ボク『大発』です その1(プレリュード ガリポリ上陸作戦の影響)
ポチです。こんばんは?かな…
ロケット以外で何を書こうかとこれらの文章を載せる前からずっと考えていた題材です。
あまりIF的には流せませんでした。結構完成されているのです。
ではお楽しみください。
「海上の道」
柳田國男
◇ ◇
今よりほんのわずか前。
令和六年
いつものような日常の中で、その日は特別な、「ハレの日」であった。
一月一日。
能登半島には、いつものように冬の日本海から、風が吹いていた。その風は家々の屋根を越え、細い道を抜け、海へ向かっていく。
古い家屋である。軒先には正月飾りがあり、玄関にはいつもよりも多い靴が並んでいた。いつもは静かな家の中が年に何回かしかない賑やかさにあった。
「それ、そっち置いといて」
「これ?」
「違う違う、その大きい皿」
台所では朝から複数の人が動いている。子どもたちが飛び跳ねながら、それでも手伝いに満面喜色で応えていた。いつもは二人だけで使っている食卓に今日は椅子が足りない。年寄りはその空気にニコニコとしていた。
テレビでは誰も真面目には見ていない正月番組が流れている。でも雰囲気を楽しんでいた。
外へ出ればその寒さに身体が凍える。普段は遠く離れた町に住んでいる子どもたちはそれを楽しんでいた。道路には県外ナンバーの車が増えていた。
今年もよろしくお願いします、と言う。いつもの正月だった。
海の色は冬の色をしている。白々と大きな波、岩場に飛び散る泡、風が強い。
防波堤の向こうで波が砕け、その音が町まで聞こえてくる。
いつもの海だった。
そして誰も、
「いつも」
が崩れるなんて知らなかった。
携帯電話が家のあちこちで一斉に鳴る。あの音だ。その音を聞き終わるより早く床が動いた。横、上下、斜め…家全体が、どちらへ動いているのか分からなくなった。親が子どもたちに「伏せて!」というより早く、未だ片付けていなかった皿が滑り落ちた。ほぼ正月だけのための大皿。それが割れた。
揺れは、まだ終わらなかった。その日、1月1日に能登は揺れた。16時06分にもM5.5・最大震度5強の予震、そして16時10分のM7.6・最大震度7の本震。二つの揺れは能登の町を襲った。町は崩れた。
外へ出ると、すでに道ではなかった。瓦が落ち、塀が倒れ、電柱が傾いている。そして電線はだらりと道を遮っている。そしてまだ揺れは小刻みに続いていた。
海の方から何か聞こえた。
一月四日。
海から、低い音が近づいてきた。それは沖にいる船の機関音に聞こえた。が、次第に大きくなる。風を巻き上げる音。漁船とは違う。
やがて沖から、四角い大きなものが姿を現した。
船? 船体は水の中にない。四角い船体の後方に二つの大型扇風機のようなプロペラ。
大量の空気を下へ吹きつけ、わずかに浮き上がったまま海面を走ってくる。
LCAC。
沖には海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」。
地震は道路を各所で寸断した。陸から行けない。食料や医療品をバックパックに詰めた自衛隊隊員が寸断された道路、道が無くなった場所を迂回し、山道を越えて孤立集落へ向かう。しかしその量は少ない。港は地震による隆起もあって使えるものと使えないものがあった。陸から行けない。ならば海から行くしかない。
LCACは海岸へと近づく、が、速度を落とさない。波打ち際へ、そのまま砂浜へ入る。水しぶきが砂ぼこりへ変わった。艇体が砂浜の上で止まる。
そこは輪島市大川浜。艇首側が開く。
中から重機が降りてきた。それは道路を切り開くための機械だった。
その後には物資を積んだ車両も続く。
港は要らなかった。岸壁も要らない。
沖に船があり、そこから海岸まで荷物を運ぶことができればいい。
やっていることは、それだけである。
LCACが砂浜へ上がるよりずっと昔、まだエアクッションという言葉さえなかったころに、同じ問題を考えていた軍隊があった。
日本陸軍である。
そして彼らが作った、一隻の小さな舟があった。
大発動艇。
通称を「大発」と呼ぶ。
我々のような軍事マニア、もしくは軍事オタクの中では「大発」というものはあまりにも当たり前の存在で、ヘタをすればいろんな場で便利使いされるモノである。実際、太平洋のさまざまな戦場、さまざまな港・拠点の中で当たり前に「ある」とされる存在であり、日本という量産体制が低い(笑)国力の中で、いったい何艇作られたか?
