ボク『大発』です その2(シンフォニー 少し大きなフネへ)
みなさん
こんにちは
ポチです。
さて、『大発』の話なんですけれど、なかなか調べていくと面白いです…が、まとめるとなるとなかなか…
ま、楽しんでください。
七了口の戦いは、その上陸・揚陸の実戦実習と言える。
演習ではなく実戦。そして、成功した部分、失敗した部分が表に出、これからの上陸戦へとつながって行く。
ところで、
ヤンマーの『50年小史』の1937年11月3日の項に、
「杭州湾敵前上陸に『ヤンマー船』が活躍」
という記述がある。杭州湾とは今回述べている七了口の戦いが起こった場所。
たぶん小発のこととも考えられるが、事前に陸軍運輸部が大量発注した十馬力前後のヤンマー製ディーゼルを積んだ、小発よりさらに小さな上陸・輸送用舟艇だったらしい。いずれにしてもエンジンの操作・整備の助言・補助のために山岡から社員が派遣された。どうやらこの社員たちが『ヤンマー船』という言葉を繰り返し兵らに使った…らしい。今でいう「広報活動」だろうか?(今風のオシャレ(笑)な広報活動ではないが…)その後、ヤンマー(これが分かりやすい 笑)は大量の発注を受ける形で工場を米国風の流れ作業にする。(このあたりは以前「排気タービン」の章で述べたね)陸軍ではその後も『ヤンマー船』という名称を使っていたのだろう、ヤンマー船を操縦した兵士たちの多くは徴兵された瀬戸内の漁師であった。復員してきた彼らはヤンマーのディーゼルエンジンを評価し、自分の漁船に装備しようと当社を訪ねてきた人たちがいた。
ヤンマーは戦後、漁船のエンジンメーカーとして有名となる。
(前文章の 大発 = ダイハツ となったのは、この影響もあるのかもしれない)
話を戻す。
輸送船・軍艦から兵や物資を小発・大発に乗せる(載せる)手間、そして時間。第一波の上陸にはあれこれと考慮すること自体がもどかしい。
ならば?
ここで流れが2つに分かれた。
一つは「せっかく出来た上陸・揚陸体制を支えるフネ・システムができれば良い」
もう一つは「最初からみんな乗せとければ良い」
実は後者については既に研究・開発が進んでいた。大発とは違う、もう少し大きなフネの必要である。大きなフネ(まぁ、海上トラックレベルの1,000トン以下の小型フネだけれど…上陸時のことを考慮しているのか?)は、陸軍としても使いやすいのではないかと考えた。一気に兵を送り込める。大きなモノもすぐさま揚陸できる。
まずは300トン級の海上トラック「五郎丸」で揚陸試験を行った。もともと軍艦でもなければ、上陸用舟艇でもない,ごく普通の発動機船である。それを改装して、陸軍は浜へと突っ込ませた。そのまま海岸に乗り上げる。そして梯子状の階段を艦首の左右から降ろす。兵がそこから降りていく。船を浜へ直接乗り上げさせれば、兵士は沖合のフネから上陸用舟艇へ移乗しなくても、そのまま浜へ降ろせる。
反省点・改善点はいくつも出た。単なる階段状の細い舷梯なのだから兵士しか降ろせない。
「じゃあ、自動貨車は?」「馬匹は?」「砲は、弾は?」「戦車は?」
次は「よりひめ丸」というフネ。総トン数526総トンの海上トラック、船首を観音開きに改造した。
「出口を船幅いっぱいにしてしまえ」
暴言? 必要があったからだ。
海岸に乗り上げがばりと扉を開き、そして揚陸用の『床』は扉の長さ。そこから馬匹や自動貨車、戦車を直接揚陸する方式である。(現在のLSTの先祖?)
