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98式噴進砲 その16 (終戦、ペンシルロケットへと)

こんにちは。ポチです。


さてやっと最終回です。

いったいロケット兵器の話なのか、量産体制の話なのか…


そして手間は別にあります。


ではお楽しみください。


「何度探しても、神はいなかった」

        ユーリ・ガガーリン


    ◇           ◇



噴進砲・噴進弾は珍しいものではなくなる。


地上で使う。

『筒』と呼ばれる発射機は陸軍の7.5センチ、海軍の10センチ、それぞれ数名の兵だけで弾薬共々運べ、そして撃てた。配置転換もすぐにできる。対戦車・装甲車用のタ弾も幾つかの島で既に使われている。

『箱』と呼ばれる20センチは陸海軍共に使われた。運搬箱自体が発射機となっており、撃てばそのまま別の集積所に走れば良い。万一発射機に不具合があれば、図面を元に材木や丸太を組み合わせて発射機を自作できる。それこそ地面に斜面を築き、溝を掘るだけでも発射できる。

また、砲兵用の多連装のもの、開発が進んでいる戦車隊随伴のものも続いている。


フネで使う。

対空用の12.7センチ噴進砲はその後も改良を続け、発射機自体を軽量化、射撃装置も専用のものを用意した。弾自体も改良を重ねて弾道性も良くなってる。(以前に比べれば比較的…レベルではあるが…)駆逐艦には当たり前のように設置され、甲板に余裕のある輸送船、特に前線に赴く輸送船には優先的に設置された。中には電動駆動化して目標への追尾速度を上げたものもあった。それはマリアナでの第一機動艦隊空母の大半に配備された。地上配置で防空の一端を担っている

また対潜用のものも用意された。15センチ九連装の対潜噴進砲。従来の爆雷のような艦の後方へと落とすのではない、艦首方向へ対潜弾を投射する兵器。未だ実戦試験配備段階であったが、その搭載するフネの数は日に日に増え続けていた。誰かが必要と考えたからだ。


空で使う。

戦闘機や爆撃機、襲撃機などの単発機には工場から出る時点で発射架を固定するための金具が備えられている。

対地用の5.8センチ、7.5センチ

対艦用の7.5センチ、12.7センチ

そして対航空機用の7.5センチ、12.7センチ

陸用やフネ用とは異なり、陸海軍共用として開発が成され、その使い方が実戦の中で検討される。


さまざまな戦場で、さまざまな使い方がされていた。



最初の一滴は、自分が落とした波紋がどこまで広がったのかを知らない。



ペリリューで戦っている間にも、戦争は先へ進んでいた。

昭和十九年十月。アメリカ軍はフィリピンへ来た。

レイテ島。

アメリカ軍は学びを得、そして反省し、改善した。

徹底的に叩く。穴一つも見逃さない。

日本軍もフィリピンを失うつもりはなかった。そしてこれまでの学びを生かそうとした。

陸軍は兵を送った。海軍も残っている艦隊を出した。レイテ湾を巡って、もう一度大きな海戦が起きた。

互いにその学びは役立った。だが、それだけだった。

艦隊はそれぞれに傷つき、航空隊も減っていく。海上から島を救うことは難しくなる。

レイテの戦いは地上で続いた。次第に押されていく。陸軍は下がりながらもアメリカ軍の進行速度を遅くする。ここでも『筒』と『箱』があった。山の中にある。ジャングルの中にある。穴にある。そして占領された飛行場、進路の道路を狙う場所にもある。撃てるところで撃った。が、弾がなくなれば終わった。下がるしかない。

翌年一月。ルソン島。

守るのは第十四方面軍司令官、山下奉文大将。その司令部には、後に「マッカーサーの参謀」とまで呼ばれる情報参謀、堀栄三中佐がいた。

マニラで決戦せず兵力を山岳地帯へ分散させて持久戦を図る。日本軍は山へ入った。ここでも戦いは長く続く。それを短縮しようとアメリカ軍は戦車を前に押す。そして複数の噴進砲が撃破する。その後、戦車の周囲に歩兵を置く。次第に『筒』も『箱』も無くなっていく。