さて、話を「大発」にもどす。(無理矢理 笑)
このフネはなぜ作られたのか?
きっかけの一つとしてそれは第一次世界大戦に遡る。
ガリポリ上陸作戦。
英仏連合軍はダーダネルス海峡を突破し、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルへ至る道を開こうとした。ガリポリ半島へ大規模上陸を行う。艦載艇や手漕ぎ艇を使って兵を浜へ送り込み、機関銃・小銃・鉄条網・速射砲で守られた海岸へ正面から突っ込む、さまざまな問題が重なり作戦は膠着、そして最終的には大量の死傷者が出て撤退する。
日本陸軍は学ぶ。かなり真面目に研究した。渡洋上陸は「フネで現地まで兵を運べば終わり」ではない。フネから海岸まで、その最後の区間そのものが作戦の成否を決める。後に「船舶の神」とも称される田尻昌次らは1924年ごろから、当時まだ専用の上陸用舟艇を持っていなかった陸軍で、各種舟艇の開発と専門要員の養成を進めた。その後、1929年にはそのものずばり『千九百十五年ガリポリにおける上陸作戦』をまとめる。
砲は?車両は?弾薬は?糧秣は?
田尻らは単に兵だけを運ぼうとしたわけでは無い。
もちろん欧米も学んでなかったわけでは無い。
無防護の艦載艇中心だったのが、スヴラ湾上陸では浅喫水・自走式で、艇首から人員や動物を降ろせる装甲モーターライター、いわゆる “Beetle” が投入される。欧米においては「Australian War Memorial」は後世の上陸用舟艇の祖先と位置づけている。
(いろいろ調べたがよく分からん)
陸軍が最初から「大発」という完成された舟を考えていたわけではない。大発もしくは小発の「直前」には、いきなり専用上陸艇が現れたのではなく、かなり地味な試行段階があった。日清・日露戦争で陸軍は大規模な渡洋輸送と揚陸を経験する。輸送船を並べ、艀を曳き、工兵が浜に桟橋を架けた。そのような仕組み自体は既にあった。ただ3個師団と砲兵旅団の揚陸完了には9日ほどかかる。
その後、第一次大戦とガリポリの研究を経て、「船舶練習員制度」を作り、陸軍軍人自身に舟艇運用の専門教育を始める。大正5年には宇品の陸軍運輸部を拡充しつつ、上陸作戦向けに整える。揚陸や上陸を、単なる経験則ではなく独立した作戦体系として整理していった。
なんで陸軍で?