実験は終わり、2隻の結果をもとに、新しいフネが造られた。よりひめ丸自身は貨物船に戻りソロモンの海まで出かけ傷つきながらも終戦を生き残る。(五郎丸は正確には分からない、話によっては揚子江付近で沈没したともあるがこの実験に使われたフネかどうか、結局分からなかった)
ここでようやく陸軍は戦車をもそのまま上陸させられるフネを手に入れる。
『特大汽艇』
性能要求は戦車搭載能力(初期要求は戦車10両)と13ノット前後の速力。建造時の総トン数641トン、最初から戦車を載せる前提で設計・建造した。外見は普通の海上トラック。瀬戸内海や沿岸航路で見かけそうなフネと見間違う。中身はかなり違う。船倉形状・車両甲板面積・船首開口幅・歩板強度・吃水・重心。特に船首扉を開けた後にその約12m(改良型は17m級)の歩板橋を伸ばす。(電動折りたたみ式の複雑な機構で、小型の船体でありながら長い渡し板を使用できる利点があった一方、信頼性はあまり高くなかったらしい)
就任後、
『蛟竜』
とも呼ばれるが、制式には『SS1/機動第一号艇』とされているようだ。
このフネは最後の試作船であり最初の実用船ともいえる。
さてこのフネが作られた後、実際に戦車を載せたり、他を載せたりして上陸訓練・演習を行ったことで分かったことがある。
「戦車だけ載せてもねぇ」
単に輸送であればそれでも十分だったろう。しかし既に陸軍は小発・大発を使い、訓練し、海軍を巻き込んで大規模な演習をしていた。新しく学んでいた。
上陸後に戦車に追従する歩兵がいる。戦車が進めば燃料も弾薬も補充する必要がある。上陸後に戦える部隊として最初から運ばなければならない。思想が変わる。
改設計が成された。
20トン級中戦車4両+自動貨車1両+兵員約170名+弾薬・燃料・糧食
戦車だけから諸科連合・混合のそれを一気に海岸に揚げる。数日ではあるが兵はフネの中で過ごすことが出来る。そして自衛のために迫撃砲や機関銃を備え、必要な時のためと小発を搭載する。780総トンに拡大するわけである。
改良型の二番艇は「蟠龍」と称された。これフネを基本としてこれからの機動艇は量産され、「機動輸送中隊」を編成、前線投入されていく。
海軍は見た。なにせ陸軍の船舶工兵部隊は広島の宇品、呉からは目と鼻の先である。そして同じ海を渡る部隊として、以前から交流があった。
「面白いフネ」
という一般的な評価もあったが、ただ、海軍がこうしたフネに目を向ける背景は、もっと前からあった。
南洋群島では委任統治条項によって軍事基地・要塞の建設が禁止され、ワシントン海軍軍縮条約でも太平洋島嶼の防備現状維持が規定されていた。条約自体は1936年末に失効したが、委任統治上の軍事基地化禁止は残ったままであった。
ただし日本は何もしなかったわけではない。1930年代には海軍が南洋興発などと協力して、道路・港湾・商業用飛行場など、平時には民生用だが戦時には軍事転用できる施設を小規模ながら整備してきた。
「何が、どこまで整備されているのか。」
それ自体が秘密だった。
1937年2月、米海軍の艦艇「ゴールドスター」がパラオ・サイパン・トラックへの寄港を希望する。日本側は
「好ましくない」
として拒否する。米側が再度寄港を打診するものの、日本側はやはり拒否した。
1937年3月25日、パナマ船籍の商船「フィジャン」がマーシャル諸島マジュロ付近で沈没し、ノルウェー人船長アルフレッド・パーカーらが日本船に救助される。ヤルートでは警察監視下に置かれ、何度も事情聴取され、帰路に寄った島々でも上陸を許されなかった。後日、船長はクサイエ島で「大きな飛行場を建設中」なのを船上から見た、と米領事に証言した。ただし米領事自身、「確認する術はない」と付記している。
ある時、事件が起こる。かの米女性パイロット アメリア・イアハートの遭難である。
1937年7月、世界一周飛行の途中、ニューギニアのラエからハウランド島(日本の南洋諸島に隣接する無人島)へ向かう途中で中央太平洋上から消息を絶つ。有名な冒険家であるアメリア・イアハートの行方不明に対して、アメリカ世論は沸き立った。アメリカも無視できない。7月5日、先に捜索協力を申し出たのは日本側からだった。日本政府は「マーシャル方面に無線局や艦船があるので協力できないか」と米国へ申し入れる。たまたま調査に訪れていた南洋諸島調査艦隊の特設測量艦「膠州」が1週間程度をかけてポナペ島、ヤルート付近を捜索した。各地の無線局にはイアハート機からの通信を常時聴取させ、マーシャル諸島周辺に展開する日本漁船にも警戒を命じる。捜索は一週間に及んだ。
うがった見方をすれば、この日本側の迅速な行動こそ、外国軍艦を委任統治領へ入れず、日本側が自分で捜索協力することで、
「秘密」は「秘密」のままでなければならない
ことを示しているとも言える。
ちなみに現在も本人と確認された遺骨も機体(ロッキード・エレクトラ10E)と確定した機体も発見されていない。
陸軍が「よりひめ丸」、さらに機動艇という答えへ進んでいたころ、海軍もまた別の場所で、同じ問題を考えていた。
「港のない島へ、南方諸島への車両や重い兵器、それ以上の量を占める物資の輸送をどうすれば良い?」
もちろん時間的なことを考えなければこれまで通り輸送船から艀にクレーンで降ろせば良い。艀が陸まで運ぶだろう。
で?