戦いは続いた。

だが、戦局はもうフィリピンでは動かなかった。



その頃の日本本土へは最初は数機、そして毎日のように大型爆撃機が来るようになっていた。マリアナから飛び立ったB-29である。

かつて日本軍が守っていた島の飛行場から、日本本土へ爆撃機が飛んでくる。


硫黄島。

二月十九日。米海兵隊が上陸した。

第109師団長兼小笠原兵団長。海岸での決戦を避け、島内の地下陣地・坑道・洞窟を使った持久戦。それを赴任する時には考えていた人物である。島は最初から掘られていた。海岸で全部を使わない。砲を隠す。弾薬を隠す。一番大切な人を隠す。撃つ場所を作り、その後ろにも撃つ場所を作る。そしてその穴や洞窟に小銃、機関銃、大砲、『筒』も『箱』もその中にいた。

海兵隊は上陸した。そして飛行場も取った。が、それでも戦いは終わらなかった。


穴を見つける、一つ潰す。次の穴から撃たれる。

20センチ噴進砲は当たり前のように使われた。中には45センチの噴進砲。

『バッフリーワッフリー』

赤ん坊の泣き声だ。その独特な音から、米兵たちはそう呼んだともいう。

戦車を呼ぶ。火炎放射器を呼ぶ。工兵を呼ぶ。そしてその幾つかが日本軍に潰される。

これまでの諸島戦で覚えた方法をアメリカ軍は使う、日本軍はさらに徹底していた。

結局、硫黄島も落ちる。それでも想定の時間、そして損害。物資の消耗。

島はアメリカ軍のものになった。


その日には、次の艦隊はもう沖縄へ向かっていた。



四月一日に始まる沖縄戦。

今度は小さな島ではなかった。地政学的に考えても日本だけではなく東アジアを抑える、そんな要地である。飛行場があり、港がある。町があり、村がある。子どもを中心に疎開した者も多かったが、かなりの住民がそこにとどまざるを得なかった。

海岸ではそれほど大きな抵抗を受けなかった。日本軍は海岸で決戦しなかった。飛行場はすぐさま占領されアメリカ軍に活用される。それも日本側からは計画のうちである。南部へ下がる。それも計画のうち。丘を掘り、山を掘り、そして地下壕としてつなぐ。

上陸したアメリカ軍は楽勝ムードの新兵と複雑な気持ちを持つ古兵、二つに分かれている。それでも進む。命令は「進め」だ。そして南へ行くほどに速度が落ちていく。日本軍の抵抗は小刻みなものではある。しかし止まるしかない。山影、岩影、穴.そしてまた穴。

一つずつ潰すしかない。

噴進砲は日本が沖縄戦を決意した時から積載された。これまでの量産品だけではない。試作、実戦実証品、なりふり構わなかった。硫黄島に送るはずが輸送の関係で留まっていたものもそこにはある。

『筒』と『箱』はもちろん、海軍が用意した45センチ、陸軍が用意した40センチ。砲兵用の六連装噴進砲、さらには運用を考え始めたばかりの「試製十五糎多連装噴進砲」「試製四式二十糎木製三連噴進砲」、何でも送る。あの爆弾を飛ばすためのロケットも用意され、秘密兵器とされていた「九八式320ミリ臼砲」。本土決戦用として倉庫に積み上げていたものも送った。そして沖縄で使った。


後方から大砲がうなる、上空には味方の戦闘機・爆撃機。これだけ使って何メートル進んだ? 1メートル、5メートル、10メートル。這うような速度に味方の兵が倒れていく。


海では別の戦いが続く。本土からの日本軍機が艦隊へ向かう。特攻機も数知れない。ピケット艦が前方へ、ただほとんどは少数艦隊なので潜水艦や、マルレ・震洋と呼ばれるモーターボートが迫る。特攻機ではなく噴進弾を抱えた戦闘機や爆撃機が襲う。

アメリカ海軍の防空側も慣れてきた。防空体制を整える、が、その隙間を探り次々と日本機が攻撃を繰り返した。何隻かは沈み、もっと多くが傷ついた。

だが艦隊そのものは消えなかった。


沖縄の組織的な戦闘も終わった。

もう、次に大きな島はなかった。


日本本土だった。



本土でも穴を掘っていた。

海岸を調べ、陣地を作り、砲を置く。

それぞれに使う兵器を配る。もちろん噴進砲も。新たにドイツからの情報も利用して無反動砲『五式45粍簡易無反動砲』という簡単な発射器を作りタ弾だけを短距離であっても飛ばせる物を作る。