これは陸海軍が仲が悪かったから――だけではない。
陸兵の輸送と上陸そのものは陸軍。海上護衛は海軍。そういう仕事の分け方が、すでにできていた。……もちろん、その二つがいつも仲良く噛み合うかどうかは別の話である。
陸軍は1922年に研究資料「上陸作戦」、1924年に「上陸及び上陸防御作戦綱要案」をまとめ、このころから上陸作戦を独立した技術体系として整え始める。ただその頃に陸軍にはまだ専用上陸舟艇がなかった。
最初は、既存の舟をどう自走化するか、また今のフネを最終的に沖合から海岸へを研究した。
大正末期に陸軍運輸部が、日露戦争以来の木製艀・団平船にエンジンを付け自走化し上陸に使おうとした。1920年頃の演習で問題となる。艀では外洋でうまく使えない。その頃海外で実用化された船外機を付けるなどして自走化を試す。荒天時の性能が悪く、1922年の演習ではそのうちの多数が転覆する。さらに1925年の伊勢湾陸海軍協同演習で試作舟艇が転覆し、多数の溺死者が出た。当然の結論が出た。
「既存の舟に機関を付ければ済む話ではない」
専用のフネが、上陸・揚陸のための専用のフネが。
研究開発は進む。
「無理なものを無理と言っているだけだろう」
陸軍運輸部、その組織の中でのある研究会、淡々と進むはずの話し合いは一つの話題でストップした。
『上陸・揚陸用の舟艇の基本形を一つ設計して、その派生型で全てを回す』
分かりやすい考え方である。現代で言えば「車」を1車種作り上げ、共通のシャーシ・下回り・エンジンの元に、ボディーを変えて派生型を様々に生産することと近いだろう。では、分かりやすいから使いやすいか言うと…
「兵だけ運ぶものと、自動貨車を運ぶもの、大砲、戦車…その全てを一艇が担うことは無理だろう」
田尻昌次は席を立つと、会議室の黒板の、その記述を全て消す。チョークを持つと右側端の方に『船舶』、そして左側端の方に『海岸』と書く。
「この間に、どのようなフネが必要かをまずは考えたまえ」
再度席に着いた。そして静観した。
自己の考えはある。これまで何度もその頭の中で考えを巡らせてきたものだ。田尻以外の参加者が黒板を前にしてこれまでの知識や経験をもとに話し合いを続ける。
「ますば兵らを上陸させる動力船」
「何人乗せる?」
「あまり大きいと…」
「河川でも使用できないか?」
話は広がっていく。
「確かに戦車を揚げるフネは別の大きさでないと…」
「先行して岸までの様子をうかがうとして…」
「護衛できるフネがあれば…」
そして整理されていく。
・人員用の小発動艇
・火砲・車両も運べる大発動艇
・上陸部隊を援護する装甲艇
・偵察用の高速艇・指揮連絡用の高速艇
さらに大発より大きなものも必要とされた。
一隻のフネが出来た、という話ではなかった。
海から陸へ兵と物を送り込むために必要なフネが一つずつ増えていったのである。
それらはおおむね田尻が構想していたものを追認する形となった。目的が定まった真剣な思考は奇抜なものでない限りどれも似たような結果となりがちである。
昭和七年ごろには、それらを組み合わせた舟艇体系がおおむね形になった。
市原健蔵技師を中心とする技術陣が各種の舟艇設計を担当した。
『小発動艇』は鋼鉄製全長10.7メートル、初期型から改良を続け最終的には60馬力のディーゼルを積み、最大8ノット。兵30名もしくは3トンの物資を運べる。艇首には機関銃が装備できる。全通式の船底、フネの中央部付近にエンジン、そのすぐ後ろに操縦舵。特徴的なのはスクリューで、海底の砂や泥と触れても破損しにくいよう螺旋形状のもの(スパイラルスクリュー)が採用されている。
『大発動艇』は鋼鉄製全長14.8メートル、60馬力のディーゼルを積み、最大9ノット、兵70名もしくは 11トンの物資を運べる。(最量産型のD型には89式戦車が搭載できる)特徴的なのは一つに艇首、着岸時に歩板を前へ倒して、そのまま浜への道(道板・ランプ)として使用する。もう一つは艇尾の碇で、海岸に擱座前に碇を落として置き、その碇を巻上機で手繰るように岸から離れる。また耐波性と海岸達着時の安定性を高めるため、船首部の船底肋材を2本としていた。(船首から見ると底がW型となっている)
これまでの経験が生きた形。そして実際に作り、使われる中で使い勝手が問われ、また改良されていく。派生型が生ずる。
小発では『特種発動艇』。前線指揮・連絡用のもので、艇体は小発に近いが、機関を強化し、指揮艇としての速力を持たせた。