どのくらいかかる?
そのための人員は?
その管理体制は?
次の文章に詳しく述べる予定だが、海軍としても上陸戦や港を使えない状態での輸送には手をこまねいていただけではなく、以前から研究を進めていた。世間的な話となるが、単に主流の、戦艦とか巡洋艦、空母の建造の方ばかりに目が行きすぎていただけである。(ま、補助艦を揃えようにも金がない)
ただ
「浜へ着けるだけでは駄目だ」
そう、遠くまで自力で行かなければならない、荷物も積まなければならない。
「ある程度の大さがないと長距離輸送には耐えられない」
という現実もあった。
航洋性・燃料・居住性・搭載量・機関信頼性
単純に
「大発を大きくすれば?」
という容易な解答
「輸送船を直接接岸したら?」
なるほど、陸軍がすでに答えを用意しているので現実的な解答。
海軍としてもさまざまな思考を巡らせていた。
必要なモノはその大きさの違いだ。航続距離だ。本土から直接、南洋諸島へ行ける能力。東京―サイパン間の直線距離はおよそ1,300海里。横須賀を出てその頃としては高速の13ノット程度で、サイパンまで4~5日程度。その間の搭載人員の食事を用意できれば…なんとかなる、いやなんとかする。飲水、生活水も要る。便所も要る。もちろん寝る場所も要る。フネにモノ以外の人を乗せるためにはそれなりの施設も必要となる。
要求を並べていく。
車両を載せる。兵を載せる。自力で外洋を走る。浜へ直接着ける。ある程度の速力も要る。
そしてそれなりの数が要る。できれば安く。更に言えば海軍がいつもは使っていない造船所で、短期間に何十隻も作れなければ意味がない。あれこれといくつかの組織がすり合わせる中で現実的な、他の艦艇の建造を圧迫しない、量産が可能なものとして1,000トン前後のフネが現実的だと、そんな答えが出た。
「理想」と「現実」のすり合わせの結果でもある。
艦政本部の片隅で、そんなフネは設計を開始した。上陸戦に対しては陸軍の資料も参考にした。最初は1,000トンクラスの商船の船型を元にしたモノを考えた。実際に概念設計を行ったが、速度が出ない。出そうとすると搭載エンジンの出力が高まる。出来れば現在作られて、出来れば大量生産ができそうなエンジン(なるべくディーゼルエンジン)。
実際に船を建造できない(上が許してない)中でも研究・開発は進む。幾つかのフネの建造所、エンジン製造会社、さまざまな施設への連絡が届いていく。
とりあえず1隻の建造許可が下りる。
爆発した。これまでの全てが1隻のフネにまとまった。瀬戸内海の小さな造船所に様々な人が群がった。商船、「平時標準船」E型(800総トン)を基本として船長を少し伸ばした1,000トンクラスの1隻の船。(エンジン自体は換装・強化し13ノットにする)予算はなんとかした、なんとかした…。商船ベースであるので思ったよりも安く、早くできた。
艦橋は後方、ディーゼルエンジン機関も後方、艦首は船幅最大の観音開き。搭載甲板は二枚、上の甲板の搭載物資(車両を含む)を降ろした後に、下の搭載物を降ろす。最初から搭載するモノが自走することを考慮されていた。艦首に機銃1基、後部に7.5センチ高角砲1基と機銃2基。碇は艦尾。
様々な要求が様々な形に変わり、そしてまとまり、つながり…
そんなフネだった。
実際に使う。最初は近距離の島へ、そして次第に遠くの島へ。
ディーゼルは信頼できるが遅かった。観音開きは面倒だった。二段搭載は有効だった。艦尾錨も使える。車両を自走で降ろせることも確認できた。いろいろと改善しなければならないところが出て来る。一つ一つ潰していく。しかし、自力で揚陸できる、何なら荷物を載せたトラック自体を乗せられる、その良さは何事にも変えられなかった。しかも揚陸自体にかかる時間もこれまでよりもはるかに短い。
艦政本部の首脳部はとまどう。
「我々が考えていたものでないモノが、現場で評価されている」
