通訳程度の令嬢
会議室の窓には、朝の光がまだ低く差し込んでいた。長机には隣国側との条約文書が広げられ、末尾から三枚目の条項に、セシリア・ヴァンダールは目を留めていた。関税の猶予期間を定めた一節。三日かけて言葉を選び、書き直しを重ねた箇所だ。その一節には、彼女の名だけがなかった。
インクの色は、いつも彼女が使う緑がかったものだった。誰の目にも留まらない色合いだが、それで十分だ。文書の署名欄には、婚約者オズワルド・クレイフィールドの名だけが記されている。彼女の名を書く欄は、そもそも用意されていない。
長机の向かいには、隣国側の随員が三人並んでいた。年嵩の一人が、書類の角を指先で揃えながら開始を待っている。若い二人はまだ表情を崩さない。セシリアは末席で、控えの写しを膝の上に置いていた。誰かに見せるためのものではない。読み違いが起きたときのための、自分だけの保険だ。
窓の外を鳥がよぎる。誰も気に留めない。
「では、関税の項目から」
オズワルドが文書を取り上げ、慣れた調子で読み上げ始めた。声の張り方も、間の置き方も堂に入っている。セシリアは三日かけて整えた一文が、彼の口から流れていくのを黙って聞いていた。誰の言葉かということは、この部屋では問題にならない。少なくとも、これまでは。
途中、彼は語順をひとつ取り違えた。「三月以内」と「三月を超えて」。猶予期間を逆に読んでしまえば、意味は正反対になる。隣国側の随員の表情が、わずかに動いた。年嵩の男が眉を寄せ、隣の若い随員と目を見交わす。紙をめくる音が、一拍だけ止まった。
「今の箇所を、もう一度いただけますか」
若い随員がやんわりと聞き返した。オズワルドは自分が書いたはずの文書を前に、視線を彷徨わせる。指先が文面をなぞり、正しい行を探しあぐねていた。セシリアは膝の上の控えに目を落としたまま、人差し指で数字だけを小さく示す。オズワルドの視線がそこに落ち、言い直した。声の調子だけは変わらない。何事もなかったかのように、交渉は進んでいく。
会議が終わると、隣国側の一行は形式通りの礼をして退室していった。部屋に残ったのはオズワルドとセシリアだけになる。彼は文書を束ね、満足げに息をついた。今日もうまくいった、というふうに。
「交渉の場は私に任せて、お前は控えていればいい」
声には苛立ちも感謝もなく、当然のことを確認するような響きだけがあった。今日の読み違いには、一言も触れない。控えの写しを片付けながら、セシリアは頭を下げた。彼が読み上げた条項の一字一句を自分が書いたということは、口にしない。言えば、通訳の分を超えたことになる。誰もそれを望んでいない。
廊下に出ると、父グスタフ・ヴァンダールが遅れて姿を見せた。会議の様子を隣室で聞いていたらしい。娘の顔を見るなり、いつもの声で釘を刺す。
「今日はよくやった。だが、お前は通訳程度で十分だ。それ以上を望むな」
褒め言葉のつもりらしい。声に悪意はなかった。セシリアは「はい」とだけ答える。反論の言葉は喉の奥に留めた。娘が交渉の場に同席すること自体が既に譲歩だと、父は思っている。それを知りながら、彼女はいつも通り頷いた。
父はそのまま用件を思い出したように踵を返し、執務室の方へ歩いていった。呼び止められることも、労われることもない。廊下の窓からは、朝と同じ角度で光が差し込んでいる。半刻ほどしか経っていないはずなのに、随分と長い時間がそこに置き去りにされた気がした。
自室に戻ると、窓辺の光はわずかに角度を変えていた。文机の抽斗から、使い込まれた隣国語の辞書を取り出す。表紙の角は擦り切れ、余白には彼女自身の書き込みがびっしりと並んでいた。誰にも見せたことのないものだ。夜にしか開かないと決めていたが、今日は昼の光の下で開いた。
頁の間には、今朝の交渉で使うはずだった修正案の控えが挟んであった。オズワルドが読み違えた箇所を、正しい語順に直しただけの短い一文。緑のインクで一箇所だけ手を入れる。ペン先が紙に触れる間、部屋の中には衣擦れの音しか聞こえない。
この程度の修正で、条約は無事に運ぶ。誰も気づかない。窓の外には隣国行きの街道が伸びていた。遠く、国境を示す里程標がかすかに霞んでいる。あの標を越えたことは、まだ一度もなかった。子供の頃、乳母から「あの先へは行ってはならない」と言われたことを思い出す。理由は聞かなかった。聞かなくても分かる年頃だった。
辞書の余白に目を落とす。何年も前、まだ誰にも読まれることのない言葉を、自分のためだけに書き足していた頃があった。文法書を写し、意味の分からない単語には自分なりの覚え方を書き添えた。誰に頼まれたわけでもない。ただ、いつか役に立つと思っていたわけでもない。手を動かしていないと、落ち着かない時期だった。今の自分の仕事は、その延長にすぎない。ただし、書いた言葉の行き先だけが変わった。
修正案を書き終え、いつもの癖で文書の隅に自分の名を書き添えようとして、指を止める。控えは控えのままでいい。誰の手柄になるかを、もう長いこと数えないことにしていた。数えるだけ、心のどこかが痩せていく気がする。
隣室から、オズワルドが誰かに今日の首尾を語る声が漏れ聞こえてきた。関税の項目をどう乗り切ったか、どれほど落ち着いて対応したか。彼の口から出る言葉の端々に、聞き覚えのある言い回しが混じっている。三日かけて選んだ言葉が、彼のものとして語られていた。
セシリアはその声に背を向け、辞書を抽斗の奥へ戻した。控えの紙を丁寧に折り、明日の分の仕事に紛れ込ませておく。夕刻、使いの者が控えを取りに来た。渡す前に、もう一度読み返す。誤りはない。彼女の言葉で、彼女の判断で整えられた条項だ。
窓の外はもう暗くなりかけていた。里程標の輪郭も、街道の先も見えなくなっている。灯りを点さないまま、しばらく机に向かっていた。誰かがそれに気づいて咎めることもない。この部屋に入ってくる者はいなかった。
隣室の話し声はとうに止んでいる。屋敷全体が、今日という日を無事に終えたことに満足しているような静けさだった。セシリアはその静けさの中で、控えの紙をもう一度指でなぞった。緑のインクは、灯りのない部屋では黒に近い色にしか見えない。それでも、そこに何が書かれているかは分かっていた。
明日も、同じ時刻にここへ座ることになる。灯りをつけないまま、しばらくその見当をつけていた。
修正案の紙を、彼女は自分の名を書かずに机の端へ置いた。