B-29は日本各地を焼いていた。生産力は落ちた。輸送も乱れた。それでも、すべての工場が止まったわけではない。

が、数が足りない。火薬が足りない。鋼材が足りない。それでも作った。作るしかなかった。数が求められた。どんどん『公差』が緩くなる。そしてそれを前のように守ろうとした会社・工員の矜持もある。

だが、その兵器の多くは撃たれないままに終わった。

敵が本土へ上陸する前に、別の方向から戦争が終わったからである。


八月六日、広島。

九日、今度は長崎。


同じ日に満州では、まったく違う音がしていた。ソ連軍が国境を越えた。四年以上ヨーロッパで戦ってきた軍隊が、そのまま東へ運ばれてきた。三方向から進んだ。

関東軍も戦った。これまで太平洋の島で作ってきた戦い方とは条件が違った。島ではない。

次の防御地点へ下がろうとしたときには、そこへ向かう道そのものが使えなくなっている。待つ時間がなかった。

主力は南方へと行った。が、『筒』があった。工兵用の噴進砲も。

だが、兵器一つでどうにかできる速度ではなかった。これまで日本軍は、敵に時間を使わせようとしてきた。満州では、その時間を自分たちが与えてもらえなかった。


八月十五日。

戦争は終わる。工場にはまだ作りかけのものがあり、倉庫には完成した弾があった。本土の海岸部陣地に一度も撃たれていない発射器がある。

満州では、まだ戦闘が続いている場所もあった。南方には、何年も補給を待ったままの島が残されている。

命令が届く。

「撃つな」


戦争は終わった。


兵器としての噴進砲の歴史は、そこでいったん終わる。あれだけのモノがもう使われることが無くなる。

発注書はすでに来なくなる。

「一ヶ月後に、○万発必要だ」

そう言う人間はどこにもいなくなった。



作る理由を失った。

しばらくの間。




終戦から10年近くがたつ。


「ロケット?」

日本油脂武豊工場。中島飛行機の流れを持つ富士精密の戸田康明は

「はい。推進薬です、探してます」

そう言った。

1954年正月早々に虎ノ門の火薬協会を訪問した戸田は「ならば…」と目の前の人物を紹介される。元海軍技術将校で、現在は日本油脂の会社員である村田勉。

しばらく目をさまよわせると

「ちょっと待ってくれ」

と部屋を離れる。待つことしばし、

「あったよ」

と顔をほころばせながら村田が小さな箱を差し出す。

箱の中から出てきたのはダブルベース推進薬、直径9.5ミリ、内径2ミリ、長さ123ミリの中空円筒。『マカロニ』


「捨ててなくて良かったね」



東京に入手した推進薬を持って帰る。


「小さすぎませんか」

誰かが呟く。そこに糸川英夫が反応する。

「いいじゃないですか」

笑う。

「小さいから何度でも実験できる、第一、安くすむ」

その年の予算は支援企業分を合わせても330万円余り。安いというのはそれなりに正義だった。


推進薬に合わせて最初の実験体が設計される。富士精密工業荻窪工場には、戦争中の航空機用材料が残っていた。設計を担当した垣見恒男は残っていた戦時規格「チ-201」のジュラルミン丸棒なども利用して設計する。

 直径約18mm、全長23cm、重量約200g

玉木章夫の指示のもと、尾部には直線を組み合わせた形状の羽根が4枚。クリプトデルタ。

誰かが言う。

「鉛筆?」

糸川が笑う。

「良いじゃないか、『鉛筆ロケット』」

「先生、それでは周囲から笑われますよ」

周囲も笑う。


いつの頃からだったか。予算獲得のための「タイニー・ランス」という名称。その小さなロケットを、皆が「ペンシル」と呼ぶようになった。

誰が最初にそう呼んだのかは、もう分からない。


AVSA「航空電子工学及び超音速航空工学」研究班。東京大学生産技術研究所の中で1954年2月に正式発足した。中心となったのは糸川英夫。

 初期の開発意図はかなり壮大で、ロケットエンジンを使った将来の高速・高高度輸送機、いわゆる「大気界面飛行」高度二、三十キロほどの「大気界面」を超音速で飛ぶ。東京からサンフランシスコまで数時間。