窓際の連中と若手。日の当たる主要部だけが組織を回しているわけではない。だからこそ窓際の人たちは別に威張ることもなく、自分の仕事を淡々と進める。正式な艦種ですらなかった。一隻目だけなら道楽で済んだ。しかし現場が必要と考える。フィリピン、蘭印、ラバウル、ツラギなど、港湾施設が十分でない場所への兵員・車両・物資輸送に何隻か回す。港が壊れていても荷を下ろせる、艀を集めなくていい、クレーンを待たなくていい。更に車両ならそのまま走って出る。現場が評価する。
三隻なら試験で済んだ。そして十隻を越えると、もう艦種である。ただ商船船型では速力が出ない。しかし各地にある小さな民間造船所でも作れる。その船型は量産を考えて曲線から直線を中心に再設計される。(後の『戦時標準船』を部分的に先取りした形となる)強度の関連もあるが商船の工法を使える。既存のディーゼルを使える。軍艦ほど厳しい艤装を要求していない。欲しいのは「数」である。
艦政本部の書類では仮に「輸送艦」と称した。微妙に名付けられたフネはそれでも必要とされ、少しずつ改良を加えなから量産体制を整えた。
頻繁に行き交うようになる。ラバウル、ツラギなど、港湾施設が十分でない場所への兵員・車両・物資輸送。
ある日の陸軍からの提案、
「あのフネ、空いてませんか?」
艦政本部の首脳部は黙り込む、
港が壊れていても荷を下ろせる。わざわざ艀を集めなくていい。むろんクレーンを待たなくていい。そして車両ならそのまま走って出る。
「我々が考えていたものではないものが、現場で評価されている」
思想と実際が異なることは、いつもあることだ。
設計した連中は、別に得意顔をしなかった。次の図面を直していた。そういう連中だった。
話はガダルカナル島への補給戦へと続く。このフネはラバウルに8隻が揃った。量産を考えて作ったフネだから陸軍の機動艇よりもその数は多い。
「使えるよな?」
少し間があった。
「……昼間でなければ」
ということで、中継地たるラバウルからガダルカナル島へ。直線で約565海里。だいたい600海里を約二日かける。やがて海軍は駆逐艦による高速輸送へ頼るようになるが、『輸送艦』の存在がわずかながらもその現実を変更する。この艦は往復を自分の巡航力、航続力でなんとかする。ラバウルを今日出て、次の日一日航海し、そして明後日にはガダルカナルの浜へ着ける。揚陸の時間は駆逐艦よりもはるかに短い。兵だけでなく、重量物も運べる。その揚陸物資は数倍。海岸に擱座・揚陸するだけで良い。そして軽くなったフネは自力で陸を離れ、帰って行く。
敵の妨害はあった。損害も出た。なにせ単なる商船だ。脆い。飛行機、潜水艦、魚雷艇…。最初から武装した物はあったが、未だ足らない。機銃の増設、対潜弾。最初に考えていたものから次第に増えていく。
数が欲しい。
それは海軍だけの問題ではなかった。今の数倍の量産。今のままでは難しい。
「大発を大きくすれば?」
と考えていたところへ、外国が実際に作った答えの図面が来る。
『英国の戦車揚陸艇、LCT』
1943年にドイツ経由で英国LCT Mk.Vの資料が日本海軍にもたらされた。直線だけで作られたような船型、今の「輸送艦」とは異なる、しかし同じ思想。
量産を中心とした次作を考えていた海軍にとっては、大事な資料となる。
「イギリスは徹底してるな」
曲線が少ない。工作の面倒な形を避けている。美しい船を作る気など、最初からないらしい。
「何年使うかより、何隻をいつまでに揃えるか、か。イギリスにはまだまだ学ぶことが多いな」
図面を覗き込む若手。
「ここまで簡略化することがあの国の『戦時』なのだろう」
被害が出ることが当たり前、数年使えれば良い、なんなら1回つかえれば…そのくらいの割り切りが図面から見られた。
「うちとは違う……が、今は戦時だ。敵国の物だろうが使えるならば使おう」
『LCT』をもとにし、新たな図面が引き直された。
昔、検討していた一隻の図面、輸送艦の建造、陸軍の大発・機動艇の経験と、そして外国のLCTの図面が、1943年に同じ机の上に載った。
「在来の建造方式に敢えて捉われない」
量産準備では、呉工廠が従来の建造方式を捨て、実物大模型、ブロック構造、同一部品の量産、治具、工程簡略化まで持ち込む。建造の中心となったのは大阪造船所、川南工業浦崎、佐世保工廠、日立造船向島、佐野安船渠。周囲の協力工場へ、部品の注文も飛んだ。錨。ウインチ。扉。デリック。配管。一隻の船を一つの工場だけで作っている余裕などない。
