斜め方向を行く展開だったのだろう。
『最初、レポートの内容を説明して欲しいって言われたので、私がしたんですよ』
「あれ書いた時、上田さんと一緒に整理しましたしね」
適任だろう。
というか、俺が行けないのでお願いしますと伝えていたくらいだ。
『一応、一通りは説明したんですけど……途中で田村さんが補足してくれて、その補足が別の話に広がってしまって』
「はぁ」
『で、戻そうとしても今度は別の人が別の話をし始めて……何というか、全体として何を伝えたかったのかが、うまくまとまらなかったというか』
「あー……」
思わず苦笑いが漏れる。
あのレポートは、個々の論点を並べただけでは意味がない。
全体としての繋がりと、構造があって初めて成立するものだ。
そのどこかが抜けるだけで、途端に別のものになる。
それを、その場で即興で組み立て直すのは――流石に難しいだろう。
しかも、その場にいたのは皆、普段から同じ問題意識を共有していた訳ではない。
だからこそ、1つ論点がずれると、戻す為の軸も曖昧になる。
俺がいた所で上手く行った保証はないが、そうじゃないと声を上げる事くらいはできたのかもしれない。
『説明が終わって部長が言ってたのが……何だったっけ。あ、『個々人の能力は高いのに、組織としての力に繋がっていない結果だと思う』でした』
「おー……お? 何の話だそれは」
『さぁ? 技術力がどうとか能力がどうとかの話ではないとは伝えたんですけどね』
相変わらずというか、何ともまぁ。
曲がった見方ですこと。
「役員の反応はどんな感じだったんです?」
『えーと、海藤役員は驚いてましたね。1年近く、須藤部長は何をしていたんですかと聞いてました』
海藤役員ってあれか。
須藤の乱の時に尻拭いに来た人か。
「部長は何て?」
『うーん、何だかモゴモゴ言ってはいましたが……正直聞き取れませんでした』
ほほーぅ、そりゃ面白い。
須藤部長は役員には頭が上がらないんだな。
まぁ当然か、役職としても上だもんな。
『もう1人の菅谷役員は、この課題感は想定内だって言ってましたね』
想定内。
その言葉を聞いた瞬間――
「あっはっはっは! 想定内? マジですか!」
『えぇ、マジです。皆ポカーンとしてしまって』
――笑いが堪えられなかった。
想定内と来たか。
それが本当かどうかは割とどうでもいい。
本当なら、分かっているのに何もできていないということ。
嘘なら、単なる見栄以外の何者でもない。
実に滑稽な話だ。
「ひー、お腹痛い……想定内って言ったんなら、何か対策取ってるんだ的な話ありました?」
『人事評価の基準を見直そうとしてる、って話はありましたね』
今度こそ、口がポカーンと開いてしまう。
人事評価の基準?
いや確かに、少しは書いたけれど。
本筋とは関係ない、議論の中で出てきた問題点の余りだ。
え、そこ?
「そこだけですか?」
『具体的に出てきたのはそこだけだったと思います』
……なるほどな。
その菅谷役員は、たぶん後者なんだろう。
直接話していないから確証はないが、ほぼほぼ確信に近いものを持てる。
全体としては想定できていなかったはずだ。
何故なら、定義がない問題は定義すれば良い話だから。
だが今もってそんな話は出てこない。
人事評価基準について課題だと思っていたのは本当なんだろうと思う。
そして、それがレポートの中に書かれていた。
だからそこだけを挙げて想定できていたと――見栄を張った。
そうでないと説明がつかない。
「それで、その後は何かありました?」
『いえ特に何も』
「議論とかがあったでもなく?」
『はい。そのままランチ会みたいになって、それから解散ですね』
ランチ会ね。
レポートの中身について議論が深まったのではなく。
話すべきことを一通り話し終えた後の雑談に、そのまま流れていったようなものだったのだろう。
誰も明確に区切りをつけた訳でもなく、
かといって次に何をするかが決まる訳でもなく。
何となく、終わったような空気だけが流れて。
そのまま、別の話題に移っていく。
――あぁ、終わったんだな、と。
何が解決した訳でもないのに、
そんな風に感じてしまうような終わり方だったのだろう。
そこにいた誰も、露骨に話を打ち切った訳ではないのだと思う。
けれど、もうこの話は終わりだという空気だけは、何となく共有されていたんじゃないだろうか。
そうやって、曖昧なまま畳まれていく話を、俺は今までにも何度か見てきた。
「……解散後ってそのまま15時までいたんですよね?」
『そうですね。ただ大半皆事務所に移動しましたから』
……あぁ。
そういう事か、と思った。
問題は上がる。
上でも、それなりには認識される。
けれど、そこで終わる。
何かを決めたような空気だけ残して、その先には繋がらない。
現場には何も下りてこない。
だから、何も変わらない。
「……そうでしたか」
『すみません。あそこまでのレポートを、遊ばせてしまう結果になりそうです』
「いや……上田さんのせいじゃないですよ」
問題を感じているのは現場のはずなのに。
何一つ、返ってこない。
ここは、そういう風に回っているのだろう。
――だからこそ。
俺達の上げた言葉は、上まで届いていて。
そこで終わる。
正当に踏んだ手続きは、上まで届いていて。
なかったものになる。
今回だけが特別だった訳じゃない。
これまでも、違和感は何度もあった。
それでも、その度にまだ何とかなると思おうとしていた。
でも、違ったんだ。
たぶんこの会社は、何かを変える前に、変わらない方へ収まっていく。
なら――。
何を言っても同じで。
何をやっても同じで。
ここにいる意味なんて、やはりもうない。