大発では大陸内陸部でもトラック等で運び込み、利用できるようにした『組立式大発』・『折畳式大発』。後年、八九式中戦車より大型の九七式中戦車に対応した『特大発動艇』(特大発)大発と同型の60馬力ディーゼルエンジンを2基搭載し、2軸推進とした。
また小発・大発の補助として、小型の戦闘艇(戦闘用舟艇)を同時期に開発する。上陸時の舟艇護衛・支援攻撃を目的とした砲艇である『装甲艇(AB艇)』、また上陸時の偵察を目的とした高速偵察艇として『高速艇甲(HB-K)』。この2艇、装甲艇は重武装ながら低速力、高速艇甲は確かに海軍を含めてもこれだけの高速小型艇はなかったが弱武装。
そのため、後年、高速艇を元に、偵察・哨戒・指令とともに、対魚雷艇・対潜水艦用のための重武装かつ高速な『駆逐艇(カロ艇)』が開発され生産される事になる。ただ皮肉なことに駆逐艇が量産され始めた昭和17年後期には大規模な上陸はなくなってしまい、活用される場はなくなったかのように見えた。出来上がった頃には戦争の方が変わっていたのだ。しかし陸軍としてはこの性能の高さに目を付けてまずはニューギニア方面に配備する。代わりに相手になったのは、潜水艦と高速魚雷艇だった。湾港の防備、大発等の護衛、対魚雷艇・潜水艦との哨戒・戦闘、最初に考えられていた以上に活躍の場を広げた。
さて話を先に進めすぎた。
小発・大発は量産を始める。鋼鉄製ではあるが、小発で自重3.5トン、大発で10トン余り、いくつもある地方の漁船用の建造会社でも十分に対応できる。(ちなみにその頃の漁船も木製が主流であるが鋼鉄製が大型を中心に増え始めていた)駆動部・エンジンさえ別に用意すれば船体を作ること自体は問題なかった。
エンジン? 小発は山岡発動機工作所(現ヤンマー)製の高速45馬力(後に60馬力)ディーゼルエンジン。大発は三菱製6気筒OHVディーゼル機関。よく出来た安定したエンジン。その頃の日本としても量産が比較的できるものだった。(終戦まで1万を超える量を生産するとは…)
ちなみに…
「大発」 = 「ダイハツ」(現在の車会社としての)
というへんてこりんなことを宣っていた意見が出て、大笑いしたことがある。
現在のダイハツと大発動艇は、名前の由来としてはまるっきり無関係。確かにダイハツの前身である「発動機製造株式会社」は戦前には陸軍の依頼でトラックの試作を行ったり、あの九五式小型乗用車の後継車の競作を提出、戦時中に舟艇用ディーゼル機関を製造しており、陸軍に採用されている。ディゼル機關 LH25 (25馬力)舟艇用エンジンとして。たぶん「大発」が戦後、実戦体験者の戦記の中で「ダイハツ」、「ダイハツ艇」と記されたことでの混乱が原因だろう。ダイハツが開発したのは本来既存艇へのエンジンである。ちなみに「ダイハツ」というのは愛称のようなものであり、戦前に作った三輪車「ダイハツ号」(トヨタの博物館に展示されている)という名も、それから取ったらしい。正式にダイハツと会社の名を変えたのは1951年(昭和26年)のことである。
せっかく作ったフネだから、まずは訓練を繰り返し、そして演習、陸軍だけの小規模なものから次第に大きくなる。海軍の手を加え、上陸の手段を整え、フネを改善し…それを経た上で、陸海軍合同の演習となる。
1929(昭和4)年の陸海軍協同演習。
場所は和歌山沿岸。ここで陸海軍は整備していた大発・小発、そしてそのシステム全体を実際に動かして、一個師団規模の払暁敵前上陸演習を行った。
「一個師団の兵力・戦力を夜明けにまとめて浜へ叩き込む」
当時、各国も上陸作戦の研究を進めていた。
その中で日本陸軍も、一個師団規模を実際に動かしてみる段階まで来ていた。少なくとも日本としては「いずれ」のことを考慮した上での演習であった。
しかも、ここで大事なのは舟艇だけではない。後の日本軍の渡洋上陸で当然のように使われる「二段上陸」、考え方は、
夜明け前に輸送船団は沖合約10浬、舟艇を海面へ降ろし、上陸第一波を舟艇で先行させる。第一波が浜へ向かっている間に輸送船団自体を岸へと接近していく。帰ってきた舟艇に第二波を乗せる。そう、第二波はその距離が短くなる。小発・大発への再搭載の時間を考えても生かせる。
まずは「奇襲性」、それを保ちつつ、後続部隊をなるべく早く送り込むための方法。
陸海軍の主要部はこの演習の結果にとりあえず満足した。間違いなく揚陸作戦自体の破綻はない。
(ホントかなぁ?)