あまりに量産体制が整ったために最初考慮していた「タービンエンジン」が間に合わなくなる。笑えそうな話題だが、それが現実である。ならば…「ディーゼルエンジン」を利用する。改設計される。
ここで、「え?」と思った読者に拍手。
航続力に拘ってこれまでディーゼルエンジンを採用していたはず……。
間違いない。
が、海軍はガダルカナルで「高速輸送」にその考えを振った。
13ノットでは潜水艦や航空機の危険領域を振り切れない。ならば少しでも速く。できれば18ノット…無理なら16ノット。そのためのタービンエンジンである。
船体はドックで次第に形が出来てきた。
ところが今度は、予定したタービンが間に合わなかった。
「……また機関か」
誰かが言った。
とりあえず六隻。
第一号型駆潜特務艇などに生産されていたディーゼル機関、あり合わせの四百馬力ディーゼルを三基積んだ。合計1,200馬力。最高速力は約13.4ノット、航続距離は13ノットで約3,000海里。
間に合ったタービンエンジン搭載型では、ホ号艦本式ボイラー×2基+艦本式甲25型ギアード・タービン×1基、1軸、2,500馬力。最高速力は約18ノット。航続距離は独特で、往路は16ノットで約1,000海里、復路は14ノットで約1,700海里。計2700海里。タービンエンジン自体もこれまでのものを使う。橋立型砲艦「橋立」や河用砲艦「伏見」、香取型練習巡洋艦に搭載されたもの。作製自体は出来ていたが、しばらく作っていなかった。
予定していたホ号缶の製造が、船体の量産に追いつかなかった。そのために遅れた。
八百~九百トン。全長七十五メートル。幅九メートル。搭載量約250t~約220t、兵装は7.6cm単装高角砲×1、25mm三連装機銃×2(その後強化される)
そして、
『二等輸送艦』
そのような名称が付けられたのは18年半ばであった。
間に合わせのものでしかない。ところが南方輸送用として見ると悪くない。
従来の『輸送艦』もなくならなかった。建造自体が止まったわけではない。建造する場所が違うからだ。しかし、そのフネ自体も量産に適するように変更が加えられていた。
新しい舟艇型を二等輸送艦と呼ぶなら、古い商船型はどうする。
『三等輸送艦』
そんな分類が、初めて正式なものになった。
(一等輸送艦については別の文章で…)
南方諸島、フィリピンへとそのフネは進む。すでにアメリカ軍が南洋諸島への進行を始めつつあった。危険を冒して輸送するためには速さと早さが必要とされた。これまでの商船を中心とした輸送体制は崩れつつあった。駆逐艦での輸送ではその輸送量が問題視された。
陸軍も欲しがる。機動艇は思った以上に建造に手間がかかる。そして陸軍は造船所をおさえていない。
「うちの抑えている鉄を出すから、作ってくれない?」
いやも応もない。
陸軍では「機動艇」を作っていたが、より量産に適した二等輸送艦に目を付ける。「SB艇」と名付けた。すでに陸軍には自前の機動艇「SS艇」があった。所要資材を陸軍側の枠から出し、完成艇を陸海軍その比率で分ける。そういう取り決めになる。
量産が始まる。
終戦までの約2年間に99隻竣工(うち戦場に赴いたのは87隻)・6隻未成。
使えるフネだった。
だから使われた。どこにでもいった。
フィリピン、パラオ、小笠原、硫黄島、沖縄。
味方の航空・艦隊勢力が既に消えたところにも、島に兵がいる限り運んだ。そう、そこは敵の飛行機がいるところ、敵の潜水艦がいるところ、そして港が使えないところ。
特に揚陸中のフネを狙われた。動けない。昼間でも揚げた。迅速な揚陸を目指していたはずが。敵は見逃さない。
四十隻以上を失った。
便利だったからこそ、危険なところへ行かされただけだ。
いかがだったでしょうか?
五郎丸のことを初めて知ったのは
『陸軍兵器便覧』だったかな?
おもしろいフネだな…調べたいな…
今みたいにネットも何もない時代ですので手が出ませんでしたね。
さて
明日まで連続投稿の予定…なのですけれど
どうなりますやら
ではでは。