だが、そのためにも、まずロケットそのものを知らなければならない。ただ、そのたための「宇宙へ飛ばすロケットを作ること」ではなく、「日本でもう一度、ロケットを作り、飛ばし、測る技術を組み立て直す」。

 敗戦後、GHQ占領下において日本の航空機を含む航空技術・軍備関連の研究開発を禁止されていた。これからの数年の研究開発の禁止・中止。飛行機関係の経験者は様々に散っていった。大学・自動車・鉄道・造船・製造機械…さまざまだ。

 1952年サンフランシスコ講和条約によってやっと解除された。AVSA研究班は高速飛翔体・ロケットの研究を始めた。しかし金が無い。そんな何になるか分からないモノに予算を使うならば別に使う。日本には液体ロケットの経験も技術もあった(あっただけ?)。ならばとりあえず使える固形ロケットを作り実験できるものから始めた。

基礎研究である。

推進薬がどう燃えるか、燃焼圧力はいくらか、推力はどれくらい出るか、重心を変えると飛び方はどう変わるか、尾翼の角度を変えるとどうなるか、ロケットをどう発射し、どう測定するか。

 国分寺、新中央工業の廃工場跡「旧銃器試射場」で高速度カメラ、撮影機が動く。ペンシルロケットは空ではなく、水平に、約1.5mのランチャーから自由飛翔する。1メートル間隔に張られた紙のスクリーン。それを突き破る位置を測って飛翔特性を調べる。ペンシルロケットが突き破りながら走る。一枚目、二枚目、三枚目…。14m先の砂場へ突っ込む。導線の切断時刻を電磁オッシログラフで測る。尾翼が紙に残した傷を見る。高速度カメラも回っている。


飛んだかどうかではない。

どう飛んだのかを測っていた。

最初の実験は終わった。

がやがやと周囲が騒がしくなる。

 「とりあえず撃てたな」

実験は何度も繰り返された。未だ空では無い。測る、走らせる、測る、条件を変える。そしてまた走らせる。


世界的に言えばロケットは液体ロケットへと続いていく。もちろん日本でも液体ロケットを開発した。

戦中の『秋水』から始まる開発は戦後に中止された時期を経る。途切れた研究はその推進力を期待され1960年代にLS-A、LS-Cで再出発される。液体はもう一度体系を作り直すのに時間がかかった。それでも着々と経験を積む中で大型の気象・通信衛星を早く静止軌道へ送りたいという要求や国内開発の技術・日程上の問題、さらに日米間の事情に従う形で米国のデルタ系技術を導入する新N計画へ切り替る。N-I → N-II → H-I。習った技術を積み上げて次第に国産へ。H-IIで、やっと日本初の「全段自主技術」の大型液体ロケットと位置づける。時間はかかった。が、その時間は無駄ではなかった。


では固形ロケットの系譜は

ペンシル→ベビー→カッパ→ラムダ→ミュー→M-V

大型衛星を精密に軌道へ運ぶ実用ロケットでは、確かに液体ロケットが大きな流れになっていったが、固形ロケットはその存在を示していった。


そして『イプシロン』



「一つで良いんだな?」


「とりあえず…」


その答えに職人は薄く笑った。


H-II系ロケットのSRB(補助ロケット)の先端部は東京都大田区の北嶋絞製作所がへら絞りでそれを手掛けた。

そして、武蔵村山市のナガセはイプシロンロケットのフェアリング先端部分をへら絞りで加工した。


大きな金属板が回る。

職人がへらを押し当てる。

少しずつ、何かの形になっていく。


ロケットは大きくなった。

だが、その頭を作っていたのは、金属板を回し、へらを押し当てる仕事だった。

鍋を作るのと、原理はそう変わらない。

ただし、これはロケットだった。

寸法。厚さ。表面。材料。

どれもが外れていい幅が決められている。




ただ、その向こう側には空があった。




お楽しみいただけましたか?

三勇士 → ペンシルロケット

への流れ。

で、結局のところ

「日本軍は言われているほどには生命軽視のものではなかったものの、戦局の流れの中で、結局はそのように見えるようになった」

という、まあ、当然のオチなのです。


さて、次は…

ちょっと考えてます。

できれば早めに揚げていきます。


ではでは。

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