海軍は小発・大発をむろん知っていた。が、この演習で再認識した。
「アレ、使えるよな」
海軍としてもこれまで自軍になかった装備である。使い勝手も悪くないようだ。そして海軍には陸上で戦うための陸戦隊がある。十分に使い道が見つかるはずだ。陸軍としても異論はない。海軍が加わるとすれば開発も進む。別の視点も必要である。自分の考え方が全てだということはない。
海軍も動き始める。
昭和七年三月一日の上海。
午前二時。暗闇の中で、輸送船から小発二十一隻が海面へ降ろされた。大発は六隻、小型輸送船ではデリックが十分に対応してないので浅喫水の汽船に曳かれてきた、数珠つなぎで。月明かりの下、兵は駆逐艦の舷側から縄梯子を伝って舟艇へ降りる。敵陣は今のところ静かだった。
小発・大発を操作するのは第5師団工兵大隊の船舶工兵、そして海軍からの援助隊30名も加わる。運艇要員として小発には4〜5名、大発には6〜8名程度。乗せられた兵らは装備を調えてそれぞれの艦艇にうずくまる。
午前5時20分、小発・大発は三つの舟艇群として集合する。5時25分、師団長からの言葉…「出発」。上陸は開始された。
岸まで1,200m。各艇隊は横隊へ開く。全速。
その頃になって、岸から機関銃が撃ち始めた。敵前へ装甲艇が踊り出る。砲と機関銃で岸を叩く。煙幕が水面へ広がった。
二百メートル。今度は先頭の小発も艇首機関銃を撃ち始めた。
陸軍第11師団主力約5,000名が、中国軍の背後にあたる揚子江沿岸へ敵前上陸する作戦。揚陸支援のために、装甲艇1・偵察艇1・伝令艇4・小蒸気船2・大発6・小発21。
師団輸送のために海軍の軽巡2・駆逐艦11隻などが使われた。が、重火器は運べず、小発は小型貨物船に積んで現地で降ろせたものの、大発と装甲艇は無理、独航も難しいため浅吃水の小汽船で曳航されて参戦した。
「七了口」
上海の一つの地名である。
その日、大発、小発、装甲艇、高速艇。陸軍運輸部が十年近くかけて揃えてきた舟が、まとめて実戦に出た。完成したと思っていたモノが颯爽と自力で戦場へ行ったわけではない。「便利な小舟」としては周囲の助力が必要である。そこでの体験と経験が次に繋がる。
「……これも、どうにかならんのか」
兵は駆逐艦の舷側から縄梯子を伝って舟艇へ降りるしかない。輸送船を使っても同様だろう。夜間、月明かりはその上陸時のものであり、今後は期待できない。今回は確かにその犠牲者が出なかったらしい。(上陸作戦全体で戦死2名)
車両や大砲、物資は船のデリックを使い甲板から小発・大発を降ろす必要もある。
今回は月明かりがあり、波風もさほどこの作業を邪魔しなかった。
許してくれた。
では、雨なら? 荒天なら? 敵艦・敵機が来たら?
それは、また別の問題だった。
上陸戦に参加した海軍も似たことを思った。
海軍艦艇による緊急輸送では舟艇や重装備を兵員と一緒に運べない問題を見いだした。陸戦隊を運ぶ時も同様であろう。
黒板に書かたものが、本当に一つのシステムとして働き出した。
しかし別の黒板が必要となった。
いかがだったでしょうか?
ほとんど史実になってますが、ちゃんと調べると難しいのですよ(; ;)ホロホロ
次は…ま、なんとかなるでしょ?(笑)
ではでは。




