気づいていた男
隣国側の応接棟は、辺境伯領の会議室よりずっと簡素だった。壁に飾られた地図と、磨き込まれた長卓があるだけの部屋。装飾らしい装飾はほとんどない。セシリア・ヴァンダールは、次回の条約交渉に向けた文言の擦り合わせのため、オズワルドの名代としてそこへ通されていた。彼自身は今日、領地の視察に出ていて不在だ。名代という言葉の軽さを、セシリアはいつも通り引き受けていた。
案内の使用人が下がると、部屋にはしばらく誰も現れなかった。卓の上に写しを広げ、順番を確認する。関税の猶予期間、通行税の減免条件、双方の商人が国境で扱える品目の範囲。前回までのやり取りで積み上げてきた条項が、そこには並んでいた。
出迎えたのは、隣国王室付き外交官のリアム・ダーシャだった。前回の交渉の場で末席にいた彼女の顔を、覚えていたらしい。軽く一礼して席を勧める。
「クレイフィールド卿は本日いらっしゃらないと伺いました。文言の確認だけなら、あなたで十分だと」
十分、という言葉に他意はなさそうだった。セシリアは頷き、持参した写しを卓の中央へ押し出す。リアムはそれを受け取り、一枚ずつ丁寧に目を通していった。読む速さは速くも遅くもない。
「猶予期間の一節、こちらでは特に問題ありません。ただ」
リアムが写しの一角を指で示した。セシリアが夜のうちに整えた言い回しだった。硬すぎず、それでいて解釈の余地を残さない。彼女なりに時間をかけた表現だ。
「以前拝見した文書と、言い回しの調子がよく似ています。特に、条件をつなぐときのこの言葉の選び方」
リアムは顔を上げず、写しの上に視線を落としたまま続けた。声に探るような響きはない。ただ、確かめるような静けさがあった。
「この言い回しの癖に見覚えがある。それだけ申し上げておきます」
セシリアは、写しをめくる手を一瞬止めた。誰にも指摘されたことのない癖だった。誰にも見せていないはずの癖でもある。控えを取る際、いつも自分だけの言葉遣いで整えてきた。それを、初対面に近いこの相手が言い当てている。
「クレイフィールド卿の文体は、時折お変わりになりますので。担当の書記が違えば、調子も変わるかと」
言い繕いにしては苦しい返答だと、口にした後で自分でも分かった。リアムはそれ以上追及しなかった。写しに視線を戻し、猶予期間の項目に印をつける。指先の動きに迷いはない。
「そういうこともあるでしょうね」
肯定とも取れない相槌だった。追及を諦めたわけではなく、答えを急がないだけだという気配を、セシリアは感じ取っていた。窓の外では、隣国側の随員たちが庭を歩いている。声は届かないが、時折笑い声のようなものが漏れてくる。この部屋には、リアムとセシリアの二人だけだった。
「以前、通行税の減免について交わした覚書がありますね。あれの原案も、あなたが」
リアムが唐突に別の話題を持ち出した。セシリアは息を止めそうになるのをこらえる。あの覚書は、正式な文書に残らない、口約束に近いものだった。彼女が個人的に隣国側の随員と交わした約束事を、後になってオズワルドが正式な条項に落とし込んだにすぎない。日付も署名も残らない、覚えている者しか語れない経緯だ。
「原案というほどのものではございません。ただの申し送りです」
「申し送りにしては、内容が細かい。相手国の商人の事情まで踏まえた内容でした」
リアムの口調は変わらない。詰問というより、事実を並べているだけのようだった。セシリアは膝の上で手を組み、視線を写しに戻す。答えるべき言葉を選ぶ間、部屋の中に静けさが落ちた。長卓の木目を見つめながら、答えを一つずつ捨てていく。認めれば通訳の分を超える。否定すれば嘘になる。どちらも選べないまま、口を開いた。
「隣国の方々とは、以前より少しばかり縁がございます。それだけのことです」
嘘ではない。だが、実際に起きたことからは遠い言い方だった。リアムはしばらく黙って、卓の上の写しを整える。紙の角を揃える指先の動きだけが、部屋の中の唯一の音だった。
「そうですか」
短い返事。それきり、彼は次の話題に移った。写しを封筒に戻し、次回の日程を確認する事務的な言葉を続けていく。淡々とした調子は、先ほどまでの追及の気配とは別人のようだった。セシリアはその横顔を見ながら、彼がすでに答えを持っていて、それでも問い詰めないでいるのだと悟る。詰め寄られていたら、言い逃れの言葉すら思いつかなかったかもしれない。
日程の確認が終わると、リアムは席を立ち、扉のところまで見送りに出てきた。形式的な礼のやり取りの後、彼は付け加えるように言葉を継いだ。
「次の交渉でも、あなたにお会いできることを願っています」
社交辞令にしては、目の据わり方が違う。セシリアは礼を返しただけで、それ以上の言葉は持たなかった。馬車に乗り込む間際、リアムは一礼して踵を返す。振り返ることはなかった。
帰りの馬車の窓から見える隣国側の敷地は、辺境伯領のものよりも簡素で、装飾のひとつひとつに無駄がない。使うためだけに造られた建物だと、遠目にも分かる。街道に出るまで、御者以外に話す相手はいなかった。
領地への道すがら、セシリアは膝の上の写しを見つめていた。自分の言い回しの癖を、誰かに気づかれたのは初めてだった。気づかれること自体が、これまで一度も想定していなかった出来事だ。指摘されれば認めるしかないと思っていたのに、いざその場になると、否定でも肯定でもない言葉しか出てこなかった。
窓の外を流れる木立を眺めながら、今日交わした短いやり取りを何度も思い返す。あの静けさは、追及を諦めた静けさではなかった。むしろ、こちらの返答を測るための間だったのではないか。そう考えると、動揺は思ったより長く尾を引かなかった。見抜かれたという事実の方に、どこか奇妙な落ち着きを覚えている自分がいた。
馬車が領地の門をくぐる頃には、日はすっかり傾いていた。屋敷の灯りが遠くに見え始める。街道の脇に、国境を示す里程標が一つ立っているのが窓越しに見えた。行きにも通ったはずの場所だが、帰りに見ると、心なしか近く感じられる。
今日の私的なやり取りまで、オズワルドに報告する義理はない。名代として文言を確認しただけの、事務的な一日として扱われるはずだった。使い古した写しを鞄にしまいながら、セシリアは自分の中に残った緊張の名残を、どう扱えばいいのか測りかねている。誰かに気づかれることを、これまで望んだこともなければ、恐れたこともなかった。今日初めて、そのどちらでもない感覚があった。
見抜かれていると分かっても、彼女は言葉を訂正しなかった。